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6.金のウサギと銀のメガネ(完)

3.(完)

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「で、話を戻すと……。『黄金ウサギのフロレンツィア』というネームバリューは、恐らくそんなにもたないでしょう。サクサクと店の評判を引き上げなければならないわ。でも、経営をおろそかにするわけにはいかない。やることがたくさんで、一人では無理なのよ。ヘクター、あんたが必要なの」
「……娼館の支配人が、服屋で何ができる?」
「あんたは数字に強いわ。人を使うことにも慣れてる。一緒にやろうって、言ってるのよ」

 ヘクターはふんと鼻で笑った。

「相変わらず傲慢だな。おまえのは、お願いしている態度ではないぞ」
「お願い? 違うわ、もう決まったことよ」
「ハァ!?」

 たまにはやり込めてやりたくて、ヘクターが精一杯向けた刃を、フロレンツィアはあっさり返した。

「だってあんた、言ったでしょ? あの濃密な夜に、『俺の持っているもの、なんでもやる。それが足りないなら、一生かけてでも、おまえになんだってやる!』って。約束は果たしてちょうだい」

 ご丁寧に裏声で、あの恥ずかしいセリフを再現されて、ヘクターの顔は真っ赤になった。

「やめろやめろ!」

 まあ確かに――。
 ヘクターは、近日中に「黄金ウサギ」を辞めるつもりだった。そこにきて、このオファーだ。
 正直に言えば、自分の能力を高く買ってもらって、誇らしい気持ちもある。好きな女に頼られるのも嬉しい。
 ――だが、あっさり承諾するのは悔しい。
 なにしろフロレンツィアがいなくなってから、ヘクターは地獄の日々を送ったのだ。
 不眠に食欲不振。未練たらしく、ひとりでメソメソ泣いてしまったこともある……。恥ずかしいから内緒であるが。

「……でも、元気でやっているかくらい、連絡を寄越せただろう? 俺がどれだけ心配したか、分かっているのか?」

 どうしても引っかかるところを――恨みつらみを、ヘクターは口にする。

「ああ、ごめんね。本当は『黄金ウサギ』を出てから、一、ニ週間くらいで、あんたを迎えに行こうって思ってたのよ。でも、予定が延びてね。ようやく話がまとまったと思ったら、今度は具合が悪くなっちゃったの。しばらくは点滴がご飯代わりだったわ」
「点滴……?」

 ヘクターはまじまじと、フロレンツィアの頭のてっぺんからつま先までを眺めた。
 あまりのイメージチェンジっぷりに、そちらにばかり注意がいっていたが、よく見れば確かに頬の肉が落ち、げっそりとやつれている。だいぶ痩せたのだろう、元々細かった手足は、簡単にポキリと折れそうなほどまでになっていた。

「おい……。どこか悪いのか?」
「今は平気。いや、ナメてたわー。噂には聞いてたけど、本当につらいのね。悪阻って」
「つわり」

 重篤な病だろうか。ヘクターはオウム返しに繰り返した。

「つわり。つわり。……つわり?」

 ようやくその言葉と、それが意味するところが脳に到達し、切れ長の目がきょとんと丸くなる。咄嗟に声が出なくて、ただ呆然と見詰めると、フロレンツィアはニッと唇の端を上げた。

「言っちゃう? あれ。『俺の子じゃない!』ってやつ」
「お、俺との子……なのか?」
「ほかにいないわねえ。前にも言ったけど、あんたとあの日寝るまで、私は男日照りだったし。それからは、操を守ったし」

 噛んで含めるような言い方をしながら、フロレンツィアは、そういえば少し膨らんでいる腹を擦った。
 たった一度の――だが、ありえない話ではない。
 子作りはタイミングが大事だというし、そもそも一度きりでも「回数」はそれなりだ。ドロドロに濃く深く何度も交わり、思いを遂げた。
 思い出してみれば、なるほど、子供ができていないわけがないとすら思えてくる。

「『孕め! 孕んでくれ! 俺の子ををををを……!』って必死に念じてたしねえ、あんた」
「もうそれやめろ!」

 またもや奇声で攻撃されて、ヘクターはいたたまれなくなる。
 確かに言ったし、やったし。でも、だけど。

 ――こんなに急に、幸福ってやってくるのか!?

 まさに怒涛のごとく。
 驚きのあまり、なかなか実感が湧いてこない。

「産むわよ、私。新しい仕事を始めることより、赤ちゃんのほうがずっと楽しみなんだからね」
「ま、待て! 俺の子でもあるんだぞ!」
「種だけ出しといてエラソーに。重たいお腹を引きずって、しかも痛い思いをして、産むのは私なんだからね」
「う……」

 そのとおり、フロレンツィアは産む。そして、子供を立派に育て上げるだろう。たとえ、一人でも。

 ――このままだと、俺はまた捨てられるのか。

 揺らいだ目を、フロレンツィアに向ける。
 フロレンツィアはヘクターの視線をまっすぐ受け止め、そして引導を渡した。

「私と子供が欲しければ、この店に来るのよ、ヘクター・オースティン!」

 ――逆らうことなど、できはしない。
 意地もプライドも粉々に砕け散った。

「脅すな! ――分かったよ!」

 ヘクターは投げやりに了承した。だが散々「陰険そう」と謗られたその顔に、ゆっくりと笑みが広がっていく――。




「黄金ウサギ」のレジェンド娼婦だったフロレンツィアが、「女性のための、真のリアルクローズを追求する」とか何とか、もっともらしいコンセプトを元に立ち上げたブランドショップ、「ゴールド&シルバー」が開店したのは、これより数週間後のことである。
 そして彼女は大成功を収め、「ゴールド&シルバー」は起業より十年足らずで、国内のみならず、世界の主要都市に店舗を構えるまでとなった。




 フロレンツィアに関わった人々の話を、少ししよう。

 ギュンター・デマンティウスは娼館通いこそ謹んだものの、性への飽くなき追求を続けた。――つまりは、女性問題を数多く引き起こしたのである。
 しかし彼は正妻との間にしか子供を作らず、いらぬお家騒動を招くことはなかった。
「賢い遊び人」と評されたギュンター曰く、「初めての女(ひと)に優しく躾けられたのだよ」とのことである。

 ウルスラは大人しい夫との間に、五人の子をもうけた。夫が経営している工場はごく小さなものだったので、彼女は社長夫人とは名ばかりの、質素で慎ましい生活を生涯送った。
 それでも夫――というより、夫の「奪ってやった男」という価値を愛していたウルスラに、文句はなかったようだ。
「私はあのフロレンツィアに勝った女」という自負に支えられ、彼女はどんな困難にも膝をつくことはなかったという。

 エンデル・ベッケラートは、「ゴールド&シルバー」が開店した二年後、心疾患によりこの世を去った。
 ベッケラートは生前、財産を整理し、息子たちに平等に譲り渡した。そのこともあって、冷えきっていた親子関係も修復され、彼は最期、息子たちとその家族に看取られ、静かに旅立っていった。
 またその見送りの場には、晩年にできた女友達、ユリア・アウフシュタイナーの姿もあったという。

 そのユリア・アウフシュタイナー夫人だが、フロレンツィアとの親交は、途絶えることなく続いた。
 その縁もあって、「ゴールド&シルバー」がシニア向けのブランドを立ち上げた際は、モデルを勤めたこともある。
 そのせいか若返ったと評判だったユリアは、元気に九十六歳まで生き抜き、最期は夫と同じ墓へ入った。

「ゴールド&シルバー」が世界進出を始めた頃、雑誌記者アルマンは、フロレンツィアの伝記を執筆。確かな筆致で情緒豊かに綴られたその本は、爆発的に売れただけではなく、高名な文学賞を多数受賞した。
 それを機に彼は独立し、フリーライターとなった。
 売れっ子作家となったアルマンは、業界では屈指の女好きとして知れ渡っていたが、結局は生涯独身であった。




 フロレンツィアの快進撃は続き、彼女はファッション界、美容界の牽引役を長きに渡り、勤めた。
 私生活ではニ人の息子の母親となった。
 ヘクターは公私共に妻を支える、良き相棒であり、良き夫であった。
 そんな彼は、変わったことに、壊れたメガネを一生のお守りとして大事にしていたという。




 時代の移り変わりと共に、人々の倫理観、人権意識も変化していく。結果、数多の娼館は閉鎖に追い込まれた。
 しかし「黄金ウサギ」は健全な高級接待場として生まれ変わり、現在も営業を続けている。
 郊外に建つ、一見王侯貴族の隠れ家のような佇まいの、その扉の向こうでは、今夜も美しい女たち、そして男たちが、疲れた紳士淑女を癒しているはずだ。




~ 終 ~
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