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第参話「隠レンボ」
隠レンボ・参
しおりを挟む置屋から出る頃にはすでに日は傾き始め、暑さもだいぶん収まってきた。
二人は散歩がてら、花街の周辺を見て回ることにした。
「君はいつも異性に対してあんな甘ったるい台詞を囁くのか」
「いつもという訳じゃあないが。あの様な状態ならば、心強い言葉をかけるのが一番だろう?」
「……どうりで君は女性に好かれるわけだ」
さも平然と言い放つ鴉取に、三毛縞は呆れたがちにため息をつく。
「君が初心すぎなんだよ、ミケ。容姿は整っているのだから、好意を寄せる女性に対してだけ口下手になる悪い癖さえ治せれば引く手数多だろうに」
鴉取からの指摘に三毛縞はぐうの音もでなかった。
別に女性に対して苦手意識があるというわけではない。ただ、意識をしている異性を前にするとどうしてか三毛縞は駄目になってしまうのだ。
「鴉取みたいになれていたら苦労はしないさ」
少しむっとした表情で三毛縞は鴉取を見下ろした。
「おや。何かいいたいことでもありそうだな」
学生時代から浮名を流し、女性の影が絶えたことはなかった鴉取。
そんな彼の女性関係に三毛縞はたった一つだけ物申したいことがあったのだ。
「学生の頃、僕が思いを寄せていた隣の女学校の生徒が君と接吻している現場ををたまたま見かけてしまったんだよ」
「はて……そんなことあっただろうか」
三毛縞の告白に鴉取は珍しく虚をつかれた様に目を丸く見開いた。
夕焼けの人気が少ない校舎裏。偶々近くの廊下を歩いていた時に、窓から見えた同級と思い人の甘い光景。あの時の頭を殴られたような衝撃を三毛縞は一生忘れることはないだろう。
「千鶴子《ちずこ》さんだよ。まさか忘れたのか! 俺、あの時は衝撃で暫く身動きできなかったんだぞ」
「嗚呼……そんなこともあった様な……なかった様な」
視線を彷徨わせる鴉取。これは絶対に覚えていない反応だ。
甘酸っぱい恋愛の記憶をいとも簡単に忘れられてしまう程、この男は沢山の女性に思いを寄せられていたのだ。
互いに人目を引く風貌をしていたというのに、この天と地の差はなんなのだと三毛縞の胸に過去の苦い記憶が蘇ってくる。
「あの後、僕は暫く君を目の敵にしてた」
「嗚呼……あの頃よく君に睨まれていたのはそのせいだったか。いや、それは悪いことをしたな。だが俺を恨むのはお門違いだぞ。先に想いを寄せていたのは彼女の方だ。俺から口説くことは滅多にない」
鴉取が放つ甘い言葉は、決して女性を口説こうとしているものではないらしい。けれどその甘言と引き込まれる様な風貌に女性は皆魅了されていくのだろう。
「その余裕が余計に腹が立つんだ!」
のらりくらりと笑って躱し続ける鴉取。どれだけ三毛縞が怒りをぶつけても彼が気に留めることは決してない。
怒鳴るだけ無駄な体力を使うだけだと、三毛縞は自身を落ち着かせる様に深呼吸をして僅かに乱れた前髪を直した。
「まぁまぁ落ち着けよ。たい焼きをご馳走するから機嫌を治してくれ、三毛縞先生」
足を止めた鴉取の視線の先には一軒のたい焼き屋。
「甘い物、好きだろう?」
「ぐっ……」
鴉取は分かりきったように口角を上げた。
彼に上手いことあしらわれるのは癪に触るが、三毛縞が甘い物に目がないのは紛れもない事実。
そう簡単に折れてなるものかと一旦は店の前を通り過ぎたものの、漂ってくる餡子の甘い匂いと、生地の香ばしい香りに三毛縞の体は自動的にたい焼き屋に引き戻されていった。
三毛縞の一連の動きを見ながら鴉取は強情張らなくてもいいのに、と笑いながら店先に向かった。
「たい焼きを二つ頼む」
「毎度あり!」
「嗚呼、ご店主。一つ頼みがあるんだが——」
たい焼きを注文した鴉取はなにやら店主と話し込んでいる。
そしてできたての天然たい焼きを手に三毛縞の元に戻ってきたが、鴉取は中々それを手渡そうとはしない。
「ミケ。質問だ」
「なんだい」
たい焼きを待ちわびていた三毛縞の前に、鴉取はそれを二つ掲げる。
「片や見た目が完璧な美味しそうなたい焼き。片や形が崩れたたい焼き。遠慮なくどちらか好きな方を選んでくれ」
右手には美味しそうなたい焼き。左手には不恰好なたい焼き。
一瞬気を利かせて鴉取に前者のたい焼きを残そうとしたが、三毛縞はこれはきっと鴉取がなにか企んでいることを察し素直に右の綺麗な方を受け取ることにした。
「ふむ、やはり見た目が良い美味しそうなものを選んだか」
「そりゃあどちらかといわれたら、誰だって見た目がいいものを選ぶんじゃないか?」
頂くよ、と三毛縞は鴉取に礼を述べるとたい焼きに齧り付いた。
薄い生地の中に甘い粒あんが頭の先からぎっしりと詰まっている。焼きたてだからか中々に熱い。
「不恰好でも味は美味いな」
「まさかこれを聞くために態々不恰好なたい焼きを選んだっていうのか?」
たい焼きに噛り付きながら鴉取は頷いた。
三毛縞は鴉取の意図がわからず、正解を尋ねるように視線を送った。
「我々生き物には皆意思がある。不味そうなものよりは美味しそうなものを選ぶのは当然のことだろう。唯、似たような選択肢が幾つもあってその中から特定の物を選ぶということは、そのモノに明確な意思があるということだ。人の血も同じだろう」
「……通り魔事件の話か」
鴉取はゆっくりと頷いた。
「通り魔は自分好みの人間の血を選んで吸っているということか?」
「姿形が見えない通り魔。もし女将のいうとおり、それがこの世の者の仕業ではないとしたら少々厄介かもしれないぞ」
言葉とは裏腹に鴉取は愉快そうに口角を開けて笑うと、がぶりとたい焼きに齧り付いた。
生地の中から溢れ出て彼の口の端についた餡は、さながら人の血のようにも見えた。
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