エンジョイ!さくりふぁいす

犬噛 クロ

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後編

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「さっきまで弟がいたんだけど。議会に顔を出して、またあとで報告に来ると言ってたわ」
「ああ、ちょっと……捕まってね。待たせて悪かった。それにしても、ジラントはよくやったね。まさか竜を倒すとは! カラツィフの英雄だ!」

 アレクセイ・ラプシンは笑顔で両手を広げ、絶賛している。
 ――ジラント? アレクセイ・ラプシンが口にした名は、キーラの幼馴染のそれだろうか?

「念のため兵士たちにオルガ川の上流付近を捜索させたが、竜の姿は見事消えていたそうだ」
「あの子のオタク趣味、どうかと思ってたけど……。役に立つものねえ。――娘さんのことは残念だったけど……」

 お腹の大きな女性は沈痛な面持ちで、お悔やみを言った。キーラの父は曖昧に応じ、話を変えた。

「ジラントは本当に優秀な子だ。それがもうじき私の義弟になるのか。気恥ずかしいね」
「かなり歳の離れた兄弟だわ」

 女性は丸いお腹を撫でながら、屈託なく微笑んでいる。
 二人の会話は続いているが、キーラの耳には入ってこない。見えない壁があって、父たちとキーラを隔てているかのようだった。
 もう用は済んだ。知るべきことは知った。だから、帰ろう。
 キーラは静かにその場を離れた。

 ――でも、どこへ行ったらいいの?

 父が新たに作った世界に、娘は――キーラは、いらなかったのだろう。
 だから捨てた。竜に食べてもらった。
 そうすれば、全て、丸く収まるのだから。
 不良の娘には集落の人間を救うという大義名分のもと消えてもらい、品行に問題のある妻とは別れる。
 そして新しい妻を娶り、子供を産み育てて、父は人生をやり直すのだ。
 キーラはふらふらと力なく彷徨った。
 頭の中が真っ白だ。
 とりあえず、森へ。自分が囚われているはずだった、あそこへ戻ろう。

「娘。どうした、腹でも痛いのか?」

 抱いたままのユランが、気づかわしげに尋ねてくる。

「ううん……。大丈夫」

 キーラだって、父の事情はなんとなく分かっていた。母や、娘である自分よりも、大事なものがあるのだろう、と。
 思ったよりも、ショックではなかったが――。

 ――ただ、惨めだ。

 父に捨てられた……。
 受け入れたはずの現実が、キーラの感情をすり潰していく。はずみで、涙が押し出された。目尻に浮かんだそれを、ユランがぺろっと舐め取ってくれた。

「先ほどの紳士は、お前の父親か?」

 幼そうに見えても、さすが妖怪。ユランはキーラの不穏な家庭環境を察しているようだ。

「うん、そう……。私、いらない子ってやつでさー。あんたたち動物はさ、我が身を犠牲にしてでも子育てするんでしょ? 人間はダメだよねー! 自分のことばっかで!」

 ユランを抱いているのとは逆の手で瞼を拭い、キーラは強がるように言った。しかしそれに答える仔ぎつねは、あどけない姿には不似合いな事情を語る。

「確かに我ら一族は、雄も雌も命を削って子を育てる。が、それも子が巣立つときまでよ。そのあとは冷たいどころか、お互いを覚えてもおらぬ。無遠慮に縄張りに入り込めば、親兄弟で殺し合うこともあるしの」
「そ、そうなんだ……」

 シビアな内容を平然と言ってのけてから、仔ぎつねはひょいとキーラを見上げた。

「つまりお前も巣立ちのとき、ということだ。親の縄張りを出て、好きなところへ行けば良かろう?」
「……!」

 ユランの一言で、キーラの心はふっと軽くなった。
 親への恨みや悲しみは、消えて無くなりはしない。が、キーラを支配していた彼らへの執着が、溶けていくようだった。
 捨てられたのではない。自らの足で旅立つのだ。

 ――ずっと、お父様とお母様に、愛されたいと思っていた。普通の親子のようになりたいって……。

「でも、もういいよね……」

 キーラはまっすぐ前を向いた。
 自分を囚えていた鎖を引き千切り、自由になって――どこへ行こう?










 都市部の学力試験に参加したら、なんのまぐれか上位に食い込んだ。そのおかげで僕は、集落の長であるアレクセイ・ラプシン様に、目をかけてもらうようになった。例えば、僕が将来は外国へ留学するつもりで、そのための資金を稼ぐ必要があると知ると、議会の雑用係に良い条件で雇ってくれたり。そのように彼は、僕を応援してくれていたのだ。
 なんて親切なんだろう。さすが長ともなれば、人間の出来が違うのだ、と。僕はあの人を心から尊敬していた。
 ――あの日までは。

 ラプシン様がなんの警戒心も持たず、親しいというほどでもない自分にあんなことを頼んできたのは、「みんな彼女を好ましく思っていない」という思い込みがあったのだろう。
 キーラは見た目が派手で、学校の成績もよろしくなく、集落内で遊び回っている問題児だったから。

「君はキーラの同級生だったそうだね」

 ラプシン様は、キーラと僕の仲が良いことを知らなかった。僕からも、そんなことを白状するつもりはなかったが。
 僕からすればラプシン様は、「自分が所属する集落の代表者」というよりも、「好きな女の子の父親」というイメージが強い。
 そんな人に自分たちのことを報告するのは、なんとも言えない後ろめたさがあった。――キーラと僕に男女の関係などこれっぽっちもなかったし、完全なる僕の片思いだったとしてもだ。

「あの子をどうにかしてくれないか」
「あの、どう……とは?」

 まるっきり意味が分からず、僕は聞き返した。

「だから……。キーラを、私の前から消して欲しいってことだよ」
「え? え? まさか、殺せとかってことじゃないですよね?」

 消せ。すなわち、殺せ。
 昔読んだ娯楽小説のあらすじを思い出し、でもそんなわけはないと思いながら、僕は冗談のつもりで聞き返した。
 だが、アレクセイ・ラプシンは、僕の馬鹿げた問いを否定しなかった。ただ彼は、昏い笑みを浮かべていたのだ。
 僕は、背筋がゾッと冷えた。
 だって、「親が子供を消し去りたい」なんて、あってはならないことじゃないか――。
 ラプシン様と、僕の姉の関係を知ったのは、このあとすぐのことである。
 姉のお腹には、ラプシン様との赤ん坊がいる。
 ラプシン様と姉のことを知ったあと、ラプシン様は再度、僕に接触してきた。
 あの人は悪びれずに言った。自分の姉を愛する紳士のことを、僕が好意的な目で見ていないとは、思ってもみなかったのだろう。自信家で傲慢で、だけどそういう人じゃなければ、政治家なんてやっていられないのかもしれない。

「私はこれまでカラツィフの人々のために、身を粉にして働いてきたんだ。心安らぐ家庭を持つ――。私のそんなささやかな夢に、ケチをつけるような輩はいないだろうさ。――私の妻と娘以外は」

 奥方の度重なる非常識な行動に、ラプシン様はいつも苦しめられてきた。愛していたからこそ結婚したのだろうに、裏切られた反動か、ラプシン様はいつからか奥方のことを、恨み憎むようになっていたようだ。
 その憎しみは、娘にも向いた。
 キーラはもちろんラプシン様の実の娘だが、半分は奥方の血を引いている。ラプシン様はそのことでキーラまで厭うようになった。「妻と同類だ」と。世の中にはこういう親もいるのだと、僕は衝撃を受けた。

「君のお姉さんが私の子を産んでくれれば、キーラなんていらない。はっきり言って邪魔だ。――だから、キーラのことをお願いできないだろうか、ジラント。悪いようにはしないよ。君の留学の費用だって、私が出そうじゃないか」

 とんでもないことを依頼されて、血の気が引いていく。
 ラプシン様はつまり、僕にキーラを殺せと言っているのだ。

「そ、そんな、あの、あんまり物騒なことをしなくても……! キーラがこれから先、ラプシン様にご迷惑をかけなければいいんでしょう……?」
「財産の問題がある。私が死んだあと、妻やキーラにそれが行くと思うと、腸が煮えくり返るんだ」

 そこまで、この人の憎悪は大きいのか。
 僕は怯えながら、それでもなんとか交渉を続けた。ラプシン様の考えを変えなければ、キーラの命はないのだから。

「じゃ、じゃあ、もう一切! キーラがラプシン様に、ちょっとでも関わらないようにすれば! いいですよね……?」
「まあ、そうだが……。だが、キーラはあの女の子供だぞ? 身の程をわきまえているとは思えない。これまでいくら、あいつに金をたかられたか! きっと妻と同じく骨の髄までしゃぶろうと、あいつは私に生涯つきまとうつもりなんだ!」

 ラプシン様のそれは、狂人の妄想のようだった。
 だが彼は、キーラのことを全く知らないのだ。実際、夫婦の仲がこじれたあと――それはキーラがまだ言葉も話せない頃だったというが、以降彼は妻子と、ほぼ別居状態だったのだから。
 キーラは確かにバカだし、褒められるようなことはしていないが、それでも明るくていい子だ。誰かの気を引くためにやんちゃはするが、いじめだとか盗みだとか、不純異性交遊だって変なクスリだって、人と、そして父の名誉を傷つけるようなことは絶対にしない。

「期待しているよ、ジラント。私たちはもう兄弟なのだから。でも、あまり時間はない。赤ん坊が生まれるまでに、万事片付けておきたいからね。――君ができないというなら、誰か別の者を探さないと」
「……!」

 僕がやってもやらなくても、キーラは排除される運命ということか。
 ――どうしたらいいのか。
「逃げろ」と忠告すればいいのか? でもあのキーラが、僕の言うことを聞くとは思えない。
 きっと怒って暴れて、事態を悪化させて――。

 ――そしてきっと、彼女が最も愛しているだろう父親に、殺されるのだ。


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