いつもの毎日をきみと

なつか

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4. 再会

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 音が繰り返し始める前にアラームを止め、維人はそうっと布団から起き上がった。物音一つ立てずにベッドから抜け出すというミッションをクリアすると、まずは顔を洗ってトースターに六枚切りの食パンを二枚入れる。その間に目玉焼きを焼き、その日によって、ハムやベーコン、ウインナーなんかも。ミニトマトとサニーレタスをちぎって乗せたお皿に一緒に盛れば朝ごはんの完成。パンに塗るためのイチゴジャムとチョコレート、牛乳を入れたコップを二つ用意して、テーブルに並べれば準備完了。
 もう一度寝室に戻り、まだスヤスヤと小さく寝息を立てるベッドの住人の髪を撫でる。朝日に透けてキラキラ光る真っ直ぐな髪を指に通し、穏やかな川の流れのようにサラサラと流れていく様子を見ながら、少しだけ大きな声を出すために軽く息を吸った。
「おはよう真結まゆ、今日もいい天気だよ」
 こうして維人の今日が始まる。それも、毎日のようにバージョンアップしていく娘の真結と一緒に少しずつ変わっていく日々だ。
 真結はあの時授かった諒との子供。当然、一も、事情を知った父親も出産には反対した。
 もとはβであった維人が子供を産むということはそれまでの人生が百八十度変わってしまうほどのインパクトがある。産んでからやっぱりやめておけばよかった、なんて許されない。
 それでも、どうしても生みたかった。
 それは、子を残そうとするΩの本能がそうさせるところもあったけど、何より妊娠がわかったとき本当に嬉しかった。もう会えない諒との最後の繋がりにどうしても会いたかった。

 病院で意識が戻った翌日、一がアパートから持ってきてくれたスマホを久しぶりに開くと、諒からたくさんのメッセージが届いていた。
 マフラーを忘れたから家まで取りに行く、というメッセージから始まり、
 どこか出かけてる? 
 どうかした? 
 返事してよ。
 明日家に行くから。 
 心配してる、返事ください。
 俺、やっぱり維人に何かした? それなら謝りたい。
 返事して。
 電話出て。
 ……
 ……
 ……
 会いたい。

 数えきれないほどのたくさんのメッセージと、着信履歴に涙が止まらなかった。

 ――声が聴きたい。顔が見たい。

 ――僕も、会いたい。

 そんな思いを必死に胸の奥にしまい込み、一通だけメッセージを送り、返信を待たずに諒と繋がりのある全てのアカウントを削除した。


 結局、妊娠期間は全て病院ですごし、合格していた大学の入学は辞退した。
 その時も、父親や一から本当にいいのかと何度も聞かれた。維人にとっても、重ねた努力の上で手に入れた成果だ。当然そう簡単な気持ちで手放せるものではない。
 でも、その時の維人にとって、おなかの中にいる子どもよりも優先すべきものなどなかった。勉強はやろうと思えばいつでもできるから。当時、そう思っていたというのもある。それが現実にはなかなか難しいことを知った今でも、その時の選択に後悔などない。

 妊娠期間は何があっても入院しているのだから大丈夫だという安心感もあったからか、予定日の数週間前に急に産気付き、緊急帝王切開になったこと以外はわりに順調だったと思う。
 初めて見た我が子の第一印象は「諒によく似ている」だった。初めて目を開いたときに見た瞳の色が同じだったときには思わず涙が出た。
 真結の出産後はそれまで住んでいた場所から離れて海外から帰国してくれた父親と一緒に暮らすことになった。始めこそ出産に反対していた父親も、生まれてみればそれはもう孫娘の可愛さに骨抜きになり完全なジジバカ状態。
 それでも面倒ばかりかけていられないと真結を育てながら働けるようにと見つけた仕事が軌道に乗り、家を出ると伝えた時には逆に泣かれてしまった始末だ。
 とは言っても父親もまだ働き盛り。今はまた海外へと働きに出ている。月に一回は届くはがきが真結の楽しみの一つだ。
 維人が一人で暮していた時にはそんなもの一度も送ってきたことがなかったから、初めて届いたときには思わず苦笑してしまった。

 そんなことを思い返しながら、まだ寝ぼけ眼のままパンをかじる真結を眺める。
 朝日に透けてキラキラ光る真っ直ぐな髪に、幅の広いキレイな二重の下には秋の柔らかな日差しを灯したような淡い色の瞳。今でも諒によく似たその顔立ちは、我が子ながら思わず惚れ惚れとするほど整っている。
 うっとりとその面影に頬を緩ませていると、インターフォンのチャイムが鳴った。
 時計を見てもまだ八時前。こんな時間に訪ねてくるのは一人しかいない。やれやれ、とインターフォンのモニターを確認すればやっぱりそう。通話ボタンを押して口を尖らせた。
「いつも言ってるけど早すぎだよ、一」
「いいだろ、起きてるんだし」
 一は真結の出産に最後まで反対し続けた。でも、結局は維人の父親と同じで生まれてみればもうメロメロ。今は“親戚のおじさん”みたいな立ち位置で真結を猫かわいがりしている。
 大学時代なんかは長期休みのたびにうちに泊まり込み、就職した今でもしょっちゅう真結と遊びに出かける約束をしている。今日だっていつの間にやら一緒に動物園に行く約束をしていた。維人のスマホを使って勝手に二人でやり取りしているのだが、まぁ一だしいいかと思っている。
 だって一には真結を育てる上で、すごく助けてもらった。
 真結がなかなか泣き止まず、一緒になって泣きそうになった夜に、なぜかそれを察したように電話をかけて来てくれたり、真結がお友達を叩いたと保育園に呼び出されたのにその原因を真結が話してくれなかったとき、代わりに真結の話を聞いてくれたりとか。
 さすがに真結の保育園行事に出ると言われたときには断ったが、本当に支えてもらったと思う。きっと一には一生頭が上がらない。
「今日は維人も一緒に行ける?」
「うん、行けるよ」
 部屋に上がり、当たり前のように真結の横に座った一に、こくりと頷く。先週は仕事が立て込んでしまい、一緒に出掛けられなかったが、今日は頑張って仕事を終わらせてあるから大丈夫。
「寝癖ついたまんまで?」
 そう言って後頭部を覆う世話焼きな手も相変わらずだ。
「出かけるまでにはちゃんと直すよ」
 でも、三人で出かけるのには少しだけ問題がある。

「見て、あの人すごいかっこいい。えっ嘘、子持ち?!」
「一緒にいる人、番なのかなー。いいなぁあんなかっこいいαと番えて」

 なんて、周りから隠し切れていない視線を一斉に浴びるのだ。
 一はβだし、番じゃないし――本当の番だって、見惚れるくらいイケメンなんだからな――、なんて心の中で悪態をついてもまぁ無駄で。そんな視線なんて微塵も気にしない一はおそらく気が付いてすらいない。維人が勝手に居心地を悪くしているだけだ。
 だからライオンに夢中な真結を見守りながら二人でベンチに座る時も、さりげなく距離を空ける。この人は番じゃありませんよ、友達です。なんて不必要なアピールするために。
 それなのに一が容赦なく距離を詰めてしまった。なんでだよ、なんて心の中で突っ込んではみるが、向こうから近づかれてしまってはもう一度距離を空けるなんてことをしたら非常に感じが悪い。
 なんとなく居心地の悪いまま、穴が開いてしまわないか心配になるほどライオンをひたすら凝視する真結の様子を眺めていると、一に「維人」と名前を呼ばれた。
「なに?」
「結婚してほしい」
「は? 誰に??」
「維人に、俺と」
 しばらく言葉が理解できず呆然とした後、「はぁ?!」と大きな声が出て、思わず立ち上がった。
 すると当然、周囲の目線が一斉に維人へと向けられる。ハッとしてまた一から少し距離をとってベンチに座り直した。真結はまだライオンに好奇心という穴をあけており、こちらの異変には気が付かなかったようだ。
「なに、突然こんなところで」
 答えはさておき、休日の午前中、家族連れがごった返す動物園のベンチでする話では絶対にない。とは言え、ホテルのディナーなんかに誘われてもおそらく行かないのだが。
「こういうところじゃないと聞いてくれないだろ。それに、全然突然じゃない。俺はずっとそうしたいと思ってたし、ずっとアピールしてたつもりだったけど、やっぱり伝わってなかったか」
 あたかも鈍感だもんな、と言わんばかりにはぁっとため息を吐かれ、ムッと口をとがらせるが、でもまぁ間違っていない。だって、そんなことを一が考えているなんて微塵も思っていなかった。
 一が維人に優しいのは、あくまで幼馴染みだから、家族のような存在だからだと思っていた。何も答えない維人の考えていることを察したように、一は話を続けた。
「維人は俺のことただの幼馴染としか思ってなかっただろうけど、俺はもう、ずっと前から維人のことが好きだった。だから、木暮とのことも……あいつを殺してやりたいと思うほど許せなかった。今だって許せない」
 確かに、あの日のことに一番怒りを露わにしたのは一だった。それは維人を心配してだと思っていたが、どうやら違ったらしい。
 まだ飲み込めずにいる一の言葉が喉をせき止め、言葉が出てこない。
「あの事があるまで二次性なんて気にせずに生きてきたけど、今は俺がβで、維人がΩになって、それだけは良かったって思ってる」
「……なんで」
「βなら番の影響を受けないだろ。それに、βとΩなら結婚もできるし、俺の子も産んでもらえる」
 一の言葉に一気に体温が上がった。
 番の居るΩは、番であるα以外のフェロモンを受け付けなくなる。でもフェロモンの影響を受けないβにはその番契約も効力を発揮しない。
 それに、Ωは一次性に関係なく結婚もできるから、一の言うとおり結婚もできるし、α相手より格段に確率は下がるが妊娠も可能だ。

 ――でも、だからって一と結婚なんて……。

 真結と遊ぶ一を見て、いい父親になりそうだなぁ、なんて思ったことはある。でも、それはいつか一が結婚する誰かとの間に生まれる子供のことを想像してのことで、“真結の父親”としてではない。ましてや一の子を産むなんて想像すらしたことはない。
 そもそも、真結の父親は番である諒なのだから、たとえ会えないとしても他の人と結婚して真結に新しい父親を作るなんて発想すらなかった。

 脳内がぐるぐるとかき回されているかのように全く考えが定まらず、一緒に目まで回り始めた気がする。そんな維人の様子を見て一はくすりと口角を少しだけ上げた。
「すぐに返事をくれとは言わない。でも、俺はβとしては稼いでくる方だと思うし、真結のことも、この先できるかもしれない子供も大切にする。もちろん維人が一番だけど。だから、前向きに考えてくれると嬉しい」
 そう言うと一は立ち上がり、維人の頭を一撫でした。
 触れる手は少し冷たくて、それでも維人を見つめる瞳はこれまで見たことのない――もしかしたら気づいていなかっただけの――熱がこもっていた。

 その後、ゴリラやらペンギンやらいろいろ見て回ったが、まぁ見事なまでに何も覚えていない。楽しそうに手をつなぎながら歩く真結と一の後ろを真っ白な頭で歩いていたせいで何度か転び、あちこち擦りむいた。
 家に帰ってからもそんな状態で、その日以降、たった数日で気が付いたらあちこちあざだらけになっていた。でも、寝坊なんてしなかったし、朝食の目玉焼きを焦がすようなことはなかったから、真結のお世話だけはちゃんとできていたと思う。こういう時根付いた日々の習慣とはすばらしいものだ。

 それから一週間が経っても結論なんて出るはずもなく、明日はまた真結が一と出掛ける約束をしていたから家に来るだろう。全然答えなんて出ないし、心の準備もできていないのに、どういう顔して会えばいいかわからない。
 はぁっとため息を吐くと、正面でデザートのアイスを頬張る真結が顔を覗き込んだ。
「お母さん、この間からちょっとへん」
「あっごめん、ちょっと考え事してて……」
「ふーん」
 気分転換に、と家の近くにある大型ショッピングモールのフードコートにお昼ご飯を食べに来た。他に大きな娯楽施設もない田舎の大型ショッピングモールはいつでも混んでいて、大勢の家族連れが維人たちと同じようにテーブルを囲んでいる。違うのは、他の家族には大抵父親もいること。
 真結には父親がいない理由を、「事情があって一緒には暮せない」と伝えている。それでも、写真までは見せたことはなくても、話はよくしていた。
 お父さんは強くてとても優しい人だったよ。真結はお父さんによく似てるから、すごく美人になるよ、なんて。
 いつも真結はそんな話を嬉しそうに聞いていた。
 今まで父親に会いたいと言われたことはないが、保育園の行事なんかで少し羨ましそうな顔をしているところも見てきた。
 一はきっといい父親になる。諒のことはあれほど嫌っていても、よく似ている真結のことは本当にかわいがってくれている。もし、きょうだいができても真結を差別するようなことはしないだろう。
 自分で考えていたくせに、“きょうだい”という言葉に思わずぼっと顔に熱が灯った。
 そもそも一と“そういうこと”なんてできるのだろうか。
 長い付き合いだから身体的接触――もちろん性的なものではないが――は何度もあるし、触れられて不快感があるということはない。
 でも、あの時一が見せた熱のこもった瞳。それの熱を思い出すだけで、ベンチで触れあうくらいの距離で座ったときと同じように何とも言えない居心地の悪さを感じる。
 また、はぁっとため息を吐くと、真結がすっとアイスが乗せられたスプーンをあーんと差し出した。なんて優しい子! と感涙しかけながらパクっとスプーンを口に入れる。優しい甘さにすっきりとした冷たさが口の中に広がり、頭の中も少し落ち着きを取り戻したような気がした。
 ありがとう、と言うと真結は満足げに笑い、トイレに行ってくる!と席を立って走っていった。

 その後ろ姿を見ながら、ふと、諒にも昔、同じようにアイスをあーんと口に入れてもらったことを思い出した。
 アイスだけじゃない。諒は一緒に何かを食べに行くと、自分が食べているものをいつも「食べる?」と言って一口くれた。
 それはいつも維人が迷って選ばなかった方のメニューで。
 そんな偶然が何度も重なるはずがない。でも、自意識過剰だろうか、と結局何も聞けなかった。

 ――あの時、聞いてたら何か変わってたかな…。

 もう、聞くことのできない答えを探しても意味なんてないってわかっている。
 でも、胸の奥に閉まっておいたはずの想いは、こういうちょっとした出来事ですぐにあふれ出てきてしまう。
 それほどまでに維人にとって諒の存在は大きくて、かけがえのないものだった。
 きっと同じ想いを他の人に持つことはないと思ってしまうほどに。

 そして、その想いを抱えたまま、立ち止まっていればいいと思っていた。そうしたいと思っていた。
 でも、維人を取り巻く状況はまた変わろうとしている。

 一からの告白にどう答えても、今のままというわけにはいかないだろう。
 それならば、
 
 ――前向きに考えてみようかな。
 
 真結だって一人でトイレに行けるほどに大きくなった。
 そろそろまた違う、新しい毎日を始めるのもいいかもしれない。

 
 そう思っていたのに、五分経っても真結が戻ってこない。
 席を離れて入違ってしまったら、と思うと逆に動けず、そわそわと待つが、時計の秒針が一回り、また一回りしても真結は戻ってこない。さすがに席を立ち、慌てて一番近くのトイレを捜す。
 判断が遅かったかもしれない。大きくなったとはいえ、あの子はまだ六歳だ。迷子になってしまったのかもしれない。あんなにかわいい子なのだ。もしかしたら、誰かに連れていかれて……考えただけで血の気が失せていく。
 震え始めた手を握りながらたどり着いたトイレの少し先、大きな観葉植物の横に置かれたベンチの前に真結はいた。

「真結!!」

 維人に気が付いた真結はこちらの心配など知る由もなく、それはもうかわいらしい満面の笑みで維人に飛びついてきた。

「もう、全然帰ってこないから心配し、」
「お母さん! あのね、お父さんを見つけたの!!」
「えっ……?」

 真結が指を差したその先。大きな観葉植物の陰に隠れて座っていたがゆっくりと立ち上がりこちらを見ている。
 その人の顔を見上げた瞬間、心臓がドクンと大きな音を立てた。

 もう会えない、もう会わない。そう思っていた。

 でも、

 夏の晴れ渡る青空を映してキラキラと光る真っ直ぐな髪も。
 秋の柔らかな日差しを灯す淡い色の瞳も。
 冬の透明な空気に響くやや低めの声も。
 そして、春の暖かな風に溶ける優しくて甘い香りも。

 何もかも忘れられるはずがなかった。

「維人」

 本当は、ずっと会いたかった。

「……諒……」

 見えない糸をたどるように、 “運命の人”はまた維人の目の前に現れた。
 あの時と何も変わらないまま。
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