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1巻
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しおりを挟むプロローグ
「かわいそうに。このままじゃ、お前はずうっとひとりぼっちのままねぇ……」
皺くちゃの手で、祖母が僕の頬を優しく撫でる。その表情は悲哀に満ちていた。
「お前は優しい子だからねぇ……人に迷惑をかけないように、わざと周りと距離を置いているんだろう? 誰とも関わらないのは確かに楽かもしれない。でも誰の記憶にも残ることなく、好かれることも、嫌われることもなく、関心も持たれないままずうっと生きていくのは……あまりにも酷だ。私にゃとても耐えられない」
哀れむように。慰めるように。慈しむように。
祖母は片方の手で僕の手を強く握りしめながら、もう片方の手で別れを惜しむように頬や頭を撫で続けた。
祖母の掠れた声は言葉を発するたびに弱まり、瞳からは生気が少しずつ消えていく。
それでもなお話し続ける祖母だが、僕の頭は上手く働かず、それらの言葉を拾えない。なにか大切なことを伝えているはずなのに――
「そこの、引き出しに入っている……時計を取ってくれるかい?」
祖母は意思に反して閉じようとする瞼を無理矢理にこじ開け、震える手でベッド横のチェストを指さす。
はっと我に返り、急いで引き出しを開けると、それはすぐに見つかった。
祖母が長年愛用している、金色の手巻き式懐中時計。至るところに小さな傷がついている古い物だが、祖母は毎日ゼンマイを巻いて大切に大切に使い続けていた。
懐中時計を取り出し祖母に差し出すと、祖母は両手で時計ごと僕の手をしっかりと包み込んだ。
「……お前が持っていておくれ。大切に使えば、きっと……いいことがあるはずだよ」
うわ言のように呟かれる言葉に、僕はただただ頷くことしかできない。
祖母は僕の頬に優しく触れて、悲しげに微笑んだ。
「一樹。可愛いお前をひとり残して逝くのが……ばあちゃん、本当に心配だよ。どうか、どうか、幸せになっておくれ……」
絞り出すようにそう告げたあと、祖母の手は布団の上にぱたりと落ちた。目からは涙が一筋流れ、それと同時にゆっくりと瞼が閉じられる。
皺の刻まれた手を握り、冷たくなっていく体温を感じながら、祖母は逝ってしまったのだと理解した。
そうして僕は、本当にひとりきりになってしまったのだった。
第一話 懐中時計
僕――高峰一樹は、幼い頃に両親を亡くし、唯一の身寄りであった祖母と二人で暮らしていた。
小さな田舎町での、決して裕福ではない生活。けれど、それを不満に思ったことはない。家事や畑仕事を手伝い、高校に入るとアルバイトをして家計を助けながら、祖母と仲よく二人三脚でやってきた。
持病があった祖母のことを思い、高校卒業後は地元で就職するつもりだった。
ところがその旨を伝えると、私のことなんて考えなくていいから大学に行きなさい、と祖母は顔を真っ赤にして僕を叱った。
ウチにはそんな金ないじゃないか――そう反論する前に祖母が出してきたのは、両親が残してくれていたという、僕名義の預金通帳。そんな物を見せられたらなにも言えず、僕は急遽、就職から進学へ進路を変更したのだった。
それから大急ぎで進学先の資料を集め、色々と考えた結果、ある地方都市の大学を受験することにした。そしてなんとか合格通知を手にして新居も無事決まり、あとは引っ越すだけ――そう思っていた矢先に祖母が倒れ、その数日後に亡くなった。
まるで僕が巣立つ準備を終えるのを見計らっていたかのような、絶妙すぎるタイミングだった。
こうして唯一の肉親を失ってしまった僕は、悲しみに暮れる暇もなく、祖母と暮らした田舎から遠く離れ、この町で新たな生活をはじめたのだ。
僕の一日は、祖母の形見である懐中時計のゼンマイを巻くことからはじまる。
今日の授業はなにがあったっけ。あの課題はいつまでだったか。そういえばシャンプーがなくなりかけてたから、買いに行かなきゃな――朝目が覚めるとそんなふうに一日の予定を立てながら、竜頭を回してゼンマイを巻く。
金無垢のチェーンがついた、片面開閉式の古い懐中時計。
掌にちょうど収まるくらいのサイズだが、ずっしりとした重量感がある。蓋や側面には花や鳥といった和風の装飾が施されていて、使い込まれたなめらかな手触りだ。蓋を開くと白い文字盤が顔を出し、そこにはアラビア数字がぐるりと並んでいる。
こういった物に詳しくない僕でも、この懐中時計が如何に古く、高価な物かは想像がつく。それに、祖母がどれだけこれを大切にしていたかはよく理解していた。
『この時計には守り神が憑いていて、持っていると幸運を運んでくれるんだよ』
生前の祖母はそう言って、どこへ行くにも肌身離さず持ち歩いていたほどだ。
『守り神が憑いている』という祖母の言葉を信じているわけではないが、持つと手によく馴染み、妙に安心する。気がつくと僕は、この時計をお守り代わりに持ち歩くようになっていた。
ただし、この時計はもう、時計としての役割を果たしていない。祖母が息を引きとった瞬間から、時を刻むのをやめてしまったのだ。
それでも僕は、毎日欠かさずゼンマイを巻いている。いつかまた針が動き出すことを願って――
今日もゼンマイを巻き終えた僕は、ベッドから出て床に足を下ろした。
このアパートは家賃の安さを重視して選んだため、築年数はそこそこ経っている。それでもフローリングや壁紙は新しく張り替えられていて綺麗だし、風呂とトイレは別で、エアコンもついていた。
手早く準備を済ませて部屋を出ると、自転車に跨り緩やかな長い坂を下っていく。
自宅から大学までは、自転車で十五分。高校の時は自転車で三十分かけて通っていたので、それを思えば近いものだ。
風を感じながら、流れる景色に目を向ける。
田畑や山々に囲まれていた故郷と違い、視界に入ってくるのは住宅やビルなど建物ばかりだ。
そんなこの町での生活には、今のところ不満も不安もない。けれど、これといった喜びや期待を感じることもなかった。
*
「――と、いうように考えられています。えー……ここまでの話をまとめると……」
大講義室に響き渡る教授の声に耳を傾けながら、僕はシャープペンシルを回して眠気と必死に戦っていた。
一年次の必修であるこの授業にはほとんどの学部生が出席しているため、大講義室は学生で溢れかえっている。
これだけの人数がいても、真面目に授業を受けているのはほんの一握りの学生だけ。眠っていたり、携帯をいじっていたり、それなりに大きな声で雑談を交わしている者もいる。
そんな中、教壇に立つ教授は彼らに注意もせず授業を進めていく。きっとこの騒音にも慣れてしまっているのだろう。
欠伸を噛み殺して息を吐くと、どんっと肩に衝撃が走った。手の中からシャープペンシルが落ちて、床を転がっていく。
「あ、わりぃ。ぶつかっちまったか?」
その声に右を向くと、隣の席で友人達とふざけ合っていた男子学生が僕を見ていた。
「……いや」
シャープペンシルが落ちたのは別に彼のせいではない。彼の後ろに立っているヤツのせいだ。けれどその男子学生は申し訳なさそうに床に落ちたシャープペンシルを拾ってくれる。
彼の髪は発色のいい茶色で、僕とは正反対の明るく賑やかそうな印象を受けた。
どういう言葉を返せばいいか迷っているうちに、男子学生はシャープペンシルを僕の手元に置いてすぐに友人の方を向いてしまう。僕は黙ってシャープペンシルを手に取り、手持ち無沙汰にペン回しを再開した。
横目でちらりと隣を見ると、男子学生は何事もなかったかのように友人達と談笑している。その様子をしばらくうかがったあと、僕はゆっくりと意識を彼から引き離した。
僕は人付き合いが少し――いや、かなり下手だ。
もともとひとりが好きな質ではあるのだが、とある事情で幼い頃から他人と距離を取りがちだった。
その結果、決して人に嫌われることもないが、かといって好かれることもなく、相手の印象にさほど残らない人間に成長した。
高峰? ああ、そういえばそんなヤツいたよな。下の名前も顔もよく覚えてないけど――といった感じに。
別にそれを嫌だと思ったことはない。ぼっちの生活にも慣れている。そんな僕を祖母はとても心配していたけれど、大丈夫。心配には及ばない。
「授業終わったら飯行こーぜー」
「明日休みじゃん。今晩、カラオケオールしようよ」
「サークルの先輩に告白されちゃった!」
「ごめん、今日合コンなんだー」
前後左右から楽しそうな声が聞こえてくる。
右側に立っていたヤツが、ずずずっと僕に顔を近づけてくる。それが近づくにつれて周囲の声がますますうるさくなっていくように感じた。
けれど周りにいる誰も、そいつを気にしている様子はない。
当然だ。こんなもの、見えてしまうほうがおかしいのだから。
通路に落ちるそいつの影を見つめながら、僕は俯いて耳を塞ぎ、授業が終わるまでじっと耐えていた。
「――今日の授業はここまで。では、また次週」
耳を突き刺していた学生達の声がただの騒めきに変わり顔を上げると、授業は終わっていた。窮屈で暑いくらいだった教室から続々と学生達が去っていく。
ふとノートをまともに取っていないことを思い出し、教授が完全に消し切る前に慌ててスマホで黒板の写真を撮った。
額に滲む汗を拭って一息つくと、荷物をまとめてようやく席を立つ。
「すみません」
背後から凛とした声に呼び止められ、驚いて一瞬足を止めてしまった。しかしよく考えれば、僕に声をかけてくる人間なんているはずがない。構わず足を進めて講義室を出ようとした。
「あの、すみません」
すると今度は肩を軽く叩かれ、同じ声にもう一度呼び止められた。
肩に確かな感触とわずかな体温を感じて、パッと振り返る。
「すみません……あの」
そこには、長い黒髪の女子学生が立っていた。
勢いよく振り向いたせいか、彼女はわずかに驚いて目を丸くしている。
スラッとした体形で肌の色は白く、可愛いというよりは綺麗系の大人しそうな女の子だ。ロングスカートに白いブラウスという清楚な出で立ちで、他の女子達とは明らかに違う落ち着いた雰囲気を漂わせていた。
僕ですか、と問うように無言で自分の顎の辺りを指さすと、彼女は丸い瞳に僕を映したままゆっくりと頷いた。
「……な、んでしょうか」
話しかけられる理由がまったく思い浮かばず、詰まりつつ返事をすれば、彼女がすっと静かに手を差し出した。
「これ、貴方のですよね」
彼女の手に見覚えのある懐中時計が載せられているのを見た瞬間、あっ、と自然に声が漏れた。
慌ててズボンのポケットに手を入れたが、そこにあるはずの懐中時計はない。いつの間に落としてしまったのだろう。周りの音がうるさくて落としたことにも気づかなかった。
「私、少し後ろの席にいたんですけど。さっき、ポケットから滑り落ちたのが見えたので」
「全然気づかなかった……すみません。ありがとうございます」
礼を述べながら懐中時計を受け取るが、彼女の表情はどこか曇っている。不思議に思っていると、彼女はまた静かに口を開いた。
「蓋が開いていたので、中を見てしまったんですけど……その時計、動かなくなっていました。もしかしたら落ちた拍子に壊れてしまったのかも……」
懐中時計を心配そうに見つめる彼女に、僕は小さく首を横に振った。竜頭を押して蓋を開け、四時十二分を指したまま止まった針を見つめる。
「これ、もともと動かないんです。時計屋さんに見てもらったんですけど、部品はどこも壊れていないらしくて。お店の人もお手上げだって、返されたんです」
いくつかの時計屋を巡ったが、返答は皆同じ。部品は正常で、動かない理由はわからない、とのことだった。
きっと祖母のあとを追うように役目を終えたのだと、僕は思っている。
「……だけど、祖母が大切にしていた物なんです。拾ってくれて、助かりました」
彼女が引き止めてくれて本当によかったと思いながら、感謝を伝えるように頭を下げる。
すると頭上から、くすりと笑い声が降ってきた。不思議に思って顔を上げると、彼女は手で口元を押さえながら笑いを堪えているようだった。
「ふふっ……ごめんなさい。なんだか面白くて。だって、貴方も一年生ですよね」
「え、ええ……まぁ」
「それなのに私達、ずっと敬語で喋って……ふふっ」
「そ、そうですね……あ、いや。そう、だね」
そんな些細なことがツボにはまってしまったようで、彼女の口元からくすくすと笑みが溢れていく。彼女があまりにも楽しそうに笑うから、僕も思わずつられて笑ってしまった。
「その時計、本当に大切な物なんだね。きっとその子も喜んでいると思うよ……それじゃあ、また」
時計を“その子”と人のように呼ぶなんて不思議な人だ。
彼女は小さくお辞儀をして振り返ることなく教室を出ていった。
僕は懐中時計を握りしめながら、その場に立ち尽くす。
誰かと目を合わせて言葉を交わし、ましてや笑うなんて、本当に久しぶりのことだったから。
*
昼休み。ひとり食堂に入ると、そこは沢山の学生達で賑わっていた。
この大学の食堂の天井は高く、大きなガラス窓が並んだ開放的な内装で、お洒落なレストランのような雰囲気だ。
和洋中とメニューの種類も豊富で、味もさることながら、値段が良心的なのが嬉しい。
加えて、テーブル席だけでなくカウンター席も用意されていることも魅力のひとつだ。ぼっちの貧乏学生にとって、ここの食堂は図書館の次に落ち着ける場所だった。
きつねうどんを購入し、窓際にあるカウンター席に座って手を合わせる。
ひとつ空いた隣の席には、美味しそうにオムライスを頬張る女子学生の姿があった。その様子を見ていると、オムライスが食べたくなってくる。
どうしてこう、人が食べている物は美味しそうに見えるのだろうか。
明日は僕もオムライスにしようかな、などと考えていると、窓ガラスに映る女性の姿が視界に入った。その女性はこちらを羨ましそうに見つめているような気がしたが、そもそもそんなものは見えるはずがないのだ。僕はそっと視線を逸らしてきつねうどんを啜る。
うどんは柔らかい太麺で、そこそこ分厚い三角お揚げを噛むとじわりと甘い出汁が溢れる。少し味が薄いような気もするけれど、学食にこれ以上のクオリティを求めるのは欲張りだろう。
やがて食事を終えた僕は、お盆を窓際に寄せてポケットの中から懐中時計を取り出す。
竜頭を押して蓋を開けるが、やはり時計の針は微動だにしない。時計の側面を軽くとんとんと叩いてみても、当然動く様子はなかった。
じっと見つめてみたところで、どうにもならないことはわかっている。ただ、時折こうして動いていないものかと確認してしまう。
ゆっくり蓋を閉じると、かちっという音が鳴った。その音が心地よくて、開けては閉めてを繰り返す。
そして蓋に彫られた朱鷺の模様を指でそっとなぞりながら、小さく溜息をついた。
――やっぱり、なんとか直してやりたいよな。
実はもう一軒、この懐中時計を見てもらえそうな店に心当たりがあった。いつ見ても閉まっている店なのだが、あそこならなんとかしてくれるかもしれない。
今日も帰りに店の前を通ってみようと決めて、僕は静かに席を立った。
*
僕のアパートは少し高台にあって、大学から帰宅する際には最後に緩やかな坂を上ることになる。その上り坂にさしかかる手前辺りに、異彩を放つ建物があった。
まるでそこだけ時代に取り残されたかのような、瓦屋根の古い木造建築。その軒先には〝霧原骨董店〟と彫られた、かなり年季の入った一枚板の看板が掲げられている。
入口の左右にある出窓からわずかに中を覗けるのだが、照明が点いていない店内は薄暗く、物が沢山置かれていることが辛うじてわかる程度だった。
格子の引き戸は客の来店を拒んでいるかのようにぴたりと閉められており、〝本日ノ営業ハ終了シマシタ〟という札が下げられている。
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