エンジョイ!さくりふぁいす

犬噛 クロ

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後編

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 竜の生贄にされるというから、往路は当然、嫌々渋々歩き、だからそれなりの時間がかかった。だが復路は可愛い仔ぎつねと競争したり、はしゃいで帰ってきたので、あっという間の道のりだった。
 こうしてキーラは、住まいのあるカラツィフに戻ってきた。
 さて、「竜を倒して帰還したぞ!」と、堂々と凱旋していいものか。倒したというか、竜の正体は愛くるしい仔ぎつねだったし、それを暴いたのはジラントだが。

 ――でもジラントは、私を帰そうとせず、監禁したんだよね……。

 あれは、ジラントの欲望がそうさせた行動だったのか?
 いや、違う。あの男はそこまで身勝手でバカではない。

「ということは、なにか理由があるわけじゃん、うん」

 キーラの独り言を、ユランは耳をそばだて、律儀に聞いている。

「とりあえず慎重にいこう、ユラン」
「うむ、よく分からんが、分かった」

 現在は平日の昼間だ。子供は学校だろうし、大人たちの多くも畑や畜産小屋など、それぞれの仕事場にいるだろう。
 そのうえで更に、人通りの少ない裏道を選ぶ。
 目論見どおり、道中、誰とも出会わず、キーラは生家へ戻ることができた。

「あ……」

 正門の前まで来ると、キーラは思わず声を漏らした。門に地面に届くほどの、黒い垂れ幕が掛かっていたのだ。これは弔事の印である。カラツィフでは家内の誰かが亡くなったとき、門にこのような黒い幕を垂らすのだ。
 つまりもうキーラはこの家で、亡き者として扱われているということか。

「お父――ジジイもババアも、私が無事だって知らないからだよね!」

 青ざめた顔に不似合いに明るく言って、しかしキーラは正門をくぐらなかった。裏庭に回り、壊れた柵の隙間を通る。そして換気のため開けられていた窓から、屋敷の中に忍び込んだ。
 仔ぎつねが率直なコメントを述べる。

「泥棒みたいじゃのー」

 キーラの暮らしていた邸宅は集落で一番なのはもちろんのこと、近隣都市の上流階級にも引けを取らない立派なものだった。
 隣国で商売をしていたキーラの曽祖父は、巨万の富を得たのち、カラツィフに移り住んだ。曽祖父は晩年、心の豊かさだとかなんとかそういったものを求めていたらしいから、素朴な田舎であるこの土地に惹かれたのだろう。
 曽祖父が築いた財はたいして目減りすることなく、祖父、そして父へと引き継がれた。
 キーラの家族は母と、そして滅多に帰って来ない父、この二人だけだ。それ以外に家には、使用人が数名、出入りしている。
 母は家事や、娘であるキーラの世話など、主婦の仕事とされることは一切やらない人だった。
 都会に遊びに出かけるか、あるいは誰かを家に招いて騒ぐか。享楽にのみ生きる女性だったのだ。

「さて、どうすっかにゃー……」

 侵入した応接間で、キーラは思案に暮れた。
 一番に会って話すべきは、今回の生贄大作戦の実行責任者である、集落の長だろう。
 ――父、アレクセイ・ラプシン。
 だが、彼になにを話して、どう聞こうか。
 なにより「無事で良かった」と、アレクセイ・ラプシンは、キーラに言ってくれるだろうか……?

 ――確かめるのが怖い。
 
 だから正面からおおっぴらには家に入らず、こんな風にコソコソ帰ってきたのだ。
 キーラは躊躇し、なかなか動こうとしない。そんな彼女の足元に座っていたユランが、耳をぴくぴく動かした。

「娘。誰か来るぞ」
「えっ!」

 そのとおり、話し声が近づいてくる。とっさにキーラはユランを抱きかかえ、中央の大きなテーブルの下へ潜り込んだ。

「静かにしててね……」

 キーラが自身の唇に指を立ててお願いすると、賢い仔ぎつねは頷いた。
 応接間に入ってきたのは二人。どちらもキーラがよく知る人物だった。

「血を分けた娘を竜に差し出すなんて、あなたはなんて無情な人なんですか!」
「お前に人道を説かれるとはな。気に食わない人間は、徹底的にいびり倒して――。お前のせいで、心を病んだ者も多いそうじゃないか」

 テーブルの下から覗き見える二人は、仕立ての良い服を着、高価な靴を履いている。恵まれた身分のはずのその男女は、しかし互いが互いを罵り、ひどく醜かった。
 地位の高い者が、必ずしも温厚篤実というわけではない。そのことを、キーラは幼い時分から、彼らを見て学んだ。
 一方は激高し、一方は冷然としている。彼らは、キーラの母と父である。

「話を逸らさないでください!」

 生まれてからずっと、このヒステリックな怒号の的にされ続けたキーラは、耳を塞ぎたくなった。
 が、確かめなければ。
 竜に食べられた自分は、「生き返らない」。

「ねえ、あなた……。まさか娘を失ったばかりの哀れな女を、追い出したりしないでしょう? そんな薄情なことをすれば、支持者たちのあなたを見る目は変わるわ。評判はガタ落ち! あなたの政治家生命は終わりよ?」

 様子を一変させて、キーラの母は気色の悪い、媚びた声を出した。
 キーラのいる位置から、母の顔は見えない。が、母のその笑みが目に浮かぶようだった。
 高慢な彼女が、自分の望みを強引に叶えようとするときの常套手段。「相手のためを思っている」という体で、恩着せがましく脅す。そのときの、歪んだ笑い――。
 つい最近知ったことだが、母は「キーラの教育のために」「キーラが欲しがるものを買うから」と自分が遊ぶための大金を、父から頻繁に引き出していたという。
 当のキーラは、わがままなど何一つ言った覚えはない。庶民の子供よりも少ない小遣いにだって不満を漏らさず、やりくりしていたのだから。
 キーラがただ願っていたのは、両親が仲良くしてくれることだけだったのに――。

「ご心配ありがとう。だが不出来な娘亡きあと、私の足を引っ張るのは、伴侶だけとなった。私の妻がお前では、良く思わない住民も多い。私のために、黙って身を引いてくれないか」
「あっ、あ、あなたは……!」

 父の宣告に、貴婦人ヅラはどこへやら、母は大いに狼狽しているようだ。
 ようやく自分が置かれている立場を理解したのだろう。――なにも持たざる者が、唯一の後ろ盾すら失うという、この状況を。

「わたくしが、なにも知らないとでも思っているの!?」
「まあ、君がこれから先、困らないようには、取り計らってあげよう。あまりゴネると、どうなるかは分からないがね。――君こそ、私がなにも知らないとでも思っているのかね? あの小汚い間男のことや……」
「……!」

 アレクセイ・ラプシンは汚いものでも見るような目で母を一瞥すると、話は終わりだとばかりに応接室を出ていった。母は父のあとを追い、金切り声で罵っている。

「……………」

 応接間に誰もいなくなってからしばらくして、キーラはテーブルの下からのろのろと這い出た。
 ユランは空気を読んでか、口を噤んでいる。
 窓を見れば、父が門をくぐり、往来へ出るところだった。母は諦めたのか、ついて行かないようだ。――もう彼女は、夫を止められないだろう。
 元々卑しい身分の出だった母は、長として周りから認められ始めていた父に見初められ、玉の輿に乗った。そこから勘違いが始まり――要は、羽目を外し過ぎたのだ。
 気に食わない住民をいじめ抜いたり、逆に好みの男がいれば遊蕩に耽ったり、やりたい放題だった。
 父はとっくに、我慢の限界を越えていたのだろう。
 キーラは窓の枠を乗り越え、アレクセイ・ラプシンのあとをつけた。ユランも彼女に従う。
 もうひとつ、確かめたいことがあった。

 ――ずっと知らないフリをしてきたけど、このままじゃダメだよね。

 父が向かったのは、町外れの一軒家だった。
 勝手知ったるように気安く入っていく父を、門の影に隠れて、キーラは見守った。
 ――体が震えている。心配したのか、ユランが胸元に飛びついてきた。

「どうした? 寒いのか?」
「ユラン……」

 小さなきつねを抱き、その温かさに、キーラはほっと息をついた。
 アレクセイ・ラプシンは、その家の庭に顔を出した。花壇の手入れをしていた女性が彼に気づき、「よっこいしょ」と立ち上がる。女性は妊娠しているらしく、お腹が大きかった。
 女性はアレクセイ・ラプシンに「おかえりなさい」と言った。父はキーラが見たことのないような、寛いだ笑顔を浮かべている。そして父も、「ただいま」と答えた――。

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