上 下
21 / 27
5.彼女の引き際

3.

しおりを挟む

 賢女の語ったとおり、人生には頂点があり、そこに上り詰めたあとは、必ず下るべきときがやってくる。
 引き際。自身の能力が翳ったそのときを、敏い人間ならば決して見逃さない。




 その日、高級娼館「黄金ウサギ」で一番の人気を誇る娼婦は、全身を映して尚余りある巨大な鏡の前に立っていた。
 寮の自室、ひとりきりで一糸纏わぬ姿となり、ピカピカに磨かれた鏡に体の隅々までを映す――。そんなフロレンツィアに、しかし己の美貌に酔っている様子はなかった。むしろ冷たく静かに光るその目には、職人が仕事に使う道具を確かめているような、厳しさがあった。
 艶やかで量の豊かな金色の髪。シミひとつない、真っ白な肌。やや瘦せ型の体は、高名な芸術家が手がけた彫像のように、完璧なバランスを保っている。
 当代きっての娼婦、フロレンツィア。
 しかしその薔薇色の唇から零れたため息は、目の前の鏡面を曇らすのだった。

 時同じくして、浮かない顔をしている人間がもう一人。
 ほかならぬ「黄金ウサギ」の支配人、ヘクター・オースティンである。

 ――お得意様に殴りかかるとか……ありえないだろ。

 すんでのところで止められ、なんとか未遂に済んだが、しかし「黄金ウサギ」に長年通ってくれた大事な客に、暴力を振るおうとしたことは事実である。
 そして――その件について、反省する気にはならない。こちらのほうが大問題だと、ヘクターは思う。
 従業員として常識を疑われる行為であり、大いに責められるべき事案であったというのは重々承知している。
 だが――何よりも誰よりも大事なフロレンツィア。彼女が傷つけられるような事態が再び生じた場合、自分はきっと同じ暴挙を繰り返すだろうと、ヘクターには確信があった。

 ――こんな粗暴な輩が支配人を続けていることは、「黄金ウサギ」のためにならないのではないか……。

「辞職」。その二文字を頭の中でぐるぐる回しながら、とりあえずヘクターは支配人室の、いつものオフィスチェアに腰を下ろした。
 毎日飲んでいるお気に入りのコーヒーで喉を潤しながら、郵便物のチェックを始める。

「ん?」

 分厚い上質な紙を使った、いかにも高そうな封筒が一通届いていた。
 宛先は、フロレンツィア。差出人は――エンデル・ベッケラートとある。
 それを手に取ったヘクターは、ぐうっと胃が重くなるのを感じた。




 娼婦宛の封書は支配人権限で開封しても良いことになっているが、ベッケラートから送られたそれを、勝手に開ける気にはならなかった。
 開店準備中の慌ただしい時間帯、出勤したばかりのフロレンツィアの部屋へ、ヘクターは自らあの老害紳士からの手紙を届けた。

「じゃあな。確かに渡したぞ」

 さっさと出ていこうとするヘクターを、フロレンツィアは鷹揚に呼び止めた。

「そんなに急いでいなくならなくてもいいじゃない。これに興味がないわけじゃないんでしょ?」

 フロレンツィアはたおやかな手で、ひらひらと封筒を振っている。

「……………」

 そのとおり、とてもとても気になる……。
 ヘクターは結局、娼婦の部屋に残った。

「さて……。あの人、どんなことを書いてきたのかしらね?」

 椅子に座り、丁寧に封を切って、中に入っていた便箋を目で追うフロレンツィアの横顔は、いつもと変わりない。
 この女を泣かせたあの男が、一体何を書いて寄越したのか。
 更なる罵倒か。店への文句か。礼儀のなっていない支配人に対する非難か。
 やきもきしながら佇んでいるヘクターの前で、フロレンツィアの口元が綻む。

「エンデル・ベッケラート様は、もうここにはいらっしゃらないそうよ。『お世話になりました。店の発展と、従業員の皆様のご多幸をお祈り致します』って。嫌味かしらね?」

 ふふっと片眉を上げて笑い、フロレンツィアはヘクターに手紙を渡した。ヘクターもざっと目を通すが、確かに聞いたとおり、この店にはもう来ないと書かれている。そのうえで、先日の件についても詫び言が添えてあった。

『フロレンツィア殿及び、従業員の方々にご迷惑をおかけ致しました』

 形式どおりの謝罪文……。感情がこもっていないこれだけの一通で、長年密に親交のあった女と別れてしまって、ベッケラートは本当に良いのだろうか。
 その一方で、このうえなく正しい対応だとも思える。
 大貴族の当主と娼婦。元々住む世界が違う二人だ。彼らの間に結ばれた縁は、これくらい冷たく断ち切ったほうが、お互いのためなのかもしれない。
 中途半端に繋がり続けたせいで、未練や禍根を残してしまい、のちに不幸になった男女を、ヘクターは嫌というほど見てきている。
 ちらりと様子を伺えば、フロレンツィアはせいせいした顔をしていた。ベッケラートからの手紙に満足したようだ。

「あら……」

 封筒を改めるフロレンツィアの指が、中に残っていた紙片を取り出した。

「それは?」
「小切手。額面は未記入だわ。慰謝料だそうよ」
「それは豪気なことだ……」
「良かったわね、支配人。店の入り口のドアを、もっと渋いのに変えたいって、言ってたじゃない」
「――それはおまえに贈られたものだろう。店には関係ない」
「いいの?」

 無愛想にヘクターが頷くと、フロレンツィアはいたずらっ子のように微笑んだ。

「じゃあ、これはこう」

 なんの躊躇もなく、フロレンツィアは小切手をビリビリと二つに裂いてしまった。
 さほど驚いた様子もなく、ヘクターは尋ねる。

「良かったのか? ベッケラートには、ひどいことをされたのに」
「だって、たいしたケガじゃなかったし」

 フロレンツィアはベッケラートに殴られ、頬を腫らしたりもしたが、相手が非力な老人だったこともあって、二日もすればすっかり治ってしまった。

「……それにベッケラート様には、また別のところでお世話になるかもしれないから」
「別のところ?」

 質問には答えず、手紙を綺麗に畳むと、家紋入りの封蝋が施されている大仰な封筒に入れ直す。ほっとため息をつくと、フロレンツィアは心のつかえが下りたのかリラックスした表情で、立ちっぱなしのヘクターを見上げた。

「支配人には話したこと、なかったわね。ベッケラート様は、私の初めてのお客さんだったの。この『黄金ウサギ』に移ってくる前、また別の娼館で、あの人は私を買ってくださったのよ。それからご贔屓にしてくださって……。この店に入れたのも、あの方の口添えがあってのことなの。オーナーを、紹介してくださってね」
「……!」

 二人のつき合いが、フロレンツィアが「黄金ウサギ」へ入店する前からのものだというなら、軽く見積もっても二十年以上は続いていることになるだろう。
 そんなに長いものだったとは……。ヘクターは驚いた。
 そして、初めての客。――初めての男。
 それが娼婦にとって、いや女にとって、どれだけの意味を持つのか。男であるヘクターには分からなかったが、だが特別であるのは想像できる。
 だから……。
 フロレンツィアは他者に対し冷淡だ。それは実の両親やウルスラの件を顧みれば明らかである。
 自分に害なす人間を断固拒絶し、あっさり遠ざける。
 しかし毅然とした、ある意味無情な彼女をもってしても、エンデル・ベッケラートを切れなかったのだ。
 多大な恩があるから。そして、もしかしたら――。

「愛していたのか……?」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

地味女で喪女でもよく濡れる。~俺様海運王に開発されました~

あこや(亜胡夜カイ)
恋愛
新米学芸員の工藤貴奈(くどうあてな)は、自他ともに認める地味女で喪女だが、素敵な思い出がある。卒業旅行で訪れたギリシャで出会った美麗な男とのワンナイトラブだ。文字通り「ワンナイト」のつもりだったのに、なぜか貴奈に執着した男は日本へやってきた。貴奈が所属する博物館を含むグループ企業を丸ごと買収、CEOとして乗り込んできたのだ。「お前は俺が開発する」と宣言して、貴奈を学芸員兼秘書として側に置くという。彼氏いない歴=年齢、好きな相手は壁画の住人、「だったはず」の貴奈は、昼も夜も彼の執着に翻弄され、やがて体が応えるように……

大神官様に溺愛されて、幸せいっぱいです!~××がきっかけですが~

如月あこ
恋愛
アリアドネが朝起きると、床に男性のアレが落ちていた。 しかしすぐに、アレではなく、アレによく似た魔獣が部屋に迷い込んだのだろうと結論づける。 瀕死の魔獣を救おうとするが、それは魔獣ではく妖精のいたずらで分離された男性のアレだった。 「これほどまでに、純粋に私の局部を愛してくださる女性が現れるとは。……私の地位や見目ではなく、純粋に局部を……」 「あの、言葉だけ聞くと私とんでもない変態みたいなんですが……」 ちょっと癖のある大神官(28)×平民女(20)の、溺愛物語

洞窟ダンジョン体験ツアー案内人役のイケメン冒険者に、ラッキースケベを連発してしまった私が患う恋の病。

待鳥園子
恋愛
人気のダンジョン冒険ツアーに参加してきたけど、案内人のイケメン冒険者にラッキースケベを連発してしまった。けど、もう一度彼に会いたいと冒険者ギルド前で待ち伏せしたら、思いもよらぬことになった話。

お知らせ有り※※束縛上司!~溺愛体質の上司の深すぎる愛情~

ひなの琴莉
恋愛
イケメンで完璧な上司は自分にだけなぜかとても過保護でしつこい。そんな店長に秘密を握られた。秘密をすることに交換条件として色々求められてしまう。 溺愛体質のヒーロー☓地味子。ドタバタラブコメディ。 2021/3/10 しおりを挟んでくださっている皆様へ。 こちらの作品はすごく昔に書いたのをリメイクして連載していたものです。 しかし、古い作品なので……時代背景と言うか……いろいろ突っ込みどころ満載で、修正しながら書いていたのですが、やはり難しかったです(汗) 楽しい作品に仕上げるのが厳しいと判断し、連載を中止させていただくことにしました。 申しわけありません。 新作を書いて更新していきたいと思っていますので、よろしくお願いします。 お詫びに過去に書いた原文のママ載せておきます。 修正していないのと、若かりし頃の作品のため、 甘めに見てくださいm(__)m

転生したら、6人の最強旦那様に溺愛されてます!?~6人の愛が重すぎて困ってます!~

恋愛
ある日、女子高生だった白川凛(しらかわりん) は学校の帰り道、バイトに遅刻しそうになったのでスピードを上げすぎ、そのまま階段から落ちて死亡した。 しかし、目が覚めるとそこは異世界だった!? (もしかして、私、転生してる!!?) そして、なんと凛が転生した世界は女性が少なく、一妻多夫制だった!!! そんな世界に転生した凛と、将来の旦那様は一体誰!?

明智さんちの旦那さんたちR

明智 颯茄
恋愛
 あの小高い丘の上に建つ大きなお屋敷には、一風変わった夫婦が住んでいる。それは、妻一人に夫十人のいわゆる逆ハーレム婚だ。  奥さんは何かと大変かと思いきやそうではないらしい。旦那さんたちは全員神がかりな美しさを持つイケメンで、奥さんはニヤケ放題らしい。  ほのぼのとしながらも、複数婚が巻き起こすおかしな日常が満載。  *BL描写あり  毎週月曜日と隔週の日曜日お休みします。

【R18】愛され総受け女王は、20歳の誕生日に夫である美麗な年下国王に甘く淫らにお祝いされる

奏音 美都
恋愛
シャルール公国のプリンセス、アンジェリーナの公務の際に出会い、恋に落ちたソノワール公爵であったルノー。 両親を船の沈没事故で失い、突如女王として戴冠することになった間も、彼女を支え続けた。 それから幾つもの困難を乗り越え、ルノーはアンジェリーナと婚姻を結び、単なる女王の夫、王配ではなく、自らも執政に取り組む国王として戴冠した。 夫婦となって初めて迎えるアンジェリーナの誕生日。ルノーは彼女を喜ばせようと、画策する。

女性執事は公爵に一夜の思い出を希う

石里 唯
恋愛
ある日の深夜、フォンド公爵家で女性でありながら執事を務めるアマリーは、涙を堪えながら10年以上暮らした屋敷から出ていこうとしていた。 けれども、たどり着いた出口には立ち塞がるように佇む人影があった。 それは、アマリーが逃げ出したかった相手、フォンド公爵リチャードその人だった。 本編4話、結婚式編10話です。

処理中です...