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6.「よみじや」
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一人になった途端静かになったような気がした。
急に冷たい風が吹き付けて僅かに身震いして空を見上げると、赤かった空はだんだんと暗みがかっていた。
「ああ……そっか」
風が吹けば草花が揺れ、肩口の髪が僅かに靡いた。
川の音に飲み込まれそうなほど小さな声でぽつりと言葉をこぼした。
美奈の笑顔を見て、半年前見た寺田と彼の妻が浮かべた幸せそうな笑顔を思い出した。
ああ、そうだ。自分はあの笑顔が見たかったんだ。
別に感謝されたいわけでもない。
役に立ちたいわけでもない。
大切な人を失い、自分と同じように立ち止まったままの人達が嬉しそうに笑うのをみると、自身が背負っているものがほんの少しだけ軽くなるような気がしたのだ。
胸につかえていた何かがすとんと落ちたようなあの感覚が心地よくて、自分はこの役目を果たそうと思ったのだった。
撫でてもささくれ一つもない、カウンターの上をそっと撫でた。
今までずっと忘れていたことを思い出した。そういえば、母を失う前にずっとこの屋台と出会っていたのだ。
確かあれは、一度寺田の元へと行った屋台が父の工場に再び戻って来た時のことだった。
「あれ? 屋台帰ってきたの?」
「うん。修理を頼んだ人がさ、置く場所がないから申し訳ないけど引き取って欲しいって返しに来たんだ」
父は困ったように笑いながら、自らの手で綺麗に直した屋台を撫でていた。
「それなら、千代が欲しい!」
「ええっ」
突拍子も無い娘の言葉に両親は口を揃えて驚いていた。
「だってこの屋台は死んだ人に会えるんでしょう! お店の人がいないと会えないから、千代がお店やさんになるの! それで、美味しいご飯を作るんだ!」
「千代、この屋台は……」
そこまで言いかけて父は言葉を飲み込んだ。
魔法少女を信じる少女のように、両親は愛しい一人娘の夢を守った。もちろん彼らはそれが本物だとは気づいていなかったに違いない。
「なんでご飯を作るの?」
父は身を屈め千代と目を合わせた。
「だって皆で食べるご飯はおいしいから! 一緒にご飯食べて、たっくさんお話しするの!」
「……そっかそれなら千代が使いやすいようにしなきゃな」
屈折ない無邪気な娘の笑顔を見た父は、満面の笑みを浮かべながら頭を撫でた。
そのすぐ傍にいた母も嬉しそうに微笑んでいた。
悲しい記憶で覆い隠されていたけれど、こんな温かな思いでもあったのだとつい笑みがこぼれた。
そうして今目の前にある屋台は、父が彼女のために手入れをしてくれたものだ。
子供のいうことだから先行きがどうなるかわからなかったけれど、決して屋台を手放すことなく手入れをし埃一つ被らないように厳重にブルーシートに包んで保管してくれていたのだ。
その時、ぽとりと戸棚の中に何かが落ちる音がした。
そっと開けてみると一通のハガキが届いていた。
『来月二十歳になるので、亡くなった父と一緒にビールを飲む約束を守りたい』
小さな手紙に書かれた大きな願いだった。
今その願いを叶えられるのは千代しかいない。それでも少し迷っていた。
以前のように拒絶されたらどうしよう。会いたくなかったといわれたらどうしよう、と。
握りしめた手紙からふと視線を外すと、戸棚の上側に一枚の髪が引っかかっているのが見えた。
「これ……」
そこに入っていたのは家族写真だった。
父と母とその間に幼い頃の自分が写っている。裏側をめくると、
《これを見つけたってことは、千代は屋台の店主になってるのかな? 千代にしかできない素敵なことができていますように お父さん》
父からのメッセージだった。
写真の隅に僅かに水滴が落ちたような染みが見えた。きっと母もこの写真を見たのだろうか。
父との思い出が蘇り、懐かしさから一歩踏み出してしまったのだろうか。はたまた父が迎えに来て一緒に行ってしまったのだろうか。それとも--憶測を幾つ並べてもきりがない。
ただ、もし二人が一緒にいてくれるのであればそれでいい。両親の幸せを願う。
「……もう一度、やってみようかな」
不安がないといえば嘘になる。
でも、母が教えてくれた料理がある。父が残してくれた屋台がある。
既に一人きりだと思っていた自分に、両親はこんなにも素敵なものを残していてくれた。
寺田が、美奈が、その背中を押してくれた。
ずっと立ち止まっていた場所から、ようやく一歩踏み出せた。
「……じゃあ、またね。お母さん、お父さん」
屋台を閉じて別れを告げた。
いつもの陰鬱な別れじゃない。いつ会えるかはわからない。でもいつかきっと会える。
下を向かず、顎を上げて、前を向いて屋台を引く。
少し急な坂を登りきって後ろを振り返ると、日が沈みかけているとても美しい光景が広がっていた。
死というものはあまりにも突然に訪れる。
とても悲しくて、寂しいけれど、残された人たちはそれを乗り越えて進んでいかなければならない。
それでも自分のようにどこかで立ち止まっている人達の架け橋になりたいと、願った。
足元に長い影が伸びる。
夕日が沈むとともに、街頭に灯りが灯り始めた。
長く続く真っ直ぐな道を、川の流れる方向に向かって屋台と一緒に歩いていく。
川のせせらぎが少しずつ遠ざかっていった。
六十二円の郵便葉書に故人の名前、食べたい物を書いてポストに投函すると、後日日時と場所が指定された招待状が届く。招待状を受け取った者にしか訪れることのできない、一度だけ死んだはずの人間と食事をすることができる幻の屋台があるという。
逢えない人に会いたいとき。
逢えない人ともう一度話をしたいとき。
河原に蜃気楼のように現れる、故人と残された者を繋ぐ「よみじや」という屋台があるという――。
「よみじや」 完
急に冷たい風が吹き付けて僅かに身震いして空を見上げると、赤かった空はだんだんと暗みがかっていた。
「ああ……そっか」
風が吹けば草花が揺れ、肩口の髪が僅かに靡いた。
川の音に飲み込まれそうなほど小さな声でぽつりと言葉をこぼした。
美奈の笑顔を見て、半年前見た寺田と彼の妻が浮かべた幸せそうな笑顔を思い出した。
ああ、そうだ。自分はあの笑顔が見たかったんだ。
別に感謝されたいわけでもない。
役に立ちたいわけでもない。
大切な人を失い、自分と同じように立ち止まったままの人達が嬉しそうに笑うのをみると、自身が背負っているものがほんの少しだけ軽くなるような気がしたのだ。
胸につかえていた何かがすとんと落ちたようなあの感覚が心地よくて、自分はこの役目を果たそうと思ったのだった。
撫でてもささくれ一つもない、カウンターの上をそっと撫でた。
今までずっと忘れていたことを思い出した。そういえば、母を失う前にずっとこの屋台と出会っていたのだ。
確かあれは、一度寺田の元へと行った屋台が父の工場に再び戻って来た時のことだった。
「あれ? 屋台帰ってきたの?」
「うん。修理を頼んだ人がさ、置く場所がないから申し訳ないけど引き取って欲しいって返しに来たんだ」
父は困ったように笑いながら、自らの手で綺麗に直した屋台を撫でていた。
「それなら、千代が欲しい!」
「ええっ」
突拍子も無い娘の言葉に両親は口を揃えて驚いていた。
「だってこの屋台は死んだ人に会えるんでしょう! お店の人がいないと会えないから、千代がお店やさんになるの! それで、美味しいご飯を作るんだ!」
「千代、この屋台は……」
そこまで言いかけて父は言葉を飲み込んだ。
魔法少女を信じる少女のように、両親は愛しい一人娘の夢を守った。もちろん彼らはそれが本物だとは気づいていなかったに違いない。
「なんでご飯を作るの?」
父は身を屈め千代と目を合わせた。
「だって皆で食べるご飯はおいしいから! 一緒にご飯食べて、たっくさんお話しするの!」
「……そっかそれなら千代が使いやすいようにしなきゃな」
屈折ない無邪気な娘の笑顔を見た父は、満面の笑みを浮かべながら頭を撫でた。
そのすぐ傍にいた母も嬉しそうに微笑んでいた。
悲しい記憶で覆い隠されていたけれど、こんな温かな思いでもあったのだとつい笑みがこぼれた。
そうして今目の前にある屋台は、父が彼女のために手入れをしてくれたものだ。
子供のいうことだから先行きがどうなるかわからなかったけれど、決して屋台を手放すことなく手入れをし埃一つ被らないように厳重にブルーシートに包んで保管してくれていたのだ。
その時、ぽとりと戸棚の中に何かが落ちる音がした。
そっと開けてみると一通のハガキが届いていた。
『来月二十歳になるので、亡くなった父と一緒にビールを飲む約束を守りたい』
小さな手紙に書かれた大きな願いだった。
今その願いを叶えられるのは千代しかいない。それでも少し迷っていた。
以前のように拒絶されたらどうしよう。会いたくなかったといわれたらどうしよう、と。
握りしめた手紙からふと視線を外すと、戸棚の上側に一枚の髪が引っかかっているのが見えた。
「これ……」
そこに入っていたのは家族写真だった。
父と母とその間に幼い頃の自分が写っている。裏側をめくると、
《これを見つけたってことは、千代は屋台の店主になってるのかな? 千代にしかできない素敵なことができていますように お父さん》
父からのメッセージだった。
写真の隅に僅かに水滴が落ちたような染みが見えた。きっと母もこの写真を見たのだろうか。
父との思い出が蘇り、懐かしさから一歩踏み出してしまったのだろうか。はたまた父が迎えに来て一緒に行ってしまったのだろうか。それとも--憶測を幾つ並べてもきりがない。
ただ、もし二人が一緒にいてくれるのであればそれでいい。両親の幸せを願う。
「……もう一度、やってみようかな」
不安がないといえば嘘になる。
でも、母が教えてくれた料理がある。父が残してくれた屋台がある。
既に一人きりだと思っていた自分に、両親はこんなにも素敵なものを残していてくれた。
寺田が、美奈が、その背中を押してくれた。
ずっと立ち止まっていた場所から、ようやく一歩踏み出せた。
「……じゃあ、またね。お母さん、お父さん」
屋台を閉じて別れを告げた。
いつもの陰鬱な別れじゃない。いつ会えるかはわからない。でもいつかきっと会える。
下を向かず、顎を上げて、前を向いて屋台を引く。
少し急な坂を登りきって後ろを振り返ると、日が沈みかけているとても美しい光景が広がっていた。
死というものはあまりにも突然に訪れる。
とても悲しくて、寂しいけれど、残された人たちはそれを乗り越えて進んでいかなければならない。
それでも自分のようにどこかで立ち止まっている人達の架け橋になりたいと、願った。
足元に長い影が伸びる。
夕日が沈むとともに、街頭に灯りが灯り始めた。
長く続く真っ直ぐな道を、川の流れる方向に向かって屋台と一緒に歩いていく。
川のせせらぎが少しずつ遠ざかっていった。
六十二円の郵便葉書に故人の名前、食べたい物を書いてポストに投函すると、後日日時と場所が指定された招待状が届く。招待状を受け取った者にしか訪れることのできない、一度だけ死んだはずの人間と食事をすることができる幻の屋台があるという。
逢えない人に会いたいとき。
逢えない人ともう一度話をしたいとき。
河原に蜃気楼のように現れる、故人と残された者を繋ぐ「よみじや」という屋台があるという――。
「よみじや」 完
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