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8.嵐の前の……
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理論上は最強。「黒き魔導師」から授かった精霊は、そのとおり確かに素晴らしかった。いや、凄まじかったというべきか。
精霊たちは、D太――早水 大祐が半ば無理矢理押し込まれた「異界の扉」から出て、新たな世界の大地を踏んだ途端、みるみる膨張し始めた。大祐はもちろん普通の人間で、だから元々魔力だとか霊感だとか、そんなオカルトじみた能力は持っていなかった。しかし精霊は、そのようなただの人間でも視認できる姿へと変化し、完璧に守ってくれたのだ。
野盗やモンスター、怪しげな宗教の勧誘や、ぼったくりの客引き、その他。災いをもたらそうとする者は、徹底排除。無敵のボディガードが、二十四時間つき添ってくれているようなものだった。
おかげで大祐は異世界にて安全安心な生活を送ることができたが、しかしちょっとでもトラブルになればおつきの精霊がしゃしゃり出てきて、相手の命を奪おうとする。当然周りからは恐れられ、近づく者もおらず――こうして彼は異世界においても立派な「ぼっち」となり果ててしまった。
大祐には、ささやかな夢があったのだが。
異世界生活に慣れないうちはちょっぴり失敗もしつつ、だが友情、努力、勝利と順調に話を進め、やがては勇者と呼ばれるようになる。そして、可愛い少女から色っぽいお姉様までたくさんの女たちに慕われて、最後はツンデレな姫と結ばれるのだ。
しかしそんな目論見は、魔導師が良かれと憑けてくれた最強の精霊たちのおかげで、なにひとつ叶うことはなかった。
むしろ逆で、みんなから嫌われ、疎まれる始末という……。
寂しい。つらい。胃が痛い。
しかし元いた世界に、大祐は帰るわけにはいかなかった。戻ったとしても居場所があるわけじゃなし、それにこの時点で、彼は戻る術《すべ》を知らなかったのだ。
――いや、俺は、この世界で生まれ変わると決めたのだ。ここで尻尾を巻いて逃げ出してしまったら、今度こそ本当に終わりだ……!
幸いというべきか、この世界で孤立するきっかけともなった精霊のおかげで、病気にもならないし、歳を取るのもひどくゆっくりになった。そのうえ食事を取らなくても生きていけるから、餓死することもない。余談だが、食べることをしなくなったせいで、肥満気味だった大祐の無駄な贅肉は落ち、彼はすっきりスリムになった。
自身の健康に憂いはなく、時間も無限にある。ならばと、大祐はずっと憧れていた魔法を、腰を据えて学び始めた。
こうして身につけた魔術の技と、そして「黒き魔導師」にもらった精霊たちの力も借りて目障りな者たちを倒し続けているうちに、いつしか大祐に敵うものはいなくなった。
そして最後の一人、「魔王」を倒し、とうとう大祐は新しき魔物の王となったのだ――。
魔王として君臨した数年は、悪くはなかった。
しかし生きとし生けるものの頂点として過ごしているうちに、大祐は過去の汚点が気になり出した。
異世界を訪れる、遥か昔。元の世界で、無能者として扱われた日々のことだ。
――やり直したい。今なら誰にも、馬鹿にされない気がする。
こうして、人からも魔物からも恐れ、敬われたことで自信をつけた大祐は、自らの居城「真紅城」地下に「異界の扉」を設置し、元の世界へ戻った。これは逃亡ではなく勇退だと、大祐自身は思っている。
「異界の扉」はこのとき大祐を、彼の両親が死去し、不遇の時代を過ごすきっかけとなったその少し前に戻した。大祐は戻った先で異世界から持ち帰った貴金属を換金し、当座の資金とすると、非合法な手段で新たな戸籍を得、「速水 大輔」として大学へ進学した。
大学で建築を学んだのは、暇に任せて魔王城を改造しているうち、その分野に興味を持ったからだ。
卒業後は大手建設会社の子会社に、正社員として採用された。
かつては恐ろしく高いハードルだと思い込んでいた、受験や就活。それらをあっさり乗り越えて、大祐は念願の社会人となった。
正直、拍子抜けだった。
――もっと早くやっとけば良かった。
そう、異世界なんぞに旅立つ前に。
率直に、そう思った。
会社から駅へ向かう途中、オフィス街を抜ける。とあるビルとビルの間を、大祐は覗き込んだ。
異世界へ旅立つ前、彼はここで不思議な少女を拾ったことがあった。今、ビルの間にはなにも落ちていないし、誰もいない。
――当たり前か。
苦笑しながら、進行方向に視線を戻す。しかしアスファルトの道路に靴底をつけたそのとき、空気が変わり、全ての音が消えた。
――しまった。
この気配には覚えがある。結界だ。
空間を切り取り、周囲からの干渉を遮断する。何者かが張ったそのような場に、不用意に入り込んでしまったらしい。
マジックミラーを挟んだかのように、大祐からは辺りの景色も人も見えるが、向こうからこちらは見えない。突然歩みを止めた大祐に構うことなく、人々は通り過ぎていく。
一人の少女が物陰から現れ、戸惑う大祐の前に立ち塞がった。
「やっと見つけた。お前が魔王だな! お前の持ち物が、ここまで導いてくれたぞ!」
「お前は……!」
少女の顔、そしてその特徴的な外見を、大祐は知っている。そして少女の突き出した手のひらの上では、見覚えのある真っ黒な指輪が、ふわふわと浮かんでいた。
太いアームの印台型の指輪。異世界で初めて倒した金持ちの魔族が嵌めていたもので、勝利の記念にと奪ったのだ。
――あれは、あの指輪は、どうしたんだっけ?
そうだ、「早水 大祐」に――過去の自分に、譲ったんだった。レコードの礼として。
「縁とはどこでどう繋がっているか分からない」。昔、大祐はそう言ったが、そのとおりだった。
自分自身の言葉に、関心させられるなんて。堪えきれず、大祐は笑った。
「なにがおかしい! 私をバカにしているのか!?」
少女が憤る。
エキゾチックな青い衣装に、頭にはケモノの耳。
もう何百年も昔に出会った少女。いや、こちらの世界では、そんなに時は経っていないのだったか。
異世界で再会できるかと思ったが、会えなかった。
名は。彼女の名はなんだったか。
記憶を辿れば、すぐに思い出せる。
「久しぶりだなあ。――モモ」
「!?」
名を呼ぶと、猫耳少女は激しくうろたえ出した。
「な、なぜ、私の名前を知っている……!?」
「あ、えーと……」
怯えさせるつもりはなかったのだが、迂闊だった。彼女たちの世界では、呪《まじな》いに悪用されることもあって、本名を知られることはご法度なのだ。
宿敵と対峙するからと必要以上に気を張っていたところに、その相手から本名を呼ばれてしまった。猫耳少女は――モモは、恐慌状態に陥った。
「たっ、倒す! 倒す倒す倒す……!」
血走った目でただ一言を繰り返し、モモは魔法を放った。
魔王に勝負を挑もうというのだ、モモもなかなかの術者だった。
巨大な炎がごうごうと音を立て、大祐に向かって襲い掛かってくる。
「ちっ」
避ける間がなかったため、呪文を唱え、腕を払う。大祐が久しぶりに使った反射魔法は制御がままならず、炎はまっすぐ術者に跳ね返った。
「あっ!」
数倍に増強され、戻ってきた自らの魔法をまともに喰らい、モモの体は後ろへ仰け反る。集中が切れたからか、大祐の周囲を覆っていた結界は解除された。
「モモ! 大丈夫か!? すまん!」
「ぐ……!」
大祐は慌てて駆け寄る。なんとかその場で踏ん張っていたモモは、大祐の手が触れる寸前、後ろへ飛び退き、虫が草場に身を隠すかのように、ビルとビルの間へ消えた。
「あっ、待て!」
大祐も追いかけようと思ったが、ビル同士の隙間というモモの逃走経路はあまりに狭く、スーツ姿の大の男が進むには無理があった。
「せっかく会えたのに……。可哀想なことをしたな……」
大祐はまだ熱の籠る右手をじっと見詰めた。そんな彼を真昼の往来を行くビジネスマンたちが、不審げな目でちらちらと眺める。
時刻は午後三時になった。
そろそろこの作業にも一段落つけて、夕飯の支度に取り掛からなければ。
イズーは、ホーローの両手鍋の中見を小皿に取って、味を確かめた。彼の頭の上では、小人が寝そべっている。
「今日はなに作ってんだ?」
「野菜スープ、バージョンファイブだ」
「またスープかよー!」
「だから、バージョンファイブだ。飽きないように、味を変えている」
小人は唇を尖らせながら、自分の鼻を摘んだ。
「スープはスープだろーが。なんかくせえし」
「風吹の冷え性をなんとかしてやりたくて、色々入れてみたんだけどな」
「この匂いは、女ウケしねえんじゃねえの」
「やっぱりそうか」
イズーはガス台の横の作業台に置いた本を、パラパラとめくった。広げられた本には、「薬膳」がどうとかいうタイトルがついている。
「うーん」
イズーは鍋に薬味や調味料をあれこれ足したかと思うと、再び味見し、そしてカッと目を見開いた。
「こ、これは……!」
「な、なんだ!? どうした!」
尋常ならざる表情のイズーを心配して、頭の上に留まっていたのと、そしてもう一匹、新たな小人が近づいてくる。
頭の上でくつろいでいたのが、両手鍋の付喪神。そしてもう一匹は、オーブンレンジの付喪神だ。
「か、カレーになった……!」
「は?」
「全ての薬膳料理はカレーに通ず。そういうことか……!」
「ちげーだろ。おめーの作り方に癖があるだけだろ」
イズーの手から小皿を奪い、付喪神二匹は順番にスープを試食した。
少々苦いが、確かにカレーによく似た味だ。ご飯にかけて食べると、美味しいかもしれない。
「おめー、この世界の人間じゃねえんだろ。元の世界では、あれか? やっぱコックかなんかだったのか? それにしちゃ、初めは包丁の使い方からなにから、なってなかったけどな」
「故郷でも一応、小さい頃から厨房に出入りしてたんだが、包丁は持たせてもらえなかったんだ」
「そりゃ、ちびっこに刃物は危ねえもんな」
「いや、俺は奴隷だったからな。武器になるものを持たせて、暴動でも起こされたら困るからだろ」
「奴隷!?」
「ああ」
鍋の中身をおたまでぐるぐるかき混ぜながら、イズーは暇つぶしに自らの半生を語った。聞き終えた付喪神たちの目は、すっかり潤んでいる。
「お前……。波乱万丈っていうか、壮絶な人生を送ってるんだなあ」
「そうか? この程度の境遇の奴は、俺たちの世界にはごまんといるぞ」
どこまでも淡々としているイズーに、鍋の付喪神は瞼をこすりながら言った。
「だが、なるほどなあ。納得いったぜ。掃除やら料理やら家のことなんて退屈だろうに、お前みたいな育ちの奴なら、そういうことも新鮮に感じるんだろう」
仲間の意見に、オーブンレンジの付喪神も頷いている。
「まあそうなんだが、それだけじゃないな。――好きな女が、快適に毎日を過ごす。整理整頓された部屋でくつろぎ、美味い飯を食って、清潔な湯に浸かって。そういうのを見ていると、俺も幸せなんだ」
鍋の付喪神は宙を舞うと、小さな手でイズーの頬をぺしんと叩いた。
「尽くす幸せ、かあ。てめえ、俺の主に惚れてんな? どうしようもなく、惚れまくってやがるな?」
「当たり前のことを、いちいち言うな」
臆面もなく、イズーはニヤニヤと相好を崩した。
「奴隷が出世して、んで今は、魔法使い、と。なるほどねー。だから、八百万の神様を捕獲したりできたわけか」
付喪神が何気なく口にした事柄を聞いて、イズーは鍋をかき混ぜる手をぴたりと止めた。
「……ここに、神様をぶっ込むっていうのはどうだろう?」
「は!?」
「細かく刻むか、タレに漬け込むかして……」
イズーは腕を組み、考え込んでいる。
「俺たちの世界の水の精霊は、浄化の力を持っていた。こっちの世界の、八百万の水の神も恐らくは。つまり、デトックス効果があるんじゃないだろうか」
「お、おい! 待て! お前、また罰当たりなことを……!」
水の神様ならば、確かこのマンションから少し先を流れる、「多魔川」で採れる。イズーは前にも神様を捕まえに、土手へ出向いたことがあった。
思い立ったらすぐに実行するのが、イズーの良いところであり、それ以上に悪いところでもある。
「やめろやめろ! 神様を食うなんて、お前……!」
付喪神たちの制止の声など聞こえないらしく、イズーはエプロンを着けたまま、玄関から飛び出していった。
精霊たちは、D太――早水 大祐が半ば無理矢理押し込まれた「異界の扉」から出て、新たな世界の大地を踏んだ途端、みるみる膨張し始めた。大祐はもちろん普通の人間で、だから元々魔力だとか霊感だとか、そんなオカルトじみた能力は持っていなかった。しかし精霊は、そのようなただの人間でも視認できる姿へと変化し、完璧に守ってくれたのだ。
野盗やモンスター、怪しげな宗教の勧誘や、ぼったくりの客引き、その他。災いをもたらそうとする者は、徹底排除。無敵のボディガードが、二十四時間つき添ってくれているようなものだった。
おかげで大祐は異世界にて安全安心な生活を送ることができたが、しかしちょっとでもトラブルになればおつきの精霊がしゃしゃり出てきて、相手の命を奪おうとする。当然周りからは恐れられ、近づく者もおらず――こうして彼は異世界においても立派な「ぼっち」となり果ててしまった。
大祐には、ささやかな夢があったのだが。
異世界生活に慣れないうちはちょっぴり失敗もしつつ、だが友情、努力、勝利と順調に話を進め、やがては勇者と呼ばれるようになる。そして、可愛い少女から色っぽいお姉様までたくさんの女たちに慕われて、最後はツンデレな姫と結ばれるのだ。
しかしそんな目論見は、魔導師が良かれと憑けてくれた最強の精霊たちのおかげで、なにひとつ叶うことはなかった。
むしろ逆で、みんなから嫌われ、疎まれる始末という……。
寂しい。つらい。胃が痛い。
しかし元いた世界に、大祐は帰るわけにはいかなかった。戻ったとしても居場所があるわけじゃなし、それにこの時点で、彼は戻る術《すべ》を知らなかったのだ。
――いや、俺は、この世界で生まれ変わると決めたのだ。ここで尻尾を巻いて逃げ出してしまったら、今度こそ本当に終わりだ……!
幸いというべきか、この世界で孤立するきっかけともなった精霊のおかげで、病気にもならないし、歳を取るのもひどくゆっくりになった。そのうえ食事を取らなくても生きていけるから、餓死することもない。余談だが、食べることをしなくなったせいで、肥満気味だった大祐の無駄な贅肉は落ち、彼はすっきりスリムになった。
自身の健康に憂いはなく、時間も無限にある。ならばと、大祐はずっと憧れていた魔法を、腰を据えて学び始めた。
こうして身につけた魔術の技と、そして「黒き魔導師」にもらった精霊たちの力も借りて目障りな者たちを倒し続けているうちに、いつしか大祐に敵うものはいなくなった。
そして最後の一人、「魔王」を倒し、とうとう大祐は新しき魔物の王となったのだ――。
魔王として君臨した数年は、悪くはなかった。
しかし生きとし生けるものの頂点として過ごしているうちに、大祐は過去の汚点が気になり出した。
異世界を訪れる、遥か昔。元の世界で、無能者として扱われた日々のことだ。
――やり直したい。今なら誰にも、馬鹿にされない気がする。
こうして、人からも魔物からも恐れ、敬われたことで自信をつけた大祐は、自らの居城「真紅城」地下に「異界の扉」を設置し、元の世界へ戻った。これは逃亡ではなく勇退だと、大祐自身は思っている。
「異界の扉」はこのとき大祐を、彼の両親が死去し、不遇の時代を過ごすきっかけとなったその少し前に戻した。大祐は戻った先で異世界から持ち帰った貴金属を換金し、当座の資金とすると、非合法な手段で新たな戸籍を得、「速水 大輔」として大学へ進学した。
大学で建築を学んだのは、暇に任せて魔王城を改造しているうち、その分野に興味を持ったからだ。
卒業後は大手建設会社の子会社に、正社員として採用された。
かつては恐ろしく高いハードルだと思い込んでいた、受験や就活。それらをあっさり乗り越えて、大祐は念願の社会人となった。
正直、拍子抜けだった。
――もっと早くやっとけば良かった。
そう、異世界なんぞに旅立つ前に。
率直に、そう思った。
会社から駅へ向かう途中、オフィス街を抜ける。とあるビルとビルの間を、大祐は覗き込んだ。
異世界へ旅立つ前、彼はここで不思議な少女を拾ったことがあった。今、ビルの間にはなにも落ちていないし、誰もいない。
――当たり前か。
苦笑しながら、進行方向に視線を戻す。しかしアスファルトの道路に靴底をつけたそのとき、空気が変わり、全ての音が消えた。
――しまった。
この気配には覚えがある。結界だ。
空間を切り取り、周囲からの干渉を遮断する。何者かが張ったそのような場に、不用意に入り込んでしまったらしい。
マジックミラーを挟んだかのように、大祐からは辺りの景色も人も見えるが、向こうからこちらは見えない。突然歩みを止めた大祐に構うことなく、人々は通り過ぎていく。
一人の少女が物陰から現れ、戸惑う大祐の前に立ち塞がった。
「やっと見つけた。お前が魔王だな! お前の持ち物が、ここまで導いてくれたぞ!」
「お前は……!」
少女の顔、そしてその特徴的な外見を、大祐は知っている。そして少女の突き出した手のひらの上では、見覚えのある真っ黒な指輪が、ふわふわと浮かんでいた。
太いアームの印台型の指輪。異世界で初めて倒した金持ちの魔族が嵌めていたもので、勝利の記念にと奪ったのだ。
――あれは、あの指輪は、どうしたんだっけ?
そうだ、「早水 大祐」に――過去の自分に、譲ったんだった。レコードの礼として。
「縁とはどこでどう繋がっているか分からない」。昔、大祐はそう言ったが、そのとおりだった。
自分自身の言葉に、関心させられるなんて。堪えきれず、大祐は笑った。
「なにがおかしい! 私をバカにしているのか!?」
少女が憤る。
エキゾチックな青い衣装に、頭にはケモノの耳。
もう何百年も昔に出会った少女。いや、こちらの世界では、そんなに時は経っていないのだったか。
異世界で再会できるかと思ったが、会えなかった。
名は。彼女の名はなんだったか。
記憶を辿れば、すぐに思い出せる。
「久しぶりだなあ。――モモ」
「!?」
名を呼ぶと、猫耳少女は激しくうろたえ出した。
「な、なぜ、私の名前を知っている……!?」
「あ、えーと……」
怯えさせるつもりはなかったのだが、迂闊だった。彼女たちの世界では、呪《まじな》いに悪用されることもあって、本名を知られることはご法度なのだ。
宿敵と対峙するからと必要以上に気を張っていたところに、その相手から本名を呼ばれてしまった。猫耳少女は――モモは、恐慌状態に陥った。
「たっ、倒す! 倒す倒す倒す……!」
血走った目でただ一言を繰り返し、モモは魔法を放った。
魔王に勝負を挑もうというのだ、モモもなかなかの術者だった。
巨大な炎がごうごうと音を立て、大祐に向かって襲い掛かってくる。
「ちっ」
避ける間がなかったため、呪文を唱え、腕を払う。大祐が久しぶりに使った反射魔法は制御がままならず、炎はまっすぐ術者に跳ね返った。
「あっ!」
数倍に増強され、戻ってきた自らの魔法をまともに喰らい、モモの体は後ろへ仰け反る。集中が切れたからか、大祐の周囲を覆っていた結界は解除された。
「モモ! 大丈夫か!? すまん!」
「ぐ……!」
大祐は慌てて駆け寄る。なんとかその場で踏ん張っていたモモは、大祐の手が触れる寸前、後ろへ飛び退き、虫が草場に身を隠すかのように、ビルとビルの間へ消えた。
「あっ、待て!」
大祐も追いかけようと思ったが、ビル同士の隙間というモモの逃走経路はあまりに狭く、スーツ姿の大の男が進むには無理があった。
「せっかく会えたのに……。可哀想なことをしたな……」
大祐はまだ熱の籠る右手をじっと見詰めた。そんな彼を真昼の往来を行くビジネスマンたちが、不審げな目でちらちらと眺める。
時刻は午後三時になった。
そろそろこの作業にも一段落つけて、夕飯の支度に取り掛からなければ。
イズーは、ホーローの両手鍋の中見を小皿に取って、味を確かめた。彼の頭の上では、小人が寝そべっている。
「今日はなに作ってんだ?」
「野菜スープ、バージョンファイブだ」
「またスープかよー!」
「だから、バージョンファイブだ。飽きないように、味を変えている」
小人は唇を尖らせながら、自分の鼻を摘んだ。
「スープはスープだろーが。なんかくせえし」
「風吹の冷え性をなんとかしてやりたくて、色々入れてみたんだけどな」
「この匂いは、女ウケしねえんじゃねえの」
「やっぱりそうか」
イズーはガス台の横の作業台に置いた本を、パラパラとめくった。広げられた本には、「薬膳」がどうとかいうタイトルがついている。
「うーん」
イズーは鍋に薬味や調味料をあれこれ足したかと思うと、再び味見し、そしてカッと目を見開いた。
「こ、これは……!」
「な、なんだ!? どうした!」
尋常ならざる表情のイズーを心配して、頭の上に留まっていたのと、そしてもう一匹、新たな小人が近づいてくる。
頭の上でくつろいでいたのが、両手鍋の付喪神。そしてもう一匹は、オーブンレンジの付喪神だ。
「か、カレーになった……!」
「は?」
「全ての薬膳料理はカレーに通ず。そういうことか……!」
「ちげーだろ。おめーの作り方に癖があるだけだろ」
イズーの手から小皿を奪い、付喪神二匹は順番にスープを試食した。
少々苦いが、確かにカレーによく似た味だ。ご飯にかけて食べると、美味しいかもしれない。
「おめー、この世界の人間じゃねえんだろ。元の世界では、あれか? やっぱコックかなんかだったのか? それにしちゃ、初めは包丁の使い方からなにから、なってなかったけどな」
「故郷でも一応、小さい頃から厨房に出入りしてたんだが、包丁は持たせてもらえなかったんだ」
「そりゃ、ちびっこに刃物は危ねえもんな」
「いや、俺は奴隷だったからな。武器になるものを持たせて、暴動でも起こされたら困るからだろ」
「奴隷!?」
「ああ」
鍋の中身をおたまでぐるぐるかき混ぜながら、イズーは暇つぶしに自らの半生を語った。聞き終えた付喪神たちの目は、すっかり潤んでいる。
「お前……。波乱万丈っていうか、壮絶な人生を送ってるんだなあ」
「そうか? この程度の境遇の奴は、俺たちの世界にはごまんといるぞ」
どこまでも淡々としているイズーに、鍋の付喪神は瞼をこすりながら言った。
「だが、なるほどなあ。納得いったぜ。掃除やら料理やら家のことなんて退屈だろうに、お前みたいな育ちの奴なら、そういうことも新鮮に感じるんだろう」
仲間の意見に、オーブンレンジの付喪神も頷いている。
「まあそうなんだが、それだけじゃないな。――好きな女が、快適に毎日を過ごす。整理整頓された部屋でくつろぎ、美味い飯を食って、清潔な湯に浸かって。そういうのを見ていると、俺も幸せなんだ」
鍋の付喪神は宙を舞うと、小さな手でイズーの頬をぺしんと叩いた。
「尽くす幸せ、かあ。てめえ、俺の主に惚れてんな? どうしようもなく、惚れまくってやがるな?」
「当たり前のことを、いちいち言うな」
臆面もなく、イズーはニヤニヤと相好を崩した。
「奴隷が出世して、んで今は、魔法使い、と。なるほどねー。だから、八百万の神様を捕獲したりできたわけか」
付喪神が何気なく口にした事柄を聞いて、イズーは鍋をかき混ぜる手をぴたりと止めた。
「……ここに、神様をぶっ込むっていうのはどうだろう?」
「は!?」
「細かく刻むか、タレに漬け込むかして……」
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「俺たちの世界の水の精霊は、浄化の力を持っていた。こっちの世界の、八百万の水の神も恐らくは。つまり、デトックス効果があるんじゃないだろうか」
「お、おい! 待て! お前、また罰当たりなことを……!」
水の神様ならば、確かこのマンションから少し先を流れる、「多魔川」で採れる。イズーは前にも神様を捕まえに、土手へ出向いたことがあった。
思い立ったらすぐに実行するのが、イズーの良いところであり、それ以上に悪いところでもある。
「やめろやめろ! 神様を食うなんて、お前……!」
付喪神たちの制止の声など聞こえないらしく、イズーはエプロンを着けたまま、玄関から飛び出していった。
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表紙はPhoto AC様よりお借りしております。
聖女召喚されて『お前なんか聖女じゃない』って断罪されているけど、そんなことよりこの国が私を召喚したせいで滅びそうなのがこわい
金田のん
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