鴉取妖怪異譚

松田 詩依

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第壱話「幻影電車」

幻影電車・壱

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 六月の夕刻前だというのに外は不気味なほど薄暗かった。
 大きな黒雲が天を塞ぎ、その隙間からは時折青白い閃光が走る。滝のように降り注ぐ土砂降りの中を電車が走っていた。
 悪天候で視界はすこぶる悪く、運転手は目を凝らしながらレバーを握りしめている。そんな車内には指折り数えるほどの乗客しかいなかった。
 車両中央の座席ど真ん中。我が物顔で足をこれでもかと広げ新聞を読みふけっているのは丸眼鏡をかけ顎髭を蓄えた洋装の中年男。
 その向かい側の端には幼い乳飲み子を抱いた和服姿の女が座っている。
 母子が座る真反対の端には、束髪くずしの髪型がよく似合う袴姿の女子学生。
 そして最後にもう一人。車両一番端の席に座る、黒い旅行鞄を抱えた長い前髪で顔を覆った男だ。漆黒の外套に身を包み、足の先から頭の先まで鴉のように真っ黒な出で立ちは怪しいことこの上なかった。
 窓に煩く叩きつける雨音。いつ落ちてもおかしくないように雷はごろごろと唸っている。
 終点の東都駅まではもう間も無くだが、無事に着くだろうかと乗客はどことなく不安に駆られているのか車内の空気はほんの少しだけ張り詰めている。その中で黒い男は僅かに首をもたげ背後の窓からじっと外の景色を眺めていた。

「それにしても物騒な世の中になったもんですな」

 不気味なほど静まり返っていた車内に髭面の男の声が響くと女性陣は徐に顔を上げた。
 車内に流れる重い空気をどうにかしようと思ったのだろうか。男は手にしていた新聞を向かいの女性陣に見せ記事を指差した。

《連続通り魔 またも女学生が餌食に》

 大々的に載っている一面記事。近頃、東都周辺で起きている若い女性を狙った連続通り魔事件。
 被害者の女学生の証言によると、學校からの帰り道、突然首筋に細い針を刺されたような鋭い痛みが走ったという。周囲を確認するが誰の姿もなく、虫にでも刺されたのだろうと思ったそうだ。
 しかしどこか拭きれない不気味さを覚え、急ぎ足で帰宅した女学生は玄関先で家の者に事情を説明している最中に突然倒れ病院に運ばれた。
 医師の診断によると症状は貧血。痛みが走った首筋には針に刺されたような痕が二箇所残っていたという。
 ——その様な被害がここ二月で十数件。死者こそ出ていないものの、一向に証拠も手がかりも残さない犯人を巷では「血ヲ吸ウ鬼」の仕業ではないかと恐れられていた。

「……本当に物騒になりましたねぇ。この子が狙われたらどうしましょう」

 女は腕に抱いた赤子の頬を優しくつつきながら物憂げそうに呟く。

「その赤子は大丈夫でしょう。心配すべきなのは、そちらの可憐なお嬢さんの方だよ」

 丸眼鏡越しに厭らしい眼差しを向けられた女学生は僅かに肩を震わせた。

「東都につく頃には今よりもっと暗くなるだろう。若いお嬢さんが一人でそんな道を歩いていたら……血を吸う鬼に襲われてしまうよ」

 にちゃり、と舌舐めずりをしながら男は態とらしく女学生を見る。視線を向けられた彼女は身震いしながら慌てて男から目を逸らした。
 赤子を抱く母は視線を逸らしこちらを向いた女学生に傍においでと手招きをし、守る様にその華奢な肩を抱き寄せる。そして未だににやにやと気味悪くほくそ笑んでいる髭面の男をきっと睨みつけた。
 彼らのそんな一悶着を知ってか知らずか、何処吹く風で窓の外を眺めていた黒い男はなにかを見つけたようにふいににやりと口角を持ち上げた。

 ——その刹那。

「う、わああああああああああああっ!」

 空気を切り裂くけたたましい悲鳴が車内に響き渡ると全員が一斉に視線を向けた。
 皆が視界の端に運転席を入れたその刹那——がくん、と全員の体が自分の意思とは反して進行方向にもっていかれる。
 運転手が急ブレーキをかけたのだ。ぎぃいっと火花が飛び散るほどに車輪が線路に無理に擦れる嫌な音を響かせる。皆突然のことに悲鳴の一つもあげられなかった。
 つり革がありえない角度に傾き、乗客は皆近くの手摺に必死にしがみついて衝撃に耐える。母は赤子を守るように抱え、女学生はその親子を守るように覆いかぶさった。
 線路が雨に濡れているため電車は中々止まらない。耳をつんざく様な音は暫く続き、最後にきいっと音を立て完全に停止した。

「び、吃驚したわね」
「赤ちゃんは大丈夫ですか?」
「……ええ、大丈夫よ。庇ってくれて有難う」
「よかったぁ」

 母親が慌てて腕の中の赤子の様子を確認すると、赤子はまだ状況を理解できていないのか呆然と目を瞬かせていた。
 ほんのり赤いふっくらとした頬を軽く突きながら女学生はほっと安堵の表情を浮かべた。

「全く! 運転手は何をしているんだ!」

 苛立たしげに眉を吊り上げた男は立ち上がり、上部に正方形の硝子がはめられた木製の扉で仕切られている運転席を睨む。
 そんな男の目の前を黒い影がすっと通り過ぎ女性陣の前で足を止めた。

「ご婦人方、お怪我はないか?」

 頭上に落ちた影と声、赤子をあやしていた二人はゆっくりと顔を上げ思わず息を飲んだ。

「お子も大事はないか?」
「……は、はい」
「大丈夫、です」

 低い音を鳴らす鈴のように、どっしりと低いけれどなんとも心地よい声の主は端の席に座っていた黒い男だった。
 鴉のように黒い姿。僅かに見える肌は白く、長い前髪から覗く冷たい切れ長の赤い瞳に女達は思わず息も忘れ見惚れてしまう。
 頬を朱に染め、自分に向けていたものとは全く違う眼差しを怪しい男に送る女性達に髭面の男はなんともつまらなさそうに舌打ちをした。

「……其方さんは」
「なんともないっ!」

 あからさまな舌打ちの音で気がついたのか、黒い男はゆっくりと振り返り自身を睨んでいる男の姿を見た。一応のついでといった、大した心配した様子なくとってつけた態度で黒い男は言葉を投げかけた。

「き、貴様っ。それが目上の者に対する態度か! これでも私は東都銀行に努める有能な——」

 能書き垂れる男の話を一切合切無視して、黒い男は彼の前を素通りした。
 それがまた男の癪に触り、ぴくりとこめかみに青筋を浮かべながら黒い男の背中に怒鳴り声を飛ばす。そんな怒号すらも聞こえない振りをして、黒い男は黒革の手袋をつけた手で運転席の硝子を数度叩いた。

「もし、運転手。大事はないか」

 扉を隔てた運転席にも聞こえる様な声量だったが、運転手は男の言葉になにも答えなかった。
 まるで彼の声など聞こえていないように、呆然と俯いている運転手の背中は窓越しでもわかる程上下し荒い呼吸を繰り返している。異変を察した黒い男は扉を開けようとしたが、内側から鍵が掛かっているためそれは叶わない。
 騒ぎから一変して、車内はしん、と静まり返った。急に雨が激しくなったのか、車体に、窓に雨が凄まじい勢いで叩きつける。
 その音に驚いてか、それともようやく先程の衝撃を理解したのか、女の腕の中にいた赤子が思い出したかの様に大きな声をあげて泣き始めてしまった。ぎゃあぎゃあと、大口を開け、涙を流し、ただでさえ赤い顔は茹蛸のように真っ赤に染まっていく。

「嗚呼……よしよし、キヨちゃん。大丈夫ですからね……怖くない、怖くない」

 女は立ち上がり、とん、とん、と一定の間隔を保ちながら息子の背中を軽く叩くが一向に泣き止む気配がない。

「そんなに泣き喚いて疲れないのか。お子の力は凄まじい」

 運転席の様子を見ていた黒い男が戻ってきて、興味深そうに泣いている赤子を覗き込んだ。
 男と目があった赤子は一瞬泣き声を止め、ぴたりと真顔になった。まさかこの色男は赤子をも魅了するのかと、全員が期待で息を飲んだのもつかの間——赤子は再び泣き出してしまった。

「酷くなってるじゃないか」
「……子供にはあまり好かれないんでね」

 じろりと髭面の男に睨まれた黒い男は、ふいっと目を逸らす。
 そうなれば最後は自分の出番だと、髭面の男はごほんと態とらしい咳を一つして赤子と対峙した。

「——べろべろばぁ!」
「ぎゃあああああああああ!」
「嗚呼もう、余計泣いちゃってるじゃないですか!」

 寄り目をし、大口を開け舌を出し、男は渾身の変顔をするが泣き止むどころか状況は更に酷くなり女性陣から一斉に顰蹙を買い男はしゅんと肩を小さく丸めた。

「くくっ……其方さんも人のことはいえないみたいだ」
「……っ、やかましい!」

 笑いを噛み殺すように意地悪く笑う黒い男に、髭面の男は顔を真っ赤にしながら態とらしく大きな足音を立て運転席へと向かう。

「おい、運転手! なにしてんだ!」

 羞恥を誤魔化すためか何度も扉を叩き運転手に呼びかける。
 その大きな音にようやく運転手は我に返ったのか、はっと顔を上げ立ち上がると客席の方へやってきた。

「————」

 しかし、運転手は言葉を何も発さなかった。
 血の気を無くした真っ青な顔。額からは脂汗がぐっしょりと滲んでいる。何かを伝えようとしているが、言葉が上手く出てこない様で先程から何度も口をぱくぱくと開閉していた。

「——何を、見た?」

 黒い男はまるで何かを知っている様に、前髪の奥の赤い瞳をすうっと細める。
 運転手は袖口で滲みでる汗を拭い、恐怖に震えた手で口元を抑えるとゆっくりと言葉を吐き出した。

「——電車が。電車が、突っ込んできたんです」
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