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月の記憶 〜プレゼント〜

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 雪が降り始めた。
 礼蘭が居なくなって暁の心はあの日のまま時を止めた。

 礼蘭の遺骨と遺影は、役立たずだった喪主の夫の元へ帰ってきた。

 礼司がそのまま、礼蘭を連れて家に帰ると思っていた。
 だが、礼司もまた、礼蘭を亡くした事を受け止められておらず、泣きながら小さな箱に収まった礼蘭を暁に手渡した。



「‥‥‥‥‥礼蘭‥‥‥‥?」
 骨箱を抱き締めて、暁はただひたすら抱き締めた。
 この小さな箱に収まったのが‥‥‥礼蘭だとまだ混乱していた。

 両親が、暁と礼蘭の家にやってきて礼蘭の遺影と花を飾った。
 仏花は嫌だからと、それを思わせない花を飾った。

 線香の匂いが、2人の部屋の匂いを変えた。



「‥‥‥‥‥ただいま‥‥‥‥」

 おかえりは聞こえない。だって俺の腕の中に収まっているのが礼蘭だから‥‥‥。

 まだこの家は、礼蘭の居た跡がたくさんあって、
 俺は骨箱を隣に置いて、ベッドの端に座り込み礼蘭の匂いが残るパジャマを抱き締めた。


 その匂いが、余計に涙を誘って‥



 また泣けた‥‥。




 俺の妻は‥‥わずか4ヶ月で、俺の世界から消えてしまった。



 礼蘭の匂いに包まれて、暁は眠れなかった瞳を静かに閉じる事が出来た。

 涙で泣き腫れた瞼と、掠れた頬。疲れ切った寝顔に両親はグッタリと肩を落としまた涙した。


「礼蘭ちゃん‥‥‥っ‥‥‥心配かけちゃってるわね‥‥。」
「‥‥‥うっ‥‥俺ダメだっ‥‥限界だっ‥‥‥ぅぅぅぅぅっ‥‥‥。」


 眠った暁を見て、両親は泣き崩れた。


 礼司達にも、申し訳なかった。

 可愛いお嫁さんは‥‥自分の息子を守りその命を落とした。
 その事実が‥‥どう受け止めていけばいいのかわからなかった。


 どちらがなんて言えない。かけがえのない息子とその妻。



 この喪失感は拭えない。


 暁が死んで居たならば‥‥自分達も、受け止め切れない。

 だとしても、礼蘭の死も受け止められない。



 こんなに気が狂った様な暁を見て、心が締め付けられる。

 暁にとって礼蘭は命そのものだった。




 礼蘭以外見つめる事なく、身体も満足に動かせない。

 今ようやく‥‥妻の匂いに意識を失う様に眠りに落ちた。



 悲しげな寝顔だった。




 この世の何もかもを、すべて無くした、苦しみもがく暁を見ているのはつらかった。


 慰める言葉も出ない。あるはずがない‥‥‥。


 ただ唯一だった妻は‥‥夫を残して逝ってしまった‥‥‥。



 結婚式を前に、夫を守って逝ってしまった‥‥。



 2人で幸せに生きていてくれたらよかった‥‥‥。



 大事な友人で、親戚となった友人の大切な娘。
 息子と一緒に育って生きた可愛いお嫁さんは、
 息子を守って逝ってしまった‥‥。


 行き場のない思いは涙になるばかりだった。



 そして、ずっと頭から離れない。
 暁の叫び‥‥‥



「俺達がっ‥‥‥側にいようっ‥‥悠ちゃん‥‥っ‥‥暁を1人に出来ないっ‥‥。」

 忠がそう呟いた。その言葉に母は力強く頷いた。






 暁を1人にしてはいけない‥‥‥。




 眠った暁は、知らぬうちにベッドに横たわっていた。


 いい匂いがした。礼蘭の匂いだ‥‥。
 パジャマに顔を埋めていた。


「‥‥‥‥‥‥」
 目を閉じたまま、その匂いを目一杯吸い込んだ。



 ああ、礼蘭‥‥‥夢だった‥‥‥


 あの恐ろしい出来事は‥‥‥悪夢だ‥‥。

 こんなにも、礼蘭の匂いがする‥‥。



 俺の礼蘭はここにいる‥‥‥。


「‥‥れい‥‥‥。」
 名前を呼んで、目が覚めた。空はまだ薄暗かった。

 だが、手を伸ばした先に温もりはなかった。


 手が布団の中で彷徨う。
 寝惚けていた思考は、恐怖に襲われバンバンと布団を叩いた。
 焦って掛け布団をひっくり返し身体を起こした。

「‥‥‥れいら!!!!おいれいら!!!っ‥‥‥礼蘭ぁぁ!

 どこだ?!れい!!!!」

 その声に目覚ました両親は、涙を流し荒れ狂う暁を抱きしめた。


 両親の体の合間を縫って暁の手が礼蘭を探す。


「れい!‥‥‥れい!!!っ‥‥れいぃ‥‥‥どこぉっ‥‥!!れいらぁぁ!!!」


 泣き叫び、彷徨い続ける行き場をなくした礼蘭への愛。

「暁!!暁!!!!」

 悠が暁に必死に呼びかけた。



 眠りについて目覚めたその日から、暁の礼蘭を探す夢遊病が始まった。


 食事もほとんど喉を通らず、礼蘭の名以外ほとんど声にできなかった。

 名前とその温もりを探す言葉の数々。


「‥‥ふぅっ‥‥‥‥っあぁっ‥‥‥ぁぁぁぁっ‥‥‥‥」

 そして最後は、遺影と骨箱を見て何度も再確認しては、泣き崩れるばかりだった。


 暁は‥‥‥生きる意味を失った‥‥‥。


 産まれた時から、一緒だった半身の妻を失って正気を取り戻すには時間がかかりそうだ。ひょっとしたら、一生無理かもしれない。



 手を合わせることを嫌がる夫に、妻はどう思っている事だろう‥‥‥。


 線香の一つ、その匂いを避ける様にベランダに飛び出す夫を情けなく思っているだろうか‥‥‥。


「礼蘭ちゃんの遺骨‥‥礼司くん達に返した方が良いのかしら‥‥‥供養も出来ない夫に‥‥任せておいて‥礼蘭ちゃんが可哀想だわ‥‥‥。」
 痺れを切らし、悠は忠にそう呟いた。

 忠は、その言葉に俯いた。


「‥‥礼司達だって‥‥供養したいって思っても‥‥‥受け止められないから‥‥暁に預けたんじゃないのかな‥‥。

 戸籍上、暁は夫だってこともそうだけど‥‥。

 あの家に今あるのは、遺影じゃなくて普通の写真だろ‥‥‥
 明日の初七日にはこっちにくるんだ‥‥。それからでも遅くないよ‥‥。僕だって‥悠ちゃんが急に居なくなったら‥‥正気じゃ居られないよ‥‥。」


 忠の言葉に、悠は涙を浮かべて怒りを露わにした。

「‥‥しょうがないじゃない!!!それでも生きていかなきゃいけないのよっ?!命がある限り!!!礼蘭ちゃんは暁を守ってくれたのよ!!‥っ‥いつまでもメソメソしてたら死んでも死に切れないわ!!!あたしだって礼蘭ちゃんに生きてて欲しかったわよっ!私達だって、家族を失った遺族達にもたくさん会ってきたじゃないっ‥‥看取った人達がっ‥‥それでもっ‥暁ほどの人は居なかったわっ‥‥」

「暁は自分の目の前で礼蘭ちゃんがっ‥‥!そんな場面を見て気丈になんて出来ないよ!!暁を守って礼蘭ちゃんが死んじゃったなんて!!!暁はっ‥‥暁の気持ちはっ‥‥だから俺達がここにいるんじゃないかっ!!」

「‥‥ぅうっ‥‥‥なんでっ‥‥礼蘭ちゃんなのぉっ‥‥‥っなんで‥‥‥っ‥‥‥」

 テーブルに顔を突っ伏して悠は声を出して泣いた。


 この部屋にある、たくさんの写真の中の2人はいつも笑顔だった。ピッタリと寄り添った写真が‥‥たくさんある。

 お揃いのマグカップ‥‥2人で揃えたこの家の家具も全部。
 暁と礼蘭が一つ一つ集めた思い出だ。


 几帳面な彼女は、しっかりと部屋の中を整理していて綺麗な部屋だった。
 暁のための好物の手書きのレシピ本。マメなカレンダーの書き込み。12月3日のハートマーク。

 見渡す程に、2人の幸せが詰まっている。

 1人で映った遺影に、暁は何度も絶望に堕とされていく。





 またその夜、悠達が線香をあげると、暁はベランダに出た。

「‥‥‥‥‥‥」


 1人ベランダに出た暁は、礼蘭の指輪を自身の小指につけようとした。

 だが、どうしても第二関節で止まってしまう。


「ちっせぇ‥‥‥。」


 礼蘭の7号の指輪は、暁に収まってはくれなかった。
 初めてのペアリング、婚約指輪‥‥‥。

 ペアリングを外して、結婚式でつけるはずだった結婚指輪‥‥‥。


 行き場をなくしたものがたくさんあった。


 たくさんの思い出も感情も、迷子になっている。
 辿り着く先がない‥‥‥。


 涙はやっぱり、枯れないんだ‥‥


 一度崩壊した涙腺は、いとも簡単に下まつ毛を通り抜けて流れていく。



 明日は、初七日‥‥‥また、坊さんが来て
 礼蘭にお教を聞かせに来る‥‥‥。


 突き付けられる現実が、ひどく頭痛を起こさせる。


 泣きすぎるせいだ‥‥。


 眠れないからだ‥‥。


 礼蘭の匂いに、線香の香りが付くからだ‥‥‥。


 俺達の部屋が、どんどん変わっていく‥‥‥。




 ベッドの匂い、クローゼットの礼蘭の服‥‥‥。

 パジャマや枕‥‥それだけは、変わらないでほしい‥‥。



 礼蘭の長い髪を見つけると、俺は‥‥嬉しくなる‥‥‥。



 触れられるのが‥‥遺骨じゃ‥‥俺の精神はガラガラと崩れていく。


 礼蘭なのに、礼蘭じゃない‥‥‥。


 怖い‥‥‥受け止められない。





 俺も‥‥‥‥そっちへ行きたい‥‥‥。





 翌日、キィィィンとりんの音が部屋に鳴り響いた。
 低く重々しい僧侶の経が続く‥‥‥。



 その日、久しぶりに義家族に会った。
 お互いやつれた顔で、少し痩せた。


 礼司と楓が、暁に弱々しく笑って見せた。

「暁‥‥大丈夫か?」
「おじさんこそ‥‥‥大丈夫じゃないくせに‥‥
 そんな事聞かないでよ‥‥‥。」

「ははっ‥‥‥そうだな‥‥‥全然、大丈夫じゃないよ。」


 久しぶりに、礼司達に会った暁は、まともに返事をする事が出来た。お互い枯れ尽くした声で交わした会話。


 楓はもっとやつれていた。楓はやり切れない思いでいっぱいだった。


 礼蘭が命を落としたのも、自分が言い出したからだとたくさん自分を責めた。もしかしたら、2人同時に亡くしていたかもしれない。そんな自分が怖くて怖くて仕方なかった。

「‥‥‥あがって‥‥。ほら‥‥真鈴も‥‥‥。」


 楓の後ろで、真鈴が悲しげに隠れていた。



 暁は初めて、正気に戻れた気がした。




 罪悪感で押し潰されそうなくらいが‥‥よかった。


 そしたら、礼蘭が死んだのは、俺のせいだって‥‥。


 全部が、俺のせいだって‥‥思う事が出来るから‥‥。


 小さな頃からこの人達にも育てられた。

 だけど、俺は本当の子供じゃない。


 結婚してやっと、義理の息子となれた。



 もっと俺を責めてよ‥‥。



 礼蘭が死んだのは‥‥俺のせいだって‥‥‥‥。




 だってそうでしょ‥‥‥?



 俺がトラックに当たってたら‥‥‥礼蘭は生きていた‥‥。


 2人で幸せになるんだよって‥‥

 大事にしてね。と結婚を承諾してくれた礼蘭の両親の願いを、俺は‥‥‥たった数ヶ月で‥‥破っちゃったよ‥‥‥。


「‥‥‥っ‥‥‥ふぅ‥‥‥。」

 僧侶が帰った後で、礼蘭の遺影と遺骨の祭壇を見てまた、
 3人は涙を流した。


 ここにきた目的も何もかもわかってるけれど、
 結婚した暁の家に、礼蘭が居るだけだと思っていたら間違いじゃないかと思えた。でもやっぱり違った。


 楓と真鈴が身を寄せて礼蘭を思い泣き続ける。
 礼司もただただ涙を流し、部屋の中を見つめた後、暁の前に来た。

 ソファーに背を丸くして座った暁に、礼司はあるものを差し出した。

「‥‥‥なに‥‥?」


「‥‥礼蘭の、結婚式に持ってく荷物の中に、入ってた‥。
 暁宛だったから‥‥。俺達にもね‥忠達にもね‥あったんだ‥‥。結婚式用のは、教会に預けてたから‥これは多分別物だと思うんだ‥‥。俺達も‥‥まだ開けられないんだ‥‥‥っ‥‥読むのが怖くてっ‥‥‥礼蘭は居ないのにっ‥‥‥読むのが怖くてっ‥‥‥でもっ‥‥渡さなきゃって‥‥‥。

 礼蘭の思いがっ‥‥綴ってあるからっ‥‥‥。暁にっ‥‥絶対渡さなきゃって‥‥‥。」

「‥‥‥‥っ‥‥‥なんだよ‥‥‥‥っこんなの‥‥俺は‥‥‥。」


 これじゃまるで‥‥遺書を残したみたいじゃないか‥‥‥。



 震える手で受け取ったその手紙からも、礼蘭の匂いがした。
 礼蘭の好きな香水と、礼蘭自身の匂いが混ざった匂いだ。


 開けられないと言う気持ちがよく分かる。


 けれど、封筒に、〝暁へ〟と書かれた文字が読んでくれと言ってる気がして。


 礼蘭の声が、聞こえる気がして、可愛いシールで留められた封を開けて手紙を見た。



 《あきへ》

 大好きなあき、私を世界一幸せなお嫁さんにしてくれてありがとう。23年間の時間は、あきとの思い出でいっぱいだね。

 これからも2人の時間が積み重なっていく事をとっても嬉しく思ってるよ。

 いつも、大切にしてくれて、愛してくれて、私は本当に幸せだよ。この大切な瞬間に、あきに伝えたい事がもう一つ増えたので手紙を書きます。

 同封してるものをご覧くださいっ♪


 驚いた?
 きっと、神様が私達の願いを叶えてくれたみたいだよ?


 大好きな大好きなあきと、私の赤ちゃんが出来ました!
 こっそりでごめんね?びっくりさせたかったの!


 3人で、バージンロードを歩いちゃったね。


 まだこんなに小さいから、男の子なのか、女の子なのか分からないけど‥‥


 きっと、あきに似てとっても可愛い赤ちゃんだよ!!


 これからは3人になったね。とりあえず今、びっくりしているあきへ、これを読んで私の元へすっ飛んでくるあきへ。



 3人で幸せになろうね!愛してるよ!〟


 暁は涙を流して、封の中にあるものを見た。
 まだ小さな袋のままの赤ちゃんが映ったエコー写真と、その下に書かれた出産予定日。


 8月10日


「ぁあっ‥‥‥‥うそっ‥‥‥そんなっ‥‥っ‥‥」


 ひらりと落ちたエコー写真に一同全員が目を見開いて込み上げてくる涙を流して崩れる。



 これは遺書なんかじゃない‥‥。

 未来を待ち望んでいた礼蘭のキラキラした愛のあふれるプレゼントだった。


 床に崩れ落ち頭を抱えた暁は、泣き叫び苦しい絶望の涙を流した。

 暁は2人の大切な人を、たったの一瞬で失ったことを知った‥‥‥。

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