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4.お茶を、あなたと

4.

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「これ以上聞き分けのないこと言うなら、これ、踏み潰してやるから!」

 そう言うと、フロレンツィアはスカートの裾を捲り上げ、細くすらっと長い足で、ヘクターのメガネを踏もうとした。

「や、やめろ! やめてくれ!」

 話の本筋から逸れて、喜劇を繰り広げている二人へ、近づいてくる人影があった。
 先ほどヘクターに置いてけぼりにされた、アルマンである。

「何やってるんスか、二人とも」

 アルマンはヘクターたちを見て、次に店の玄関の方角を振り返った。

「さっき……俺っち、ベッケラート家のご当主様とすれ違ったんスよね……」
「!」
「……フロレンツィアさん、ケガしてるッスね? それ、殴られたあとですよね?」

 邪な光を灯し始めた小悪魔アルマンの目を見て、フロレンツィアは思わず、上げていた足を地に下ろしてしまう。
 その下には、古びたメガネがあって……。

「あっ……」
「あああああ!」

 絶叫しながら、ヘクターはフロレンツィアの足元に跪くが、彼が十五年間共に過ごした相棒とも呼べるそれは、ぐにゃりとひしゃげ、無残な骸と化していた……。

「へええええ! 娼婦に暴力を振るう伯爵様ッスか! 何があったんスか!? お話を聞かせてくださいよ! あ、いいんスよ、あんたに都合の悪いことは一切喋らなくて! 読者は金持ちが嫌いッスからね! この際、伯爵を、思いっきり悪者にしちまいましょうよ!」

 アルマンは書くべきストーリーの大半を、既に完成させているようだ。
 しかしそれが雑誌に載れば、「黄金ウサギ」の信用はガタ落ちである。娼婦が軽々しくも客との関係やその詳細を暴露するなんて、三流店以下のふるまいであるからだ。

「やめてください! 一切お答えしません!」

 詰め寄ろうとするアルマンとフロレンツィアの間に立って、ヘクターは叫んだ。
 明らかに狼狽している支配人を、アルマンは先ほどまでとは異なる――彼もまた何かに取り憑かれているような目で、見上げる。
「特ダネ」という魔に、アルマンは魅入られてしまったのだ。

「だったら、伯爵に当たってみます! 話が聞けるまで、俺っち、離れないッス!」

 それもまた問題だ。
 この記者がしつこくベッケラートに付きまとえば、「黄金ウサギ」に通ったせいでスキャンダルに巻き込まれたと、そういう見方をする者も出てくるだろう。
 どちらにしろ、店の営業に影響が出る――。

「くっ……」
「ヘクター……」

 背後ではフロレンツィアが、落ち着きなく身動ぎしている。普段は豪胆な彼女も、事の重大さに、さすがに焦っているのだろう。
 金を使ってアルマンを黙らせれば、この小狡い男の要求は際限がなくなるに違いない。
 腕力を頼って黙らせれば、きっと倍以上のペンの暴力が返ってくるだろう。

 ――どうする……!

 決めあぐねていたところで、誰かが廊下の端からこちらに向かって歩いてくる。場違いなその人の姿を認めて、ヘクターは固まった。

「こんばんは。先ほど玄関のところで、エンゲルさんとすれ違ったのだけど……」

 ユリア・アウフシュタイナーである。
 いつもなら歓迎すべき彼女も、今は招かれざる客の一人だった。

「えっ!? あらっ!? フロレンツィアさん、どうしたの!?」

 ――話がややこしくなる。

 ヘクターがそっと頭を抱える中、ユリアは自分の進路を塞ぐアルマンを遠慮なく押し退けて、フロレンツィアに駆け寄った。

「ああ、こんな……ひどい! 血が出ているじゃありませんか!」

 フロレンツィアの口元に清潔なレースのハンカチを当てて、ユリアは憤慨している。

「いったい誰が、こんなことを! ――まさか、先ほど出ていった、エンゲルさんが!?」
「あ、ありがとうございます、奥様。でも、たいしたことは……」
「いいえ、いいえ! これは大変なことですよ!」

 目を伏せるフロレンツィアの手を取り、ユリアは普段なら囁くような優しげな声を、まるで舞台俳優のように張り上げた。

「私のために、こんなに傷ついて! ああ、フロレンツィア!」
「わたしのため……?」

 フロレンツィアはぱちくりと瞬きした。
 構わずユリアは、ますます声高に叫ぶ。

「私との愛を貫くために! あなたはベッケラート卿のプロポーズを、お断りになったのでしょう?」
「!?」

 ユリアのあまりに突飛な発言に、ヘクターとフロレンツィアは呆然となり、対してアルマンの目は激しく輝き出した。

「それ、詳しく! 詳しく教えて下さい!」
「ええ……。こうなったらもう、私も覚悟を決めますわ。私たちの真実の愛を、公にするときが来たのです!」

 小柄な記者に向き直ると、ユリアは芝居がかった口調で語り出した。

「フロレンツィアさんと私は、もう長い間愛し合っていたのです……」
「なんと……!」

 アルマンはポケットから素早くメモ帳を取り出し、物凄い勢いでペンを走らせ始めた。

「ですが、私たちには身分の差もありますが、何より……性別が」
「ええ、ええ、そうです! 禁断の愛ですね!」

 アルマンはなぜか興奮している。

「でも、どうか誤解なさらないでね。私たちは、あくまでもプラトニックな関係。心が寄り添っていれば、それで良かったのです……」
「な、なんてウツクシイ……!」
「ですが、魅力的なフロレンツィアに求婚する男は絶えません。そして遂に大貴族までが、彼女を我がものにせんと動き始めたのです」
「ベッケラート卿のことですね!」

 アルマンの合いの手を受けながら、ユリアの荒唐無稽な話は続いた。

「私は正直あきらめていました……。私たちの天上的な恋愛はここで潰えるのだと。――ですが、今日! フロレンツィアは、ベッケラート卿の求婚を断ってくれたのです! 私のために!」
「そっか! それで卿は荒れて、フロレンツィアさんに暴力をふるったと……! そういうことッスね!」

 ユリアがちらりと目配せを送ると、フロレンツィアも意を得たりとばかりに、老婦人の小さな手を取った。

「ユリア様。これで私のあなたへの愛は本物だと、信じてくださいますね?」
「ええ、もちろん、信じますとも! 私、幸せです……!」

 二人にスポットライトが当たり、華々しい音楽が聞こえた……ような気がした。

 ――なんだこれは。

 女たちの話に、ヘクターなどは到底ついていけない。だが意外なことに、アルマンはうっすら涙ぐんでいた。

「なんて素晴らしい……! 俺っち、感動したッス!」

 感極まったようにそう言ってから、アルマンはポツリと漏らした。

「だからフロレンツィアさんは、俺っちに見向きもしなかったんスね。そうかそうか、うんうん。それならまあ、仕方ないッス……」

『別に意中の相手がいるから』

 なるほど、そのような理由があれば、失恋してもプライドが傷つくことなく、折り合いをつけることができるのか。
 そしてアルマンのような勝手な男は、どれだけ怪しくとも、自分に都合の良い話はそうそう疑わないものだ。おかげで突然降って湧いたユリアとフロレンツィアの熱愛話を、すっかり信じてしまったらしい。

「記者さん、このことを雑誌に載せるのは構いませんが、どうかベッケラート卿のお名前を出すのはやめて差し上げてね? だってほら……お可哀想でしょう?」

 優越感たっぷりにユリアが陳情すると、アルマンはニッと白い歯を見せて笑った。

「それはもう! お二人の愛の前に敗れた惨めな男の名を暴露するほど、俺っち、鬼じゃないッスから!」
「…………………………」

 ヘクターは、もう何も言えなかった。

「いい話を聞かせていただきました! では俺っちはこれで!」

 アルマンは獲物に食いついた獅子の如く……と言いたいところだが、その小柄な体つきと小うるさい様子から、せいぜいチワワといったところか、颯爽と走り去って行った。
 アルマンが店から完全に立ち去ったのを確認すると、ユリアはいつもの穏やかな淑女に戻った。

「ごめんなさい。勝手なことをして……。ああいう話をすれば、とりあえずベッケラート卿の名前は秘されるかと思ったのだけど……」
「貴族と娼婦の痴情のもつれよりも、人気娼婦に実は同性の恋人がいたってほうがウケますからね。――ありがとうございます、奥様。おかげで助かりました」
「いえいえ。でも私のようなおばあちゃんと恋人同士だなんて言ってしまって、フロレンツィアさんのお仕事に支障が出ないかしら……」

 フロレンツィアはすっかり立ち直っており、乱れた髪を直しながら微笑んだ。

「ご心配なく。そもそも私のお得意様たちは、あんな男の書いた記事を信じたりはしないでしょう。むしろ面白がって、会話に花が咲きますわ。それ以外のお客様にも、良い宣伝になります。奥様のような高貴なお方と恋仲だなんて、例え嘘でも光栄なことですもの」

 ユリアはうふふと、茶目っ気たっぷりに笑った。

「それなら良かった。私もこれでこの店に堂々と来られるようになるわね。恋人に会いに来たのよって」

 ユリアの軽口に、フロレンツィアもヘクターも頬を緩めた。

「――奥様、あなたの勇気とご厚意に深く感謝致します。この御礼は、後日必ず」

 フロレンツィアは腰を折り、深々と頭を下げた。ヘクターもそれに習う。
 ユリアは二人の心からの謝辞に驚いたように目を見張り、そして満足そうに頷いた。

 ――なるほど。

 この御婦人のチャーミングな笑顔を前にすれば、数多くの美姫を侍らかせておきながらも、最後は必ず家に帰った、故・アウフシュタイナー伯爵の気持ちが、ヘクターにもよく理解できたのだった。


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