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第伍話「血ヲ吸ウ鬼」
血ヲ吸ウ鬼・陸
しおりを挟む「三毛縞さん本当にいいんですか?」
「……え、ええ」
「じゃあ……ユキちゃんのことよろしくお願いします」
「はい」
店じまいをし、外に出ると店主は申し訳なさそうに三毛縞に頭を下げた。
三毛縞からの了解を得ると、兎沢にお疲れ様と労いの言葉をかけ帰路につく。
「さて、と私も帰るとするかな」
店前には緊張した面持ちの三毛縞と、兎沢、そして鴉取の三人。
「お邪魔虫はさっさといなくなるよ。頑張れよ、三毛縞」
「鴉取、おい……!」
鴉取はにやりと笑うと三毛縞の静止の声も聞かず、彼の肩を叩くとその場を立ち去ってしまった。
鴉取もいなくなり、そしていよいよ三毛縞は兎沢と二人きりになったのである。
ことの成り行きとはいえ、まさか好いている人と二人きりになり、家まで送り届けることになるとは——と三毛縞は内心非常に動揺していた。
「三毛縞さん、私たちも帰りましょう?」
「……は、はい。僕が責任を持って家まで送ります」
ええい、男に二言はない。こうなればやるしかないと、三毛縞は腹をくくり歩き出した。
時刻は午後八時。ただでさえ人通りが少なくなった東都の街。この時間帯となると人っ子ひとり歩いてはいなかった。暗い夜の煉瓦道を二人の男女が並んで歩く。
互いに会話はなかった。けれど、三毛縞の肩のすぐ隣には兎沢の気配を感じている。
三毛縞はこんな夜更の時間に女性と二人きりで歩くことが初めての経験だった。意識をするたびに心臓の鼓動は早く脈ううつ。
「そういえば、兎沢さんの家の場所聞いていなかったね」
いつまでも黙っていては間がもたないと、三毛縞は話題を切り出す。
「歩いて本の十分くらいです。八咫烏館の前の通りを通っていくんですよ」
「え、ウチの前を?」
「はい。あのお屋敷、とても素敵で……通るたびにいいなぁって足を止めて眺めていたんです」
一度会話を切り出すと兎沢は楽しそうに会話を続けてくれた。
しかし帰り道に八咫烏間の前を通るのであれば、なにも先に鴉取が帰る必要もなかったのではないかと三毛縞はしてやられたと肩を竦めた。
いざ会話を始めると自然と話題がつながっていく。
楽しく話しながら歩くこと十五分、そろそろ兎沢の家の近くに差し掛かった頃兎沢が足を止めた。人気の少ない薄暗い裏道のような場所だった。
「兎沢さん……?」
突然足を止めた兎沢に驚き、数歩先に進んだところで三毛縞は後ろを振り返った。彼女は立ち止まったまま俯いて地面を見つめている。
「何かあった?」
心配そうに三毛縞が近づくと、突如兎沢が動いた。
「——えっ」
腕の中に感じる暖かさと柔らかい感触。
兎沢が三毛縞の胸の中に飛び込んできたのだ。突然のことに三毛縞はなにもできず、兎沢の肩を支える。
「と、ざわ……さん?」
三毛縞は動揺していた。
柔らかい。そして温かい。リリの甘い花のような匂いとは違う、清潔そうな石鹸の香り。
「すみません。三毛縞さん。私、怖いんです」
三毛縞の腕の中で兎沢は顔を上げないまま話す。彼はあまり状況が把握できておらず話がうまく飲み込めない。
「怖いって……」
「通り魔です。人を襲って血を吸うなんて……私、とっても怖い」
彼女の体は震えていた。無理もない、未だ正体が掴めていない通り魔。おまけに人を一人殺しているとなれば恐怖に駆られて当たり前だろう。
「大丈夫、僕がちゃんと家まで送っていくから」
なるべく安心させるように三毛縞は優しく声をかけた。
すると兎沢はぱっと顔をあげて三毛縞を見上げた。
「ありがとうございます。三毛縞さんは優しいんですね」
なんて可愛らしい笑顔。思わずその笑顔に見惚れていると、三毛縞の腕に彼女の腕が回された。
「……三毛縞さん。私」
彼女は背伸びをして、ゆっくりとその可愛らしい顔が近づいてくる。
三毛縞は兎沢に見惚れたまま動けない。そしてそのまま兎沢は近づいていき、ゆっくりと互いの唇が重なろうとしていた—。
「——君は、誰だい」
路地裏に、冷静な声が響いた。
三毛縞の冷静な声が兎沢に向けられていた。唇に触れるすんでのところで動きを止めた兎沢はぱちくりと目を瞬かせる。
「やだなぁ。私ですよ。兎沢ユキですよ」
にこりと満面の笑みを浮かべて、兎沢は可愛らしく笑った。
「違う。君は、誰だ?」
三毛縞は真っ直ぐに兎沢を見つめていた。
「三毛縞さん、急にどうしちゃったんですか?」
兎沢は三毛縞の首の後ろに腕を回したまま軽く首を傾げる。
「君は僕が知っている兎沢さんなら、僕が珈琲にいつも砂糖を入れていることを知っているはずだ」
「……たまたま忘れてしまっただけですよ。常連客は三毛縞さんだけじゃありませんからね」
一瞬虚をつかれた兎沢は視線を逸らしながら答えた。
「そういう意味で言っているんじゃない。兎沢さんは仕事に対してとても真面目な子だ。あの店に来るたくさんの常連さんのことをしっかり覚えているはずだ。君は、一体誰なんだ」
「だからぁ……私は兎沢ユキですって」
まっすぐと見据える三毛縞から目を背ける兎沢。その声音には焦りが滲んでいるようにも聞こえた。
「……今日あった時からずっと、君の様子に違和感があったんだ」
「私が私じゃないってどういうことですか? 三毛縞先生、原稿で疲れちゃったんじゃないですか?」
「……証拠ならもう一つあるよ」
三毛縞は兎沢をまっすぐ見つめる。兎沢は不機嫌そうに顔をしかめながら三毛縞の言葉の続きを待つ。
「今、僕は君と面と向かってちゃんと喋ることができている」
「……はぁ?」
耳を疑うように兎沢は大口を開けて聞き返す。
「初対面じゃないのだから話せて普通でしょう? それがなんの証拠になるっていうんですか」
「はは……やっぱり君は兎沢さんではないよ」
徐々に兎沢らしき女の化けの皮が剥がれていく。
段々悪人顔になっていく兎沢を見据え、三毛縞はふっと苦笑を浮かべた。
三毛縞がふと気づいた兎沢への違和感。そして彼女は彼女ではないと確信づいた本当の理由——。
「僕は好きな子と上手に話せないんだよ」
その答えを聞いた瞬間、兎沢ユキらしき人物は目を丸くした固まった。
しばらく沈黙が流れた後、女は思い切りふきだして声を出して笑い始める。
「っ、ははっ! それは確かな証拠だこと! 傑作だわ! 貴方、本当にウブなのね! 童貞だったりするの?」
「……ご想像にお任せするよ」
けらけら笑う女に三毛縞は苦笑を浮かべる。
「そうね。そうよ。貴方のいう通り私は兎沢ユキではない。でもそれを知ったからってどうするの? 貴方には何の力もないのに」
女は一切焦りを見せることなく、余裕の表情で口元ににいっと半月を浮かぶ。微かに開いた口の隙間から僅かに見える日本の鋭く長い犬歯。それは、通り魔に襲われた被害者の首筋にできていた傷と似ていた。
「今までたくさんの人を襲っていた通り魔は君だね?」
「ええ、そう。最近血を吸った人の体を借りる能力を身につけたの。だから、今はこの子の体を借りてるの。あのお店、駅が近いし獲物の品定めがしやすいのよね」
女は愉快そうに笑いながら嫌らしく己の——兎沢ユキの体を両腕でひしと抱きしめた。
「……兎沢さんが店を休んでいた理由はそれか」
「ええ。人の体を借りたのは初めてだったから……馴染むまで時間がかかっちゃって」
「兎沢さんを殺したのか」
その問いを女は否定した。
「肉体が死んだら私も死ぬわ。殺すわけないじゃない、大切な私の体なのに」
「兎沢さんを返せ」
ぎろりと三毛縞が女を睨みつけると、彼女はけらけらと笑い始めた。
「っ、ははっ。三毛縞さんって本当に馬鹿。そう簡単に返すわけないじゃない。それに——」
刹那、女は真顔になり目を細めると三毛縞と距離をつめ、三毛縞の後頭部を鷲掴み自身の方へ引き寄せる。
「私がここまで全部話して易々貴方を返すと思う? こんな状況で自分の方が危険だと思わないの?」
「……っぐ」
長身の三毛縞が前のめりになり、目の前には女の顔が迫る。
人間とは思えない力で押さえつけられ、動くことができない。
「私、ずっと貴方の血が気になっていたの。異国の血が混ざった美味しそうな血……ねぇ、私に頂戴?」
女の瞳が赤く光る。その目があった瞬間、三毛縞は金縛りにあったように体が硬直して動けなくなった。
指先一つ動かせない。命の危機を察した三毛縞は額に冷や汗をにじませる。
「貴方の体をもらうのもいいかも知れないわね」
女は舌舐めずりをしながら女は三毛縞の首元に口を寄せていく——いけない、このままでは彼女に血を吸われてしまう。
「っ!」
三毛縞は全意識を己の両手に集中させ、思い切り女の体を突き飛ばした。
ふいをつかれた女は体をよろめかせ、三毛縞から離れる。その隙に三毛縞は全速力で元きた道を走り出した。
「……あぁ、くそっ!」
走れ。おそらくあの女に捕まったら自分は殺される。
大丈夫、足には自信がある。このまま大通りに出て警察署に向かえ——いやその前に八咫烏館の前を通る。
脳裏に友人の姿を思い浮かべつつ、なんとかしてこの危機的状況を切り抜けなければと三毛縞は全力で足を動かした。
「ふふっ、鬼ごっこでもはじめるつもり?」
逃げる三毛縞の背中を見つめながら女は可笑しそうに微笑んだ。
三毛縞は走り曲がり角を曲がる。だいぶ距離は取れたはずだと速度を僅かに緩めようとした足が、その場で止まった。
「逃げたって無駄。だって私は、血を吸う鬼なんだから」
「……っ」
女が目の前に立っていた。
「動かないで。なるべく痛くはしたくないの」
その言葉一つで三毛縞の体の動きは封じられた。
その場で硬直した三毛縞を見て女はにこりと笑い、背伸びをして再び彼の首筋に唇を寄せた。
「——いただきます」
丁寧に挨拶をして、女は三毛縞の首筋を舌で舐めあげた。
ぞくりと背筋が凍りつく。もう駄目だ、と三毛縞は痛みに耐えるように目を閉じた。
「君は相変わらず面倒ごとに巻き込まれるな」
その瞬間、よく聴き慣れた低い声が聞こえてきた。
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