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5.彼女の引き際
3.
しおりを挟む賢女の語ったとおり、人生には頂点があり、そこに上り詰めたあとは、必ず下るべきときがやってくる。
引き際。自身の能力が翳ったそのときを、敏い人間ならば決して見逃さない。
その日、高級娼館「黄金ウサギ」で一番の人気を誇る娼婦は、全身を映して尚余りある巨大な鏡の前に立っていた。
寮の自室、ひとりきりで一糸纏わぬ姿となり、ピカピカに磨かれた鏡に体の隅々までを映す――。そんなフロレンツィアに、しかし己の美貌に酔っている様子はなかった。むしろ冷たく静かに光るその目には、職人が仕事に使う道具を確かめているような、厳しさがあった。
艶やかで量の豊かな金色の髪。シミひとつない、真っ白な肌。やや瘦せ型の体は、高名な芸術家が手がけた彫像のように、完璧なバランスを保っている。
当代きっての娼婦、フロレンツィア。
しかしその薔薇色の唇から零れたため息は、目の前の鏡面を曇らすのだった。
時同じくして、浮かない顔をしている人間がもう一人。
ほかならぬ「黄金ウサギ」の支配人、ヘクター・オースティンである。
――お得意様に殴りかかるとか……ありえないだろ。
すんでのところで止められ、なんとか未遂に済んだが、しかし「黄金ウサギ」に長年通ってくれた大事な客に、暴力を振るおうとしたことは事実である。
そして――その件について、反省する気にはならない。こちらのほうが大問題だと、ヘクターは思う。
従業員として常識を疑われる行為であり、大いに責められるべき事案であったというのは重々承知している。
だが――何よりも誰よりも大事なフロレンツィア。彼女が傷つけられるような事態が再び生じた場合、自分はきっと同じ暴挙を繰り返すだろうと、ヘクターには確信があった。
――こんな粗暴な輩が支配人を続けていることは、「黄金ウサギ」のためにならないのではないか……。
「辞職」。その二文字を頭の中でぐるぐる回しながら、とりあえずヘクターは支配人室の、いつものオフィスチェアに腰を下ろした。
毎日飲んでいるお気に入りのコーヒーで喉を潤しながら、郵便物のチェックを始める。
「ん?」
分厚い上質な紙を使った、いかにも高そうな封筒が一通届いていた。
宛先は、フロレンツィア。差出人は――エンデル・ベッケラートとある。
それを手に取ったヘクターは、ぐうっと胃が重くなるのを感じた。
娼婦宛の封書は支配人権限で開封しても良いことになっているが、ベッケラートから送られたそれを、勝手に開ける気にはならなかった。
開店準備中の慌ただしい時間帯、出勤したばかりのフロレンツィアの部屋へ、ヘクターは自らあの老害紳士からの手紙を届けた。
「じゃあな。確かに渡したぞ」
さっさと出ていこうとするヘクターを、フロレンツィアは鷹揚に呼び止めた。
「そんなに急いでいなくならなくてもいいじゃない。これに興味がないわけじゃないんでしょ?」
フロレンツィアはたおやかな手で、ひらひらと封筒を振っている。
「……………」
そのとおり、とてもとても気になる……。
ヘクターは結局、娼婦の部屋に残った。
「さて……。あの人、どんなことを書いてきたのかしらね?」
椅子に座り、丁寧に封を切って、中に入っていた便箋を目で追うフロレンツィアの横顔は、いつもと変わりない。
この女を泣かせたあの男が、一体何を書いて寄越したのか。
更なる罵倒か。店への文句か。礼儀のなっていない支配人に対する非難か。
やきもきしながら佇んでいるヘクターの前で、フロレンツィアの口元が綻む。
「エンデル・ベッケラート様は、もうここにはいらっしゃらないそうよ。『お世話になりました。店の発展と、従業員の皆様のご多幸をお祈り致します』って。嫌味かしらね?」
ふふっと片眉を上げて笑い、フロレンツィアはヘクターに手紙を渡した。ヘクターもざっと目を通すが、確かに聞いたとおり、この店にはもう来ないと書かれている。そのうえで、先日の件についても詫び言が添えてあった。
『フロレンツィア殿及び、従業員の方々にご迷惑をおかけ致しました』
形式どおりの謝罪文……。感情がこもっていないこれだけの一通で、長年密に親交のあった女と別れてしまって、ベッケラートは本当に良いのだろうか。
その一方で、このうえなく正しい対応だとも思える。
大貴族の当主と娼婦。元々住む世界が違う二人だ。彼らの間に結ばれた縁は、これくらい冷たく断ち切ったほうが、お互いのためなのかもしれない。
中途半端に繋がり続けたせいで、未練や禍根を残してしまい、のちに不幸になった男女を、ヘクターは嫌というほど見てきている。
ちらりと様子を伺えば、フロレンツィアはせいせいした顔をしていた。ベッケラートからの手紙に満足したようだ。
「あら……」
封筒を改めるフロレンツィアの指が、中に残っていた紙片を取り出した。
「それは?」
「小切手。額面は未記入だわ。慰謝料だそうよ」
「それは豪気なことだ……」
「良かったわね、支配人。店の入り口のドアを、もっと渋いのに変えたいって、言ってたじゃない」
「――それはおまえに贈られたものだろう。店には関係ない」
「いいの?」
無愛想にヘクターが頷くと、フロレンツィアはいたずらっ子のように微笑んだ。
「じゃあ、これはこう」
なんの躊躇もなく、フロレンツィアは小切手をビリビリと二つに裂いてしまった。
さほど驚いた様子もなく、ヘクターは尋ねる。
「良かったのか? ベッケラートには、ひどいことをされたのに」
「だって、たいしたケガじゃなかったし」
フロレンツィアはベッケラートに殴られ、頬を腫らしたりもしたが、相手が非力な老人だったこともあって、二日もすればすっかり治ってしまった。
「……それにベッケラート様には、また別のところでお世話になるかもしれないから」
「別のところ?」
質問には答えず、手紙を綺麗に畳むと、家紋入りの封蝋が施されている大仰な封筒に入れ直す。ほっとため息をつくと、フロレンツィアは心のつかえが下りたのかリラックスした表情で、立ちっぱなしのヘクターを見上げた。
「支配人には話したこと、なかったわね。ベッケラート様は、私の初めてのお客さんだったの。この『黄金ウサギ』に移ってくる前、また別の娼館で、あの人は私を買ってくださったのよ。それからご贔屓にしてくださって……。この店に入れたのも、あの方の口添えがあってのことなの。オーナーを、紹介してくださってね」
「……!」
二人のつき合いが、フロレンツィアが「黄金ウサギ」へ入店する前からのものだというなら、軽く見積もっても二十年以上は続いていることになるだろう。
そんなに長いものだったとは……。ヘクターは驚いた。
そして、初めての客。――初めての男。
それが娼婦にとって、いや女にとって、どれだけの意味を持つのか。男であるヘクターには分からなかったが、だが特別であるのは想像できる。
だから……。
フロレンツィアは他者に対し冷淡だ。それは実の両親やウルスラの件を顧みれば明らかである。
自分に害なす人間を断固拒絶し、あっさり遠ざける。
しかし毅然とした、ある意味無情な彼女をもってしても、エンデル・ベッケラートを切れなかったのだ。
多大な恩があるから。そして、もしかしたら――。
「愛していたのか……?」
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