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7. 後悔の先に
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「はぁ……」
世界樹の客人、蓮見 咲玖が訪れてから少しだけ賑わいをましたオスマンサス公爵家では、この家の当主、ラインハルトの大きなため息が執務室の中に響いていた。
ため息の原因はわかっている。このところ公爵家に毎日訪れているフォレド王国の商人、ユーリのせいだ。
母方のいとこにあたるユーリとは、年齢も近いことから子供のころから付き合いがある。幼い頃から公爵家の跡継ぎとして期待とプレッシャーの中で生きてきたラインハルトは、いつも自由気ままで、何ものにも縛られないユーリを少し苦手に思っていた。正直に言えば羨ましさもあったのだろう。
その苦手意識をいまだに引きずり、『サクを連れて行く』と言われたときに何も言えなかった己の弱さが悔やまれてならない。
どうしたら咲玖を引き留められるのかずっと考えているが、何も思い浮かばず、そのせいでここ数日、仕事にも集中できないし、夜も眠れない。総じて絶不調だ。
ラインハルトがうじうじと悩んでいる間に、ユーリは持ち前の明るさであっという間に咲玖と仲良くなった。夕食の際にユーリのことを楽しげに話す咲玖を見ては年甲斐もなく嫉妬心が湧いた。それを悟られないように必死に取り繕う姿があまりに滑稽で、これまで培ってきた自信など一気に崩れ落ちていってしまった。
もしかしたら、咲玖がオスマンサス公爵家に訪れたのは、居所が定まらないユーリと出会うための場所として選ばれただけに過ぎなかったのではないかと最近は真剣にそう思ってしまう。
もちろん、公爵家にいて欲しい。
咲玖が訪れてからまだたった一カ月しかたっていないのだから、時間を掛ければラインハルトにも心を開いてくれるかもしれないと、悠長に構えていた自分の愚かさが恨めしい。
こんな状況になってようやく心に燻っていた自分の気持ちの正体に気が付くなど、自分でもほとほと呆れるしかなかった。
初めて会った時からもうずっと咲玖のことが愛おしくて仕方がない。
何をしていても咲玖のことばかり考えてしまう。
咲玖のためなら何でもしてやりたい。
もしいなくなってしまったらと考えるだけで胸が張り裂けそうになる。
そして、誰にも奪われたくない。
こんな正負が入り乱れる感情をきっと“恋”と呼ぶのだろう。
それが心の奥底に押し込んでいる欲望から来るものなのか、純粋な愛しさからくるものなのかは正直まだ判断できないが、この歳になってまさか自分にこんな感情が生まれるなんて思いもしなかった。
遅すぎる初恋と、望みの薄さにため息しか出ない。
考えてもどうにもならないことはひとまず置いておこうと、執務机に積まれた書類の束に手を掛けると、強くドアと叩く音が聞こえた。
「どうした?」
勢いよくドアを開けて入ってきたオットーは、これまでに聞いたことがないような焦った声を上げた。
「旦那様、サク様がいらっしゃいません」
「どういうことだ?!」
オットーは今日、午後から咲玖と勉強をする約束をしていたという。ところが時間になっても咲玖が現れないため、心当たりを捜してみたがその姿はなく、カールも昼食後から見ていないと言う。使用人たちを集めて屋敷中を捜している最中だが、まだ見つかっておらず、これはただ事ではないと急いでラインハルトに報告に来たところだった。
「最後にサク様をお見かけしたのはカールで、昼食後、ユーリウス様と一緒にいらっしゃったそうです。ですが、ユーリウス様は本日サク様とご歓談はされず、すでに屋敷を出ています」
咲玖には屋敷からは出ないように言ってあるし。おそらく一人で出て行くようなことはしないだろう。とは言っても、警備体制を万全に敷いているこの屋敷から誰かに連れ去られたという可能性も低い。
――まさか、元の世界に……。
浮かんだ考えてに指先が冷たくなり、体から力が抜けていく。だが、今はまだ崩れ落ちる時ではない。大切なのは、冷静に状況を把握することだ。ラインハルトは力の入らない膝を無理やり動かし、立ち上がった。
「すぐにユーリを呼んでくれ。話を聞く」
しかし、呼び出すまでもなく、ユーリが突然、部屋の中に駆け込んできた。
「ラインハルト、大変だ! サクが連れていかれた!」
「連れていかれた?! どういうことだ?」
「二人で街に行って、目を離したすきに……」
その言葉聞いた瞬間、ラインハルトはユーリの襟首を両手でつかみ、持ち上げた。
「サクを勝手に屋敷から連れ出したのか!」
「……」
目線を逸らし、何も言わないユーリを怒りに任せて殴りつけてしまいたい気持ちをグッと堪え、掴んだ手をドンと突き離した。今はこんなことをしている場合ではない。
「オットー! すぐに街の警備隊に捜索を要請してくれ。私も衛兵と共に出る」
公爵家の衛兵を引き連れて馬で街に向かい、すでに捜索を始めていた街の警備隊と合流した。警備隊の隊長に話を聞くと、海沿いで白いローブを被った少年が男に絡まれ、路地裏へ連れていかれたという目撃情報があったという。白いローブは街へ行くために、とラインハルトが用意したもののうち、唯一咲玖が受け取ってくれたものだ。
その連れていかれた“少年”が咲玖で間違いないだろう。
「サクが見つかるまで船の出航は全て止めろ」
警備兵には街中の捜索、衛兵には船の出入りを監視するよう命じた。
停泊する船は外国籍のものが多く、いくらこの街の領主とはいえ長時間出航を止めておくことはできないし、港を出てしまえばラインハルトの権力は及ばなくなる。一刻の猶予もないことを知らせるように、すでに海には夕陽が浮かんでいた。
――サク、どこにいるんだ……どうか無事でいてくれ……!
ラインハルトはユーリと共に警備隊に加わり、裏路地へと足を踏み入れた。
港近くの裏路地は細く入り組んでおり、まるで奥に向かって闇が広がっているように見える。手に持ったつたない明かりを頼りに進むにつれ、闇が鎖のように体に巻き付き、最悪な結果を耳元で囁く。いつもより何十倍も重く感じる体を引きずるように前に進めるたびに、恐怖で顔が引きつれた。
「お前のそんな顔、初めて見た」
「きみの方こそ」
さすがのユーリもいつもの陽気さは影を潜め、険しい顔をしている。“そんな顔”と言うのであれば、完全にお互い様だ。
「……ラインハルト、俺は」
「話はサクが見つかってから聞く。今は捜索に集中しろ」
今ユーリの話を聞いている心の余裕はない。沸き上がる怒りを抑え込むように、ラインハルトはさらに足を早めた。
たくさんの分かれ道を当てもないまま進んできたが、これでいいのかという焦燥感だけが募っていく。いったん落ち着こうと、陽が落ちて冷たさを帯び始めた夜の空気を鼻からグッと吸い込む。
その瞬間、嗅ぎ慣れた甘い香りが一瞬、鼻孔を通り抜けた。
――この香りは……?!
嗅ぎ慣れたこの香りは、間違いなくオスマンサス公爵家の香りであり、咲玖の香りでもある、甘い金木犀の香り。
ここには金木犀の木は植えられていないし、そもそも花の時期は終わっている。
――まさか、サク……!
ラインハルトはその香りが漂う方向へと駆け出した。
「おい! ラインハルト!」
一緒にいたユーリも、警備隊の兵たちも置き去りにし、ようやくたどり着いたのは何の変哲もない古びた小屋だった。
だが、その小屋からは眩暈がするほど甘い金木犀の香りがする。
持っていた明かりを地面に置き、少しずつドアを押して中を覗き込む。真っ暗な小屋の中には誰もいないように見えたが、奥で何かが少しだけ動いた気配がした。
「誰かいるのか……?!」
開いたドアから差し込んだ月明かりの先には、口を布でふさがれ、手と足を縛られた咲玖が横わたっていた。
「サク!!!!」
ぐったりと横たわる咲玖に駆け寄り、抱き上げて急いで口を塞ぐ布を外す。必死で名を呼び続けると、ピクリと長い睫毛が揺れ、ゆっくりと瞼が開いた。
「サク! サク!! わかるか?! 私だ!」
「……ら、い……?」
小さく開いた口からこぼれた声に安堵し、全身の力が抜けていく。
「あぁよかった……」
まだぐったりとしている華奢な体をぎゅっと抱き寄せると、甘い香りがラインハルトを包み込んだ。
「ライ……っ! 後ろ!!!」
咲玖の声と共に月明かりが突然現れた陰に揺れた。
キンッと金属同士がぶつかる音の後、大きなものが何かにぶつかって倒れるような音が響く。再び差し込んだ月明りが照らしたのは、うめきながら床に転がるスキンヘッドの男だった。
ラインハルトが咄嗟に腰に携えていた剣で振り下ろされたナイフと共に男を押し飛ばしたのだ。
「お前がサクを攫った男か」
その男に剣先を突き付け、その肩をグッと右足で踏みつけて自由を奪う。その男はラインハルトを見上げ、驚きと恐怖で目を見開いていた。
「ま、まさか公爵……?!」
「あぁ、その通り。私はバーデルンの領主、ラインハルト・フォン・オスマンサスだ。我が客人を拐かし、傷つけた罪は重いぞ。決して許さん。覚悟しておくんだな」
ようやくラインハルトに追いついてきた警備隊に男の捕縛を任せ、ラインハルトは再び咲玖の元に戻った。
「サク、ケガをしているだろう。どこだ?」
「えっ? あっ、手を少しすりむいて……」
咲玖が広げた掌には血が滲んでいた。そこから特に強く甘い香りがする。じいっとそのケガを見つめながら、ラインハルトはゴクリと喉を鳴らした。完全に無意識だった。
だが、それに気が付いたのか、咲玖はパッと手を引っ込めてしまった。
「すまない、他にケガはないか? 痛いところは?」
「うん、大丈夫……」
「そうか、本当に無事でよかった。さぁ、帰ろう」
そう言ってラインハルトが咲玖を抱え上げると、咲玖は驚いて声を上げた。
「すまないが、少しだけ我慢してくれ。抱えていないとまたいなくなってしまいそうで不安なんだ」
思わず本音がポロリとこぼれた。余計なことを言ったとは思ったが、それでももう離す気はない。ギュッと腕に力を込め、さらに抱き寄せると、咲玖は嫌がるどころかラインハルトの服をぎゅっと握り、胸に顔を摺り寄せた。
咲玖を抱えたまま馬に乗り、屋敷に戻ると、帰りを待ちかねていた使用人たちが駆け寄ってきた。咲玖の専属メイドであるアルマとエリーゼは涙を流しながら、咲玖の帰りを喜んでいる。二人に咲玖を任せ、ラインハルトは執務室へ戻ってユーリを呼んだ。
「ユーリ、どういう了見で咲玖を屋敷から連れ出した」
ラインハルトは執務机の椅子に腰を掛けたまま、その前に立ったユーリを睨みつけた。
「……俺と一緒におると楽しいことがぎょうさんあるって思うてほしかったんや」
さすがのユーリもうつむいてシュンと肩を落としている。ラインハルトは深いため息を吐き、ギュッと机の上で拳を握った。
「『世界樹の客人』がどれだけ貴重な存在かきみも知っているだろう。それなのに護衛もつけず、勝手に連れ出すなんて何を考えているんだ。挙句の果てに危険な目に合わせるなんて……」
「でも、こんなことになるなんて普通、思わんやろ!」
拗ねた子供のような物言いをするユーリにさらに苛立ちが増し、思わず机をドンと拳でたたいた。
「ふざけるな! 私がどれほどサクを大切にしてきたか……。もし、サクが無事でなかったら、今この場でお前を叩き切っていた!」
幸い今回は掌を擦りむいただけで、大きなケガはなかった。それでも、大きな男に縛られ、暗いところに閉じ込められるなんて、どれほど怖かっただろう。
ここに来た当初、怯える咲玖に安心してもらうためどれほど心を砕いたか。ようやくここでの生活にも慣れ、笑顔で過ごしてくれるようになったのに。
それなのに、結局怖い思いをさせてしまった。
だが、初めからユーリに「サクに近づくな」とさえ言えていれば、こんなことは起こらなかった。これはラインハルトの弱さが引き起こしたことなのだ。後悔してもしきれない。
自身の不甲斐なさと止められない怒りで、握った拳に爪が食い込んでいく。
「もうサクに会うことは許さん。明日、この国を出ろ」
「そんな一方的な……!」
「はじめからこうしておけばよかった。そうすればこんなことは起こらなかった!」
「待って!!」
「サク?!」
突然部屋に飛び込んできた咲玖はどうやら廊下でラインハルトとユーリの会話を聞いていたようだった。
「俺がいけなかったんだ。公爵様の言いつけを破って街に出たから……。ユーリは悪くないんだ。だから、許してあげて」
咲玖の言葉に思わずラインハルトは奥歯をギリっと噛む。
ユーリを必死に庇うこと。
ラインハルトのことは『公爵様』と呼ぶのに、ユーリのことは名で呼んでいること。
その言葉全てに腹の底から黒い感情が沸き上がり、爪の食い込む拳が震える。
――ユーリを選ぶというのか……!
堪えられない感情を咲玖にぶつけてしまいそうで下を向くと、震える拳がそっと温かさに包み込まれた。
驚いてあげた視線の先には、涙をグッと堪えながらラインハルトの手を握る咲玖がいた。
「ごめんなさい。心配かけてしまって、本当にごめんなさい。もう絶対にこんなことしない」
咲玖の手から伝わる温度で、握った拳が緩んでいく。大きな黒い瞳に浮かぶ今にもこぼれ落ちそうな涙をそっと拭うと、またあの甘い香りがした。
「……俺も、すまんかった」
商人としての性なのか、それとも生来の性格なのか、これまで頑なに謝罪の言葉を口にしなかったユーリもさすがに観念したようだ。それでもやはりその表情は“反省している”と言うよりは“ふてくされている”という表現がピタッと来る。これではもちろん許すことはできない。ラインハルトは立ち上がり、ユーリと咲玖の間に立った。
「私も少し感情的になっていた。とはいえ、咲玖の頼みだとしてもそう簡単に許すことはできない。償いは別途してもらうとして、まずは今ここで“ユーリウス”としてオスマンサス公爵家への正式な謝罪を要求する」
ラインハルトの言葉に、ユーリはグッと息を止め、少し悩むようなしぐさを見せてから、ふうっと息を吐き、胸に手を当ててラインハルトに頭を下げた。
「オスマンサス公爵、貴家の客人を危険な目に合わせてしまい、本当に申し訳なかった。ユーリウス・フォン・パルミエの名において、必ず償うと約束する」
「えっ、ユーリって貴族なの?!」
「なんだ、言ってなかったのか?」
「あ、あぁ……身分を笠に着るのは好かんからな……」
「サク、正確にはユーリは王族だ。フォレド王国の第三王子で、私の母方のいとこにあたる」
大方、ラインハルトが咲玖に『公爵様』と呼ばれているのを聞き、自分も素性がばれたら咲玖に距離を取られるかもしれないと思って明かしていなかったのだろう。ユーリのばつの悪そうな顔をみて少しだけ胸のすく思いがした。自分でも小さい男だとは思うが、このくらいの仕返しくらいは大目に見て欲しい。
「ユーリウス、サクに免じて謝罪を受け入れる。どう償ってもらうかについてはまた明日決めるとしよう。サクも疲れただろう。今日はもう休もう」
まだ解決していない問題はたくさんあるが、今日はさすがにラインハルトも疲れてしまった。咲玖を部屋に送り、ラインハルトも私室に戻った。
倒れ込むようにベッドに横になったが、疲れているはずなのになかなか寝付けない。
自覚してしまった咲玖への恋心。
浮き彫りになった自分の弱さ。
そして、咲玖の選択。
山積みの問題が頭の中を回り続ける。
きっと今日も寝られないだろう。そう思って起き上がり、オットーが部屋に用意してくれた“完全栄養食品”を口に運ぶ。一つ食べ終え、指に付いて残ったかけらをぺろりと舐めた瞬間、感じるはずのない“味”が雷のように舌の上をビリビリと走った。
――あま、い……? これは……。
突然の衝撃に痛いほど早く動き始めた心臓に落ち着けと命じながら、もう一度その指を口に入れる。さっきほどの強烈な“味”はもうしなかったが、それでもやはりほんのりと甘い。
その“味”に腹の奥底に抑え込んでいた欲望が沸き上がってくる。
当然、指自体が甘いはずはない。
――やはり……。
その指は、さっき咲玖の涙をぬぐった指だった。
もしかしたらこれが一番解決しなければならない問題かもしれないという予感と共に、呆然としながらその指を眺めていると、コンコンッ――と小さく部屋のドアを叩く音が聞こえた。
世界樹の客人、蓮見 咲玖が訪れてから少しだけ賑わいをましたオスマンサス公爵家では、この家の当主、ラインハルトの大きなため息が執務室の中に響いていた。
ため息の原因はわかっている。このところ公爵家に毎日訪れているフォレド王国の商人、ユーリのせいだ。
母方のいとこにあたるユーリとは、年齢も近いことから子供のころから付き合いがある。幼い頃から公爵家の跡継ぎとして期待とプレッシャーの中で生きてきたラインハルトは、いつも自由気ままで、何ものにも縛られないユーリを少し苦手に思っていた。正直に言えば羨ましさもあったのだろう。
その苦手意識をいまだに引きずり、『サクを連れて行く』と言われたときに何も言えなかった己の弱さが悔やまれてならない。
どうしたら咲玖を引き留められるのかずっと考えているが、何も思い浮かばず、そのせいでここ数日、仕事にも集中できないし、夜も眠れない。総じて絶不調だ。
ラインハルトがうじうじと悩んでいる間に、ユーリは持ち前の明るさであっという間に咲玖と仲良くなった。夕食の際にユーリのことを楽しげに話す咲玖を見ては年甲斐もなく嫉妬心が湧いた。それを悟られないように必死に取り繕う姿があまりに滑稽で、これまで培ってきた自信など一気に崩れ落ちていってしまった。
もしかしたら、咲玖がオスマンサス公爵家に訪れたのは、居所が定まらないユーリと出会うための場所として選ばれただけに過ぎなかったのではないかと最近は真剣にそう思ってしまう。
もちろん、公爵家にいて欲しい。
咲玖が訪れてからまだたった一カ月しかたっていないのだから、時間を掛ければラインハルトにも心を開いてくれるかもしれないと、悠長に構えていた自分の愚かさが恨めしい。
こんな状況になってようやく心に燻っていた自分の気持ちの正体に気が付くなど、自分でもほとほと呆れるしかなかった。
初めて会った時からもうずっと咲玖のことが愛おしくて仕方がない。
何をしていても咲玖のことばかり考えてしまう。
咲玖のためなら何でもしてやりたい。
もしいなくなってしまったらと考えるだけで胸が張り裂けそうになる。
そして、誰にも奪われたくない。
こんな正負が入り乱れる感情をきっと“恋”と呼ぶのだろう。
それが心の奥底に押し込んでいる欲望から来るものなのか、純粋な愛しさからくるものなのかは正直まだ判断できないが、この歳になってまさか自分にこんな感情が生まれるなんて思いもしなかった。
遅すぎる初恋と、望みの薄さにため息しか出ない。
考えてもどうにもならないことはひとまず置いておこうと、執務机に積まれた書類の束に手を掛けると、強くドアと叩く音が聞こえた。
「どうした?」
勢いよくドアを開けて入ってきたオットーは、これまでに聞いたことがないような焦った声を上げた。
「旦那様、サク様がいらっしゃいません」
「どういうことだ?!」
オットーは今日、午後から咲玖と勉強をする約束をしていたという。ところが時間になっても咲玖が現れないため、心当たりを捜してみたがその姿はなく、カールも昼食後から見ていないと言う。使用人たちを集めて屋敷中を捜している最中だが、まだ見つかっておらず、これはただ事ではないと急いでラインハルトに報告に来たところだった。
「最後にサク様をお見かけしたのはカールで、昼食後、ユーリウス様と一緒にいらっしゃったそうです。ですが、ユーリウス様は本日サク様とご歓談はされず、すでに屋敷を出ています」
咲玖には屋敷からは出ないように言ってあるし。おそらく一人で出て行くようなことはしないだろう。とは言っても、警備体制を万全に敷いているこの屋敷から誰かに連れ去られたという可能性も低い。
――まさか、元の世界に……。
浮かんだ考えてに指先が冷たくなり、体から力が抜けていく。だが、今はまだ崩れ落ちる時ではない。大切なのは、冷静に状況を把握することだ。ラインハルトは力の入らない膝を無理やり動かし、立ち上がった。
「すぐにユーリを呼んでくれ。話を聞く」
しかし、呼び出すまでもなく、ユーリが突然、部屋の中に駆け込んできた。
「ラインハルト、大変だ! サクが連れていかれた!」
「連れていかれた?! どういうことだ?」
「二人で街に行って、目を離したすきに……」
その言葉聞いた瞬間、ラインハルトはユーリの襟首を両手でつかみ、持ち上げた。
「サクを勝手に屋敷から連れ出したのか!」
「……」
目線を逸らし、何も言わないユーリを怒りに任せて殴りつけてしまいたい気持ちをグッと堪え、掴んだ手をドンと突き離した。今はこんなことをしている場合ではない。
「オットー! すぐに街の警備隊に捜索を要請してくれ。私も衛兵と共に出る」
公爵家の衛兵を引き連れて馬で街に向かい、すでに捜索を始めていた街の警備隊と合流した。警備隊の隊長に話を聞くと、海沿いで白いローブを被った少年が男に絡まれ、路地裏へ連れていかれたという目撃情報があったという。白いローブは街へ行くために、とラインハルトが用意したもののうち、唯一咲玖が受け取ってくれたものだ。
その連れていかれた“少年”が咲玖で間違いないだろう。
「サクが見つかるまで船の出航は全て止めろ」
警備兵には街中の捜索、衛兵には船の出入りを監視するよう命じた。
停泊する船は外国籍のものが多く、いくらこの街の領主とはいえ長時間出航を止めておくことはできないし、港を出てしまえばラインハルトの権力は及ばなくなる。一刻の猶予もないことを知らせるように、すでに海には夕陽が浮かんでいた。
――サク、どこにいるんだ……どうか無事でいてくれ……!
ラインハルトはユーリと共に警備隊に加わり、裏路地へと足を踏み入れた。
港近くの裏路地は細く入り組んでおり、まるで奥に向かって闇が広がっているように見える。手に持ったつたない明かりを頼りに進むにつれ、闇が鎖のように体に巻き付き、最悪な結果を耳元で囁く。いつもより何十倍も重く感じる体を引きずるように前に進めるたびに、恐怖で顔が引きつれた。
「お前のそんな顔、初めて見た」
「きみの方こそ」
さすがのユーリもいつもの陽気さは影を潜め、険しい顔をしている。“そんな顔”と言うのであれば、完全にお互い様だ。
「……ラインハルト、俺は」
「話はサクが見つかってから聞く。今は捜索に集中しろ」
今ユーリの話を聞いている心の余裕はない。沸き上がる怒りを抑え込むように、ラインハルトはさらに足を早めた。
たくさんの分かれ道を当てもないまま進んできたが、これでいいのかという焦燥感だけが募っていく。いったん落ち着こうと、陽が落ちて冷たさを帯び始めた夜の空気を鼻からグッと吸い込む。
その瞬間、嗅ぎ慣れた甘い香りが一瞬、鼻孔を通り抜けた。
――この香りは……?!
嗅ぎ慣れたこの香りは、間違いなくオスマンサス公爵家の香りであり、咲玖の香りでもある、甘い金木犀の香り。
ここには金木犀の木は植えられていないし、そもそも花の時期は終わっている。
――まさか、サク……!
ラインハルトはその香りが漂う方向へと駆け出した。
「おい! ラインハルト!」
一緒にいたユーリも、警備隊の兵たちも置き去りにし、ようやくたどり着いたのは何の変哲もない古びた小屋だった。
だが、その小屋からは眩暈がするほど甘い金木犀の香りがする。
持っていた明かりを地面に置き、少しずつドアを押して中を覗き込む。真っ暗な小屋の中には誰もいないように見えたが、奥で何かが少しだけ動いた気配がした。
「誰かいるのか……?!」
開いたドアから差し込んだ月明かりの先には、口を布でふさがれ、手と足を縛られた咲玖が横わたっていた。
「サク!!!!」
ぐったりと横たわる咲玖に駆け寄り、抱き上げて急いで口を塞ぐ布を外す。必死で名を呼び続けると、ピクリと長い睫毛が揺れ、ゆっくりと瞼が開いた。
「サク! サク!! わかるか?! 私だ!」
「……ら、い……?」
小さく開いた口からこぼれた声に安堵し、全身の力が抜けていく。
「あぁよかった……」
まだぐったりとしている華奢な体をぎゅっと抱き寄せると、甘い香りがラインハルトを包み込んだ。
「ライ……っ! 後ろ!!!」
咲玖の声と共に月明かりが突然現れた陰に揺れた。
キンッと金属同士がぶつかる音の後、大きなものが何かにぶつかって倒れるような音が響く。再び差し込んだ月明りが照らしたのは、うめきながら床に転がるスキンヘッドの男だった。
ラインハルトが咄嗟に腰に携えていた剣で振り下ろされたナイフと共に男を押し飛ばしたのだ。
「お前がサクを攫った男か」
その男に剣先を突き付け、その肩をグッと右足で踏みつけて自由を奪う。その男はラインハルトを見上げ、驚きと恐怖で目を見開いていた。
「ま、まさか公爵……?!」
「あぁ、その通り。私はバーデルンの領主、ラインハルト・フォン・オスマンサスだ。我が客人を拐かし、傷つけた罪は重いぞ。決して許さん。覚悟しておくんだな」
ようやくラインハルトに追いついてきた警備隊に男の捕縛を任せ、ラインハルトは再び咲玖の元に戻った。
「サク、ケガをしているだろう。どこだ?」
「えっ? あっ、手を少しすりむいて……」
咲玖が広げた掌には血が滲んでいた。そこから特に強く甘い香りがする。じいっとそのケガを見つめながら、ラインハルトはゴクリと喉を鳴らした。完全に無意識だった。
だが、それに気が付いたのか、咲玖はパッと手を引っ込めてしまった。
「すまない、他にケガはないか? 痛いところは?」
「うん、大丈夫……」
「そうか、本当に無事でよかった。さぁ、帰ろう」
そう言ってラインハルトが咲玖を抱え上げると、咲玖は驚いて声を上げた。
「すまないが、少しだけ我慢してくれ。抱えていないとまたいなくなってしまいそうで不安なんだ」
思わず本音がポロリとこぼれた。余計なことを言ったとは思ったが、それでももう離す気はない。ギュッと腕に力を込め、さらに抱き寄せると、咲玖は嫌がるどころかラインハルトの服をぎゅっと握り、胸に顔を摺り寄せた。
咲玖を抱えたまま馬に乗り、屋敷に戻ると、帰りを待ちかねていた使用人たちが駆け寄ってきた。咲玖の専属メイドであるアルマとエリーゼは涙を流しながら、咲玖の帰りを喜んでいる。二人に咲玖を任せ、ラインハルトは執務室へ戻ってユーリを呼んだ。
「ユーリ、どういう了見で咲玖を屋敷から連れ出した」
ラインハルトは執務机の椅子に腰を掛けたまま、その前に立ったユーリを睨みつけた。
「……俺と一緒におると楽しいことがぎょうさんあるって思うてほしかったんや」
さすがのユーリもうつむいてシュンと肩を落としている。ラインハルトは深いため息を吐き、ギュッと机の上で拳を握った。
「『世界樹の客人』がどれだけ貴重な存在かきみも知っているだろう。それなのに護衛もつけず、勝手に連れ出すなんて何を考えているんだ。挙句の果てに危険な目に合わせるなんて……」
「でも、こんなことになるなんて普通、思わんやろ!」
拗ねた子供のような物言いをするユーリにさらに苛立ちが増し、思わず机をドンと拳でたたいた。
「ふざけるな! 私がどれほどサクを大切にしてきたか……。もし、サクが無事でなかったら、今この場でお前を叩き切っていた!」
幸い今回は掌を擦りむいただけで、大きなケガはなかった。それでも、大きな男に縛られ、暗いところに閉じ込められるなんて、どれほど怖かっただろう。
ここに来た当初、怯える咲玖に安心してもらうためどれほど心を砕いたか。ようやくここでの生活にも慣れ、笑顔で過ごしてくれるようになったのに。
それなのに、結局怖い思いをさせてしまった。
だが、初めからユーリに「サクに近づくな」とさえ言えていれば、こんなことは起こらなかった。これはラインハルトの弱さが引き起こしたことなのだ。後悔してもしきれない。
自身の不甲斐なさと止められない怒りで、握った拳に爪が食い込んでいく。
「もうサクに会うことは許さん。明日、この国を出ろ」
「そんな一方的な……!」
「はじめからこうしておけばよかった。そうすればこんなことは起こらなかった!」
「待って!!」
「サク?!」
突然部屋に飛び込んできた咲玖はどうやら廊下でラインハルトとユーリの会話を聞いていたようだった。
「俺がいけなかったんだ。公爵様の言いつけを破って街に出たから……。ユーリは悪くないんだ。だから、許してあげて」
咲玖の言葉に思わずラインハルトは奥歯をギリっと噛む。
ユーリを必死に庇うこと。
ラインハルトのことは『公爵様』と呼ぶのに、ユーリのことは名で呼んでいること。
その言葉全てに腹の底から黒い感情が沸き上がり、爪の食い込む拳が震える。
――ユーリを選ぶというのか……!
堪えられない感情を咲玖にぶつけてしまいそうで下を向くと、震える拳がそっと温かさに包み込まれた。
驚いてあげた視線の先には、涙をグッと堪えながらラインハルトの手を握る咲玖がいた。
「ごめんなさい。心配かけてしまって、本当にごめんなさい。もう絶対にこんなことしない」
咲玖の手から伝わる温度で、握った拳が緩んでいく。大きな黒い瞳に浮かぶ今にもこぼれ落ちそうな涙をそっと拭うと、またあの甘い香りがした。
「……俺も、すまんかった」
商人としての性なのか、それとも生来の性格なのか、これまで頑なに謝罪の言葉を口にしなかったユーリもさすがに観念したようだ。それでもやはりその表情は“反省している”と言うよりは“ふてくされている”という表現がピタッと来る。これではもちろん許すことはできない。ラインハルトは立ち上がり、ユーリと咲玖の間に立った。
「私も少し感情的になっていた。とはいえ、咲玖の頼みだとしてもそう簡単に許すことはできない。償いは別途してもらうとして、まずは今ここで“ユーリウス”としてオスマンサス公爵家への正式な謝罪を要求する」
ラインハルトの言葉に、ユーリはグッと息を止め、少し悩むようなしぐさを見せてから、ふうっと息を吐き、胸に手を当ててラインハルトに頭を下げた。
「オスマンサス公爵、貴家の客人を危険な目に合わせてしまい、本当に申し訳なかった。ユーリウス・フォン・パルミエの名において、必ず償うと約束する」
「えっ、ユーリって貴族なの?!」
「なんだ、言ってなかったのか?」
「あ、あぁ……身分を笠に着るのは好かんからな……」
「サク、正確にはユーリは王族だ。フォレド王国の第三王子で、私の母方のいとこにあたる」
大方、ラインハルトが咲玖に『公爵様』と呼ばれているのを聞き、自分も素性がばれたら咲玖に距離を取られるかもしれないと思って明かしていなかったのだろう。ユーリのばつの悪そうな顔をみて少しだけ胸のすく思いがした。自分でも小さい男だとは思うが、このくらいの仕返しくらいは大目に見て欲しい。
「ユーリウス、サクに免じて謝罪を受け入れる。どう償ってもらうかについてはまた明日決めるとしよう。サクも疲れただろう。今日はもう休もう」
まだ解決していない問題はたくさんあるが、今日はさすがにラインハルトも疲れてしまった。咲玖を部屋に送り、ラインハルトも私室に戻った。
倒れ込むようにベッドに横になったが、疲れているはずなのになかなか寝付けない。
自覚してしまった咲玖への恋心。
浮き彫りになった自分の弱さ。
そして、咲玖の選択。
山積みの問題が頭の中を回り続ける。
きっと今日も寝られないだろう。そう思って起き上がり、オットーが部屋に用意してくれた“完全栄養食品”を口に運ぶ。一つ食べ終え、指に付いて残ったかけらをぺろりと舐めた瞬間、感じるはずのない“味”が雷のように舌の上をビリビリと走った。
――あま、い……? これは……。
突然の衝撃に痛いほど早く動き始めた心臓に落ち着けと命じながら、もう一度その指を口に入れる。さっきほどの強烈な“味”はもうしなかったが、それでもやはりほんのりと甘い。
その“味”に腹の奥底に抑え込んでいた欲望が沸き上がってくる。
当然、指自体が甘いはずはない。
――やはり……。
その指は、さっき咲玖の涙をぬぐった指だった。
もしかしたらこれが一番解決しなければならない問題かもしれないという予感と共に、呆然としながらその指を眺めていると、コンコンッ――と小さく部屋のドアを叩く音が聞こえた。
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