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2.「あいをこめて」
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しおりを挟む「……そういえば、私がいなくなってから何か困ってることはない」
カレーを食べすすめながら葵がぽつりと康晴に問いかけた。
「……光がご飯を全然食べてくれないんだ」
康晴がなによりも一番最初に思い浮かんだのは娘のことだった。
葵は不思議そうに、目の前でカレーを食べすすめている娘を見下ろした。
「野菜が嫌いなのは知ってたけど、家でも保育園でも全然ご飯食べないんだ。他の子に比べて体も小さいし……」
光の腕は握ったら折れてしまいそうなほどに細かった。
同年代の子に比べて一回り体も小さく、このままでは倒れてしまうのではないかと康晴は不安になっていた。
「光。ママの方見て?」
葵は真剣な声音で光を呼んだ。康晴のいうことは全く聞かなかった光が、食べる手を止め母の方を向いた。
「ご飯食べたくないの?」
母は呆れも怒りもせず、ただ娘に理由を尋ねた。
「……だって」
光は母から視線を逸らし、もじもじと手を弄る。父はそわそわしながら娘の返事を待った。
「……おいしくないんだもん」
光は恐る恐る呟いた。
「ママのごはんのほうがおいしいんだもん」
「……でも、ちゃんと食べないと大きくなれないんだよ?」
葵は光の手を取り、目を見つめた。
それでも光はまだ納得いかない表情で、首を横に振った。
「……だって。ごはん、たのしくないんだもん」
「どうして?」
「パパ、ずっとおしごとしてるから。ごはんはみんなでたべなきゃおいしくないんだもん」
光の言葉に康晴は冷や水をかけられたように面食らった。
朝も夜も一緒の食卓についてはいるが自分は仕事の書類を確認するばかりで親子の会話なんてほとんどしていなかった。
「それに……パパ、ひかりのことキライだから」
「ちょっと待った。なんでそうなる」
思いがけない言葉に、思わず康晴は立ち上がった。
仕事をしていたのは事実だが、何故そこまで飛躍するのかがわからない。意義を唱えようとする康晴を葵が制した。
「どうしてパパが光のことを嫌いだと思うの?」
「ひかりがおてつだいしたらしっぱいしちゃうから。パパいつもこまったかおしてる。それに……」
「それに?」
「……パパ。ママがいなくなってから、ニコニコしなくなったんだもん」
康晴は言葉を失った。
光と一緒に暮らすために一生懸命やっているつもりだった。
笑わなくなったのは、葵が死んだのは自分の責任だと責め続けていたから。家事で失敗して困っていたのは葵のようにこなせない自分を不甲斐なく思っていたから。
光が自分のいうことを聞かず、ご飯を食べてくれないのは娘が母を奪った自分を恨んでいるのだと心のどこかで思っていたから。
けれど、光に許されなくても娘だけは立派に育てようと頑張った。一生懸命、頑張っていた、つもりだった。
葵を見ると、彼女は康晴の答えを待っていた。
「パパ。光が待ってるよ」
自分はこれから見守ることしかできないから頑張れと、葵はそういいたげに微笑んだ。
「……っ、ごめん」
康晴は光を力強く抱きしめた。今思えば、こうして抱きしめるのはいつ以来だろう。
「パパが光を嫌いになるわけないだろ。パパは光のことが世界で一番大切で、大好きなんだよ」
「……ホント?」
こうして娘に思いを伝えたことなんてなかった。
思いを伝えなければ通じるはずがない。いわなくても通じると思っていた自分が馬鹿だったのだ。
康晴が強く強く抱きしめながら頭を撫でると、光の目から自然と涙が溢れ出した。
「ひかりも……パパとママがだいすきだよ」
「ママも、光とパパが大好き!」
二人のわだかまりが解けるのを見計らうように、葵が二人を思い切り抱きしめた。
そして康晴はもう一つ聞こうとしていたことを口にする。
「……なぁ、葵。カレーの作り方を教えてくれないか?」
「私のカレー?」
首を傾げる葵に康晴は頷いた。
「葵のカレーライス、俺も光も大好きだから……」
店主が作ったカレーも、康晴が作ったものとは比べものにならないほど美味しい。
しかし光が心の底から美味しそうに食べるのはやはり母が作るカレーだ。今すぐには無理かもしれないけれど、少しでも母親の味に近いものが作れるようになれば光も喜んでくれるかもしれない。
「……寝室の押入れの一番上にある箱の中を見て。そこに書いてあるから」
本当は教えたくなかったんだけどね、と葵は悪戯っぽく笑った。
「じゃあ、話も纏まったところで冷めないうちに食べようか」
葵の明るい一声で、三人は食事を再開した。
「パパ、ママ。カレーおいしいね!」
美味しそうに満面の笑みを浮かべる光を見て、夫婦は顔を見合わせて微笑んだのだった。
背後に聞こえる川のせせらぎと、光の楽しそうな声。場所こそ違えど、まるで家で食卓を囲んでいるように楽しかった。
「……俺、やっぱり葵の作ったご飯が一番好きだわ。これまで本当にありがとうな」
この三ヶ月、自分の料理や、スーパーの惣菜、外食などをして思ったこと。
確かに外で食べる料理は美味しい。けれど、決定的に何かが足りないものがあった。
葵はいつも美味しい料理を作ってくれた。康晴の体調が悪い時には胃に優しいものを。光が友達と喧嘩をして落ち込んだ時には目一杯のご馳走を。
彼女がどんな思いで毎日の食卓を考えていたのか、そしてそれがどれだけ大変なことなのか、今ならば痛いほどわかる。
「パパと光に、とびっきりの愛情を込めて作ってますから。そりゃあ美味しいに決まってるでしょう!」
突然の賞賛に葵は驚いたが、すぐに嬉しそうに満面の笑みを浮かべてみせた。
彼女の愛情たっぷりの料理がもう二度と食べられないことが惜しいけれど、三人で囲む久しぶりの食卓は、ほんの短い間だったけれど、決して忘れることのできない最高の思い出になるだろう。
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