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6.燃えて、燃やして
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しおりを挟むパソコンで勤怠管理システムを確認すると、休暇の申請書が届いていた。
「うん、来てる来てる。すぐ処理するね」
風吹はモニタの横から顔を出し、斜め前に座っている部下のA子に声をかけた。
「ギリギリになってしまってすみません。お手数ですが、よろしくお願いします」
A子はぺこりと頭を下げた。
「有給と足して、十日かあ。せっかくだし、もっとドーンと休んでいいんだよ」
風吹に同調するように、近くの同僚たちも囃し立てる。
「そうだよ、そうだよ! たっぷり赤ちゃん仕込んできなよ~!」
「ちょっとお! しばらくは彼と二人で、新婚生活を楽しむの!」
臆面もなく言ってのけてから、A子は風吹のほうを向いた。
「十日で十分ですよ~。ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします。今、引き継ぎ用のメモをまとめてますので」
「全然迷惑じゃないよ。楽しんできてね!」
A子は顔を赤らめ、こっくりと頷いた。なんとも幸せそうだ。風吹も同僚たちも別に超能力者だとか霊能力者ではないが、A子の放つ幸せのオーラははっきりと感じることができる。
A子は交際中の彼と、来月籍を入れるのだ。式は親族だけで行い、新婚旅行先はイタリアとのことである。
「いいなー! ハネムーン、私もついて行きたい!」
「あはは、一緒に来る? あ、なにか欲しいものがあれば、買ってくるよ?」
「マジで! 私、メイデンアートのアクセが欲しいんだけど」
「私はグッチ! お小遣い全部渡すから、お願いします!」
仲の良いB子とC子が、A子の周りに集まってくる。
風吹のチームも、そしてフロア内のほかの部署も特に急ぎの業務を抱えておらず、のんびりまったりとデスクに向かう、夏の午後であった。
「あ、そうだ……」
まるで学生時代に戻ったかのようにはしゃいでいたA子は、ふらっと席を立つと、正面の席でパソコンとにらめっこしているD太に近づいた。
B子とC子は心配そうに二人の様子を見守っている。
オフィスの一角は、奇妙な緊張感に包まれた。
「あのさ……。あんたには言うのが遅くなったけど、私、来月結婚するんだ」
「あ、そう。それはおめでとう」
「ありがとう……」
D太は液晶モニタから目を離さず、いつもどおりぶっきらぼうにお祝いの言葉を述べた。そういう奴だとは分かっていたが、それにしても無礼なD太に、皆、心の中で毒づく。だが当のA子はにこやかなままだ。これで吹っ切れたのだろう。
A子は、そしてB子もC子も、D太に恋をしている。
冷たく愛想もないD太だが、建築に関する知識は広く深く、関連する資格もたくさん持っており、仕事の面では大変優秀な青年なのだ。頼りになるし、見た目だって悪くない。頑固な性格ゆえに、上下及び同じ立ち位置――つまり全方向の人々と衝突ばかりしているが、彼の妥協せず媚びない姿勢に、惹かれる女性も多いのだろう。
「あれ? 指輪のストラップやめたの? あのハンコみたいな、でっかいやつ」
A子はデスクに置かれたD太のスマートフォンに目を止め、尋ねた。
「あ? ああ、欲しいって人がいたから、譲ったんだ。てかお前、人のもん、よく見てるね」
皮肉を言う、こういうときだけ、D太は相手の顔を眺め回す。
「まあね……」
A子は曖昧に微笑む。そりゃあ女は、好きな男のことはよく見ているのだ。朴念仁のD太は、最後までそのことに気がついてくれなかったようだが。
二人を見詰める、B子、C子の瞳が潤む。風吹はA子たちからそっと視線を逸らした。いくら上司でも、部下の恋愛ごとに口は挟めない。
だがこれで良かったのではないだろうか。結婚し、幸福な私生活を得ることで、A子の心も落ち着くだろう。D太とも一緒に仕事をする仲間として、良い関係を築けるはずだ。
風吹はA子から送られてきた電子申請書を確認した。長期の休暇を承認するにあたり、念のため社内の決まりごとも見直す。
「んーと、『結婚休暇は原則一週間』……」
ボタンひとつクリックするだけで表示される規定を、風吹は読み進めていく。
育児休暇は……。休職中の保障は……。子供が生まれたときのお祝い金は……。
――うーん、やっぱり一馬力だと、ちょっと心配かなあ。
結婚や出産、育児中の生活について、気になってしまう。それは間違いなく、イズーのことが頭にあるからだ。
――なにやってんの、私。
気分転換に引き出しを開け、風吹はしまっておいたビスケットをつまんだ。香ばしくて、程よい甘さのそれは、数日前に同居人が作ってくれたものだ。すっかり気に入ってしまって、ちまちまと大切に食べていると伝えたら、「またいつでも作ってやるから、遠慮なくもりもり食え」と、イズーは笑っていた。
数週間前、風吹が歩道橋の上で途方に暮れていたイズーを拾ったのは、同情心からだった。倒れそうなくらい腹をすかせていた彼が、気の毒だったのだ。
――でも今は私のほうが、イズーのお世話になってるんじゃないかな。
例えば風吹は、最近自宅に帰るのが楽しい。部屋はチリひとつなく掃除されており、美味しくて栄養満点の食事が用意されているからだ。
そう、自分はただ仕事をするだけでいい。家のことは、イズーが全部やってくれる。こんなに楽なことはないではないか。
一日千円渡しているお小遣いだって、イズーはしきりと恐縮しているようだが、一ヶ月約三万円で家の状態を完璧に保ってもらえるのだ。家政婦を雇うよりずっと安い。
――できることなら、ずっとうちにいて欲しいな。
だが男と女が、これから先も関係を変化させず、一緒になんていられるものだろうか。
どこまで本気か分からないが、イズーは子供が欲しいらしいし、風吹だって産めるならば産みたい。
――でもなあ。イズーの正体が、よく分からないからなあ……。
この際、無職なのは目を瞑る。だからせめて、身元だけははっきりして欲しい。
風吹はビスケットの最後の一枚を齧りながら、デスクに頬杖をついた。
養い主の気持ちも知らず、イズーは呑気に外を闊歩している。カンカン照りの日差しをサンバイザーで避けて、それでも暑いだろうに、彼の足取りはなにが楽しいのか弾むようだった。そう、こと魔法が絡んだとき、イズーは尋常ならざる体力と気力を発揮するのだ。
『近所の川に、八百万の神がいる』
その川の名は「多魔川」という。両手鍋の付喪神に教えてもらい、イズーは数日前、くだんの川を見に行った。そのときは時間がなくて、交通量の多い橋の上からほんのわずかな間観察したに過ぎず、目的のものを見つけることはできなかった。
今日は橋の脇から土手に入ってみた。
川に沿って進み、イズーはもう三十分ほど歩き続けているだろうか。街の中心から離れて、人通りの少ないほうへ行けば行くほど土手は細くなり、整備された道の傷みも目立つようになっていく。しかし自然に宿る八百万の神は、その性質上、人の手があまり入っていないようなところにいるはずなのだ。
辺りに生い茂る草花の量が増えるにつれ、案の定、漂ってくる魔力も濃くなってきた。
――そういえば、この土手を逆に進めば、風吹の会社の近くに出るんだよな。
念のため調べた地図の上では、そのようになっていた。イズーは振り返り、土手の遥か先にうっすらと見える背の高いビル群に向かって、労いの言葉を掛けた。
「風吹、お仕事、頑張れよー」
さて、そろそろこの辺でいいだろう。イズーは多魔川に向かい、もうすっかり慣れた視覚のチャンネルを変える作業を行った。
周囲が緑色に染まり、目の端でなにかが跳ねる。
イズーは急いで土手を下ると、川べりに立った。
多魔川は連日の猛暑のせいで、だいぶ水嵩が減っていた。流れの緩やかな水面に集中していると、やがてすーっとなにかが浮き上がってきた。
薄い水色の、蒸気のようなもの。頼りない外見に反して、巨大な魔力を有する生き物。これが八百万の神だ。
イズーはあやふやな輪郭の八百万の神の端っこを掴むと、素早く呪文を唱えた。「従属」の魔法。精霊を従わせるための呪を試しに使ってみたが、異世界の魔法生物にもどうやら効いたようだ。魔法に縛られた八百万の、川に属する神は、イズーの近くで風船のようにふわふわと浮かび、留まっている。
「よしよし」
イズーはパンツのポケットから近所のスーパーのレジ袋を取り出すと、仮にも神と名のつくその生き物を、無造作に突っ込んだ。
猫耳少女の体調は思ったより悪く、快復にかなりの時間を要した。
連れ帰った直後に高熱を出して寝込んでしまい、少女がようやく起きられるようになった頃には、大祐の家に来てから五日も経過していた。
ここまで調子を悪くしてしまったのは、自分が変なものを食べさせたからだろうか。カップラーメンや、スナック菓子やら……。責任を感じて詫びる大祐に対し、猫耳少女は首を横に振った。
「お前は悪くない。副作用とか、反動みたいなもんじゃないかと思うんだ」
「副作用?」
布団の上に体を起こし、レトルトのお粥をゆっくり口に運びながら、少女はぽつりぽつりと語った。
「この世界に来る前、私の体はもっとボロボロだったんだ。でも『異界の扉』に入ったら、すっかり治って。多分『異界の扉』が強力な治癒魔法を使ってくれたんだろうけど、そういう魔法は負担が大きいって聞いたことがある。束の間生き返っても、結局体が耐え切れず、死んじゃうとか。私は助かったんだから、運が良かった……」
「ふーん?」
少女の言うことは、大祐にはさっぱり分からなかった。だいたい「扉」とはなんだ。
しかし大祐は、少女を問い質すことはしなかった。それどころではない。旅立ちのときが迫っているのに、しかし看病に明け暮れていたせいで、なにも準備ができていないのだ。
もう戻って来られないかもしれないから、この世界でやり残したこともやっておきたい。だがよくよく考えてみても、特になにも思いつかなかった。
別れを告げたい友人知人がいるわけでもなし、欲しいものは漫画やらゲームやらあるけれど、持っていけるわけでもなし……。
「お前、もう大丈夫だよな? 俺、ちょっと出掛けてきていいか?」
「……………………」
猫耳少女は縋りつくような目で、大祐を見上げた。一人になるのが不安なのだろう。
こんな風に誰かに頼りにされたのは初めてで、悪い気はしない。にやけてしまいそうになって、大祐は咳払いをして誤魔化した。
「ちょっと役所に行ってくるだけだ。すぐ帰ってくるから」
「うん……」
大祐は空になったお椀を受け取り、猫耳少女を寝かした。
少女はやつれているが、食事も取れるようになったし、顔色もだいぶいい。
今朝もなんとか彼女を風呂に入れ――とはいえ、体を洗うのは自分でやってもらったが、そのあとあの妙なファンタジー風な服から、大祐のシャツに着替えさせた。
猫耳少女は、身綺麗にしていれば、なかなか可愛らしい女の子である。しかし大祐は彼女に対し、邪な想いは一切抱かなかった。相手が病人なのもあるが、単純にその気にならないのだ。
――親戚のガキの面倒を、看てるようなもんだからな~。
もっと正直に言えば、少女はあまりに細く、胸も尻もぺったんこで、大祐の好みから大きく外れているのだ。
――俺はお姉さまキャラ萌えだし。
心底どうでもいい話だが、大祐は甘えられるより、甘えたいタイプなのである。
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