鴉取妖怪異譚

松田 詩依

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第壱話「幻影電車」

幻影電車・伍

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「——もし。もう、大丈夫だよ」

 心地良い低い声が聞こえて、女学生はゆっくりと目を開けた。目の前には、あの黒い男がしゃがんで此方を見上げている。
 状況を確認するために辺りを見渡して見ると、すぐ隣で心配そうに女学生を見ている女と、此方に両手を広げて笑っている赤子。扉が開け放たれた運転席の中にはほっとした様に深呼吸を繰り返している運転手と、髭面の男が腰を抜かして座り込んでいた。
 窓の外を見てみると、そこには日暮れ前の薄暗い景色と降り注ぐ雨の雫が窓に張り付いて美しく輝いていた。

「終わった、んですか」
「ええ、助かったのよ……」

 安心した様に女達は手と手を取り合って喜んだ。
 最後に女学生が目を覚ましたことを確認すると、男は安心した様に立ち上がって左手の手袋を付け直した。

「怪異の……原因とやらはわかったのか」

 髭面の男が息も絶え絶えに壁伝いに客席へと戻ってくる。

「嗚呼。このあたりは時々動物が飛び出してくるのだろう」

 答えを求める様に黒い男は運転手を見る。

「……時折ですが、間に合わず轢いてしまいます。酷なことですが、無理に避けては乗客の身が危ないですので」

 運転手はやるせなさそうに肩を落としながら答えた。

「運転手殿は心優しい人物だ。恐らく、轢いた動物を可哀想、と憐れんだろう」
「……命を一つ奪って何も思わない人間がいますか」

 それの何がいけないことなのか、と運転手は黒い男をじっと睨む。
 その視線を受けた男は何も悪くない、と首を横に振った。

「貴方の感情は至極同然だろう。だが、その憐れみが形を成し、怪異となってしまったのだ」
「では、この運転手が全ての原因だというのか!」
 
 髭面の男が頭に血が上ったように運転手を睨みつける。あまりの剣幕に運転手が驚き肩を奮わせると、黒い男はいいや、ともう一度首を横に振った。

「誰が悪いというわけではない。怪異は要因こそあれど、誰かが故意に起こせるものではないからな」

 そう答えながら黒男が乗車口に手をかけると、大の男二人が掛かってもびくりともしなかった扉がすんなりと開いた。
 外は相変わらずの土砂降りで、水溜まりには何重にも波紋が描かれている。
 酷い雨を男は特に気にすることなく電車を降り、灯りが照らされた電車の前方に移動した。
 線路の上でなにかあったら大変だと慌てて運転手は男の後に続く。乗客達も皆連れ立って、運転席の方に移動して大きな窓から男が立っている場所を見下ろした。

「——此れは」
「此れが怪異の正体だ」

 男が指差したものを見て運転手は息を飲んだ。
 そこには狸の死骸が寝転んでいた。
 雨に濡れ、息絶え毛は硬くなり、四肢はあらぬ方向に曲がり、臓物がはみ出し、目は開いたまま虚空を見つめている。

「かつて此処は森だった。きっと彼らの住処もあったのだろう。この都を作るために、森を切り開き、無理に人に居場所を追われ、逃げ遅れ、仲間とも逸れてしまったんだな。そうして餌を求め彷徨っているうちに電車と鉢合わせ、轢かれてしまった。そして息絶えようとしていた時、運転手殿がその死を酷く悲しみ哀れんだ。そうすることで魂は浄土に行くことなくこの地に縛られ、死ぬ前の記憶を幾度となく繰り返していたのだろう……」

 黒い男は虚空を見つめる瞳を、そっと手で閉じ、懐から風呂敷を取り出してその亡骸を優しく包むと車内へと戻った。

「……原因は狸にしろ、やはりそもそもはそこの運転手が狸を轢いたせいではないか」

 車内に戻ると髭面の男が腕を組み、仁王立ちをしながら黒男の後ろについていた運転手をじろりと睨み上げた。

「いっただろう。怪異は天災と同じだ、と。故意に人に害を与えようという意志はない。怪異が起こる条件が揃い、我々は運悪くそれに巻き込まれただけだ。例えどんな原因があったとて……運転手殿が負い目を感じる必要は、ない」

 黒男は呆れた様に髭面の男を一瞥すると、狸の亡骸を包んだ風呂敷を運転手に差し出した。

「駅員達で弔ってやるといい。恐らく動物を轢いた者は運転手殿一人というわけでもないだろう。彼の住処を奪ったのは貴方たちではないけれど、彼が此処でこうして死んだ全ての原因は我々人間にあるのだから。彼らの住処を奪い、利用したのは我々だから。誰であろうと、彼らを葬い、その死を悼む責務はある」
「わかりました。手厚く弔わせて頂きます」

 運転手はまるで赤子を抱くかの様に優しく風呂敷を受け取った。

「……どうか成仏しますように」
「次は自然の中で幸せに過ごせるといいね」

 黒い男の言葉に感化されるように、乗客たちはその小さな魂が無事成仏するようにと手を合わせたのであった。
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