星の降る日は

なつか

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3. 風が強い日は

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 エルバルトにとって三度目となる大規模遠征の出立が明日に控えるその日、重い曇が空を埋める今日の天気のように、エルバルトの心もどんよりと曇っていた。
「行きたくない…」
 ソファの肘置きに背を預け、座って本を読むアレクシスを後ろから抱え込みながら、エルバルトは大きなため息をつく。
「騎士がそんなこと言っていいのか」
 アレクシスは、代わらずその目線を本に向けたままエルバルトにもたれかかっている。エルバルトが塔で暮らすようになってから三年がたち、エルバルトは華奢なアレクシスをすっぽり包みこめるほどに背が伸びていた。

 遠征自体は何の問題ものない。
 エルバルトは剣の天才と呼ばれるほどその腕前は高い。だから過去二度の遠征では、かすり傷一つ負わず、遠征軍の中で一番の成果を上げて帰ってきた。
 問題なのは腕の中にいるこの美しい人を、塔に一人きりで残していかねばならないことだ。
 一年前、エルバルトにとって二回目の遠征が終わり、塔に戻ってみるとそこには目を疑うほどの悲惨な光景が広がっていた。
 普段、全ての家事を一手に担うエルバルトが不在にしたせいで、部屋には埃が舞い、アレクシスが脱ぎ散らかした衣服と、そこら中に積みあがった本の山が足の踏み場を無くしていた。
 一回目の遠征から帰った時もそこそこ荒れてはいたが、一応アレクシス自身で何とかしようという気持ちが見て取れた。
 それがたった一年であの有様だ。さらに甘やかされたこの一年で、もうどうなることか想像すらしたくない。
 それよりなにより問題なのは、食事までおろそかにすることだ。前回もただでさえ華奢なその体がさらに薄くなっていた時は倒れそうになった。
 今回もそうなることが目に見えているのに、そばを離れることなどしたくない。


 魔塔の主は、建国の魔導士の魔力を身の内に宿し、王都を守る結界を維持する。
 そしてそれを制御するために膨大に消費する自身の魔力を少しでも回復させるため、アレクシスはよく眠っていた。
 それ以外の時間はひたすら本を読んでおり、放っておけば風呂に入るどころか、食事もとらない。
「だって、料理は面倒だろ。それに、片づけはお前が帰ってきたらやるし」
 甘やかされることに慣れたアレクシスは、もうやる気がないことを隠す気もないから、さらに質が悪い。
 甘やかすほうも悪い、ということには今のところエルバルトは気が付いていないのだが。

「はぁ、騎士団辞めようかな……」
「俺は無職を住まわせるほど優しくないぞ」
「それなら、俺がいない間もちゃんと健康的な生活してください。もう掃除はしなくてもいいですから、せめてご飯だけはちゃんと食べてください」
「………」
 エルバルトは再度ため息をつき、返事をしないアレクシスをぎゅっと抱え込む。
「俺がいないのに倒れたりしたらどうするんですか。やっぱりリシュカさんに頼んで使用人を付けてもらったほうが…」
「必要ないと言っているだろう。それに魔塔の使用人なんて誰もやりたがらない。食料は王宮の使用人が運んできてくれるんだから、それで十分だ」
 アレクシスは、いや魔塔の主は必要以上に人と関わるのを好まない。
 それは他者と大きく異なるその見た目のせいでもあり、自分が短命であることを知っているせいでもあった。
 本当はエルバルトとだってアレクシスは深く関わるつもりなどなかった。それなのに、勝手に住み着き、アレクシスの気持ちなどお構いなしに距離を詰められ、結局絆されてしまった。
 こうして抱えられていても全く嫌だと感じないほどに。
「アレクシス様……」
「わかったって。ちゃんと食事はするから、気にせず遠征に行け」
「…はい……」
「なんだ、まだ何かあるのか」
 歯切れの悪い返事をするエルバルトをアレクシスは見上げるが、目線をそらされ、何か言いたげなそぶりだけで、なかなか口から出てこない。
「なんだよ」
 焦らされているようで、少しイラっとしたアレクシスがじぃっとエルバルトを見つめるが、まだ葛藤は終わらないようだ。
 待っていることに飽きたアレクシスが目線を本に戻すと、いよいよ覚悟を決めたようにアレクシスに回されたエルバルトの手にギュッと力がこもった。
「アレクシス様……キスしてもいいですか?」
「はぁ? 好きにしろ」
「そうですよね…ダメですよね…って、えっえぇぇ?!」
「なんでそんなに驚くんだ。いつも勝手にしてるだろ」
 確かにエルバルトはことあるごとにアレクシスを抱きかかえ、髪や頬に何の断りもなくキスをする。この三年でエルバルトからの過度で過剰なスキンシップにアレクシスはすっかり慣らされてしまっていた。
「ちっ違います。そうじゃなくて…その、えっと…口にしたいんです……!」
「だから好きにしろって言ってるだろ」
「……本当にいいんですか? 口ですよ?」
「しつこいな。何なら本の中のお姫様みたいに目を閉じてやろうか」
 アレクシスは物語のお姫様なんかよりも美しい顔でにやりと笑って見せる。
 基本的に普段のエルバルトは何をするにもアレクシスが優先でそれこそ蝶よ花よと愛で、甘やかしはするが、衣食住に関してはとても口うるさい。正直煩わしい。でも、それがまぎれもなく正論で、アレクシスのことを思いやっているということもわかっているから、結局は言い返すこともできない。
 だから、アレクシスとしては珍しく消極的なエルバルトをここぞとばかりに少しからかってやろうと思っただけだった。
 エルバルトの言葉にある“想い”など考えてもいなかった。
 腕を引っ張られぐるりと視界が回ったかと思うと、気が付けば背はソファに沈み、今まで背後にいたはずのエルバルトの顔が目の前にある。
 その深い海のような碧眼に今まで見たことのない欲が灯っていた。
 ちょっと待て、と慌てて止めようとしてももう遅い。その言葉が口を出るよりも先に唇を塞がれた。
「んっ……」
 ただ唇を重ねるだけのつたないキス。それでも重なった唇が熱くて、これまで感じたことのない熱にアレクシスは思わず息を止めた。
 しばらく重なったままだった唇が少し離れ、これで終わりかと思いきや、今度はぬるりとしたなにかがアレクシスの唇をなぞる。その感触にビクリと体がはねた衝撃で我に返ったアレクシスは思いっきりエルバルトを蹴り飛ばした。
 ソファから転げ落ちたエルバルトに、戸惑いと羞恥心で真っ赤になった顔を悟られぬよう腕で隠しながら、アレクシスは逃げるように二階に駆け上がり、ベッドへ飛び込んだ。

 ――なんなんだ、あれ……!

 声にならない叫びがアレクシスの頭の中をこだまする。
 収まらない鼓動をごまかすように枕をこぶしで打ち付け、今にも叫び出したいような、笑い出したいような、ごちゃ混ぜになった感情に、アレクシスは大いに身悶えた。
 だって、アレクシスはいつも髪にされるキスと同じように、軽く唇を合わせるだけだと思っていたのだ。
 でも、それとは全く違った。
 熱くて、柔らかくて……。
 ふと先ほど唇に与えられた感触を思い出し、指でなぞる。
 そしてハッと我に返り、また悶える。それを何度か繰り返していると、コンコンっと部屋の外からドアが鳴った。
「アレクシス様、すみませんでした…。やっぱり嫌でしたよね…さっきのことは忘れてください。おやすみなさい」
 キスをしたら蹴り飛ばされて逃げられたのだ。エルバルトがそう思っても仕方がない。
 でも違う。そうじゃない。
 アレクシスは飛び起き、ドアを勢いよく開いた。
「違う! 驚いただけだ!」
「えっ…?!」
「……だから…嫌だったわけじゃない」
 すでに階段を降り始めていたエルバルトは驚きのあまりフラフラとその場に座り込んでしまった。
 そんな様子で明日からの遠征は大丈夫なのか、と心配になる。
「明日から遠征なんだ。さっさと寝ろ」
「あっアレクシス様!」
 立ち上がったエルバルトはアレクシスを引き留めたが、またモジモジとしている。
「なんだ、まだあるのか」
「あの…もう一回だけ…」
「調子に乗るな!」
 アレクシスはバンっと勢いよくドアを閉め、再びベッドに潜り込んだ。


 翌朝のエルバルトは見てとれるほど上機嫌だった。
 鼻歌交じりに鍋をふるい、食卓にはどう考えても食べきれない量の朝食が並ぶ。
「あっ残った分は後で食べてください。痛んじゃうから今日中ですよ。明日からは王宮の方が食料をとどけてくれますから、きちんと食事してくださいね。食器は使ったらすぐに洗うんですよ。生ごみはそのままにしておくと虫が来るから、ちゃんと外に出してくださいね。それから……」
 何度も聞いた生活指導を聞き流していると、あっという間にエルバルトが出る時間になってしまった。
「それでは、行ってきますね」
 いつもは本を読む手をとめず、あぁっと返事をするだけのアレクシスだが、今日は塔の外までついて出た。
 昨日、空を覆いつくしていた重い雲は、強い風がどこかへ連れ去り、美しい青空が広がっている。
 エルバルトはアレクシスを抱きしめ、強い風が揺らす銀色の髪にそっとキスを落とした。そのまま頬を撫で唇にも……という気配を察したアレクシスが寸前でエルバルトの顔を掌で押し返す。
「さっさと行け」
「嫌じゃないって言ったじゃないですか」
「今は嫌だ」
「じゃーいつならいいですか」
 駄々をこねる子供のように言い募るエルバルトにさすがのアレクシスも強く言い返せず、顔に熱がこもっていく。
「……無事に帰ってきたらな!」
 いつも涼しい顔ばかりのアレクシスが、不意打ちで見せた恥じらう顔に胸をつかまれ、エルバルトは思わず前屈みになった。

 ――そんな顔されたら余計に行きたくなくなる……!

 そんな心の内を表すかのように未練がましくもう一度アレクシスをぎゅっと抱きしめ、エルバルトは後ろ髪惹かれる思いで塔を後にした。
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