【完結済】金のウサギと銀のメガネ

犬噛 クロ

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3.「黄金ウサギ」の昼と夜

3.

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 ヘクター・オースティンは、移民である。幼い時分、新天地を求め、故郷を発った親に連れられ、ここトーシャイト共和国の大地を踏んだのだった。
 しかし、両親の見通しは甘かった。
 特にこれといったスキルもなく、共和国の公用語を喋ることさえ覚束なかった父は、当然の如く職にあぶれ、酒に溺れるようになった。そして貧困の中、つまらないケンカに巻き込まれて、亡くなったのだ。
 母親は、夫が鬼籍に入ったそのたった数日後には新しい男を咥え込み、家に帰らなくなった。それっきり、息子のヘクターとは疎遠のままだ。
 そのような荒れた生活の中、ヘクターは十代半ばの少年に成長していた。保護を求めるほど子供でもなく、自立するほど大人にはなっていない、中途半端な年齢である。だが彼は生来のタフさと負けん気に支えられ、なんとか生きていた。
 ろくな計画も立てず、祖国を捨てた浅はかな親たち。自分を助けてくれない冷たい周囲と環境。それらに対する憤りも、ヘクターの若き命を焚きつける燃料となっていた。
 そして哀れな生い立ちではあったが、ヘクターは決して無能ではなかった。日銭を稼ぎながらも独学で勉学に励み、一流と呼ばれる大学に入学を許されたのである。
 優秀だったため学費は免除されることになったが、生活費はこれまでと変わらず必要だ。
 昼間学校に通い、みっちり学びつつも金を稼ぐとなると、割の良いアルバイトを探さねばならない。
「短時間勤務・高収入」と謳われる職を探し歩いたのち、ようやく見つけたのが娼館のボーイだった。
 ――これがヘクターと、「黄金ウサギ」の出会いである。

 当時のヘクターは、上流の客へのマナーなど欠片も知らぬ、そのうえ反抗的な目つきをした少年だった。普通だったら、一流娼館になど雇ってもらえるはずはない。
 採用面接中、助け舟を出したのが、今も共に働いているオーナーである。
 ぷくぷくした全体的に丸い体つきの、娼館など経営している割に肉欲とは無縁そうな、どこか浮世離れしたその人は、ヘクターに言った。

「頭のいい子が欲しかったんだよ。頑張ってネ」

 一流大学に入学予定だなんて、説明していなかったにも関わらず、だ。
 今でもヘクターは、オーナーの慧眼に尊敬の念を持っている。やはり成功者は、人を見る目が確かなのだろう。

 さて、こうしてようやく就いた職に、だが働き始めてすぐ、ヘクターは嫌気が差してしまった。
「黄金ウサギ」を訪れる客は、名士ばかり。お金を湯水のように使い、毎夜、小説や芝居に出てくるような、豪華絢爛なる乱痴気騒ぎを繰り広げている。
 そのような様を見せつけられるたび、ヘクターは怒り心頭に発した。

 ――食べることにさえ窮していた自分とは、あまりに違うじゃないか。

 なんという格差だ。不平等じゃないか。
 この頃を思い出せば、ヘクター自身、「よくもまあ、毎日毎日怒ってばかりいたものだ」と、感心するやら呆れるやらだ。歳を取った今では、とてもじゃないが、あんなにも怨念を燃やし続ける体力はない。
 間もなく、ヘクター少年の怒りの矛先は、娼婦たちにも向けられるようになった。
 彼女たちは金持ちの相手を適当にこなすだけで、市井の労働者が額に汗してやっと手に入れる給金の、何倍以上も稼ぐのだ。

 ――汚らわしい雌豚どもめ。

 声にこそ出さなかったが、ヘクターはそれくらい過激なことを思っていたのである。
 一方、そこまで憎悪していながら、一人の娼婦の存在が頭から離れなかった。
 その女の名は、フロレンツィア。
 この頃からフロレンツィアは、現在と寸分違わぬ美貌をもって、「黄金ウサギ」に君臨していた。
 ――二人の出会いが十五年前で、既にベテランだったわけだから……などと、彼女の年齢を指折り数えてはいけないし、そもそも考えてもいけない。

「ちょっと。灰皿はすぐ取り替えて。あっちのグラス、指紋が残ってる。レジの使い方、忘れたの? 覚えられないなら、ちゃんとメモを取りなさい」

 フロレンツィアには厳しく当たられた……と、あの頃は錯覚していた。思い返せば、彼女は当たり前のことしか言っていない。
 要は受け取る側の問題なのだ。
 ヘクターはフロレンツィアを敵視していたから、必要以上に叱咤されたのだと思い込んでいた。

「返事は? あんた、まさかまだ公用語、喋れないんじゃないでしょうね?」
「ちゃんと分かってる! あーあーあー! すみませんでしたッ!」

 ヘクターからすると、常に自分の働きぶりを見張り、いちいち絡んできては揚げ足を取るフロレンツィアは、目の上のたんこぶだった。
 殺してしまいたいほど鬱陶しい。――だが、気になって仕方がない。
 頭では拒絶しているのに、体はあの美しい娼婦に強く惹かれている。
 自分の中に潜む男の性を、ヘクターは恨んだ。

 そんなある夜のことだ。
 仕事でヘマをやらかして、ヘクターは客の男にしたたか殴られた。
 女には優しい客でも、裏では店の者たちに暴力を振るうような、そんな輩もいたのである。

「……っ」

 理不尽な暴力に遭っても、反撃すらできない。
 悔しくて涙が出た。
 金さえあれば、こんなところで働かずに済むのに。みっともない姿を晒すこともないのに。
 店の裏で背を丸め、啜り泣いていると、裏口が開き、フロレンツィアが現れた。

「支配人には言っとくから、顔を洗って来なさい。シャツも替えたほうがいいわ。血がついてる」

 なにがあったか、フロレンツィアは事情を知っているようだった。

 ――今一番、会いたくない女だ。

 惨めな自分を見られたくない。ヘクターは裏口の数段しかない階段を急いで上ろうとして、うっかり踏み外した。無様に前のめりに倒れた瞬間、階段の尖った部分に脛をぶつけ、悶絶する。

「うう~……っ」
「ちょっと、何やってるの」

 痛みのあまり、ヘクターは階段の下でうずくまった。そんな間抜けな青年のそばにしゃがみ込み、フロレンツィアは打った箇所を押さえている彼の手に、自分のそれを重ねた。
 このときふわりと漂ってきた女性らしい上品な香りを、ヘクターは今でも覚えている。

「……あんた、もしかして目が悪いんじゃないの? 時々バカなミスをしてるのは、そのせい? 妙に目つきが悪いのも」
「……………………」

 そのとおりだ。
 大学に入るためにがむしゃらに机に向かい、気づいたら、ほんの少し先にある文字すら読めなくなっていた。
 ただし目つきが悪いのは、生まれつきだが。

 ――目さえ良ければ、もうちょっとまともに働けるのに! 失敗なんかしないのに!

 だが、医者にかかる金もなければ、高級品であるメガネを買う金だってない。
 重なり合ったフロレンツィアの手は自分よりもずっと小さくて、それなのに自分よりずっと金を稼ぐことができる。
 彼女の手の温かさに縋りつきたいのに、同時に腹も立った。

 ――不公平だ、不公平だ、不公平だ! ただ女に生まれたってだけで、楽をできて!

 気づけば、怒鳴っていた。

「あんたはいいよな! 男を適当にあしらうだけで、金がもらえて! いつだって派手に着飾って! どんなわがままも聞いてもらえて! こんな惨めな想い、したことなんかねえんだろ!?」

 八つ当たりなのは十分承知している。だが何かを責め立てて、心のバランスを取らなければ、どうにかなってしまいそうだった。

「……ふうん」

 薄暗い外灯の下で、目の悪いヘクターでも分かるようにはっきりと、フロレンツィアは笑った。
 ――ヘクターが女を怖いと思ったのは、これが生まれて初めてのことだった。

「だったら、あんたもやれば? 性格は悪いけど、顔は一応整ってるもの。人気者の男娼になれるわ。男の前で足を開いて、望まれるまま喘げばいいだけよ。『アンアン、もっとちょうだい。あなたのおちんぽ最高だわ』ってね。簡単でしょ?」
「……!」

 フロレンツィアの言葉どおりのことをしている自分を一瞬想像してしまって、ヘクターは吐き気を覚えた。

「バカなことを言うな……!」

 ふらつきながらもフロレンツィアを押し退け、ヘクターはなんとか店に戻った。

 ――あの女は、何を言っている。気持ち悪い。おぞましい。

 だが、確かにそのとおりだ。
 そんなに金が欲しいのならば――娼婦たちが妬ましいのならば、フロレンツィアが言ったとおり、街角に立って男色家を誘えばいい。ボーイなんかしているよりは、ずっと金を稼げる。
 簡単なことだ。
 なのに、できない。どうしても、できない。

 ――そんなことをするくらいなら、死んだほうがマシだ!

 プライドや羞恥心。それらをかなぐり捨てて、底に堕ちて、ようやく高額な収入を得られるのだと――どうしてそのことに、今まで気づかなかったのだろう。
 そして何も捨てられない自分には――そんな勇気も度胸もない自分には、それらをやってのける娼婦たちのことを、あれこれ非難する資格はないのだ。
 ――この晩をきっかけに、ヘクターは変わった。
 毛嫌いするだけだった「黄金ウサギ」の女たちと、たどたどしくも交流をはかろうと努めるようになったのだ。
 ――彼女たちのことを、もっと知りたかった。
 ただ単に股と頭が緩いだけの者もいたが、店の女たちのたいていは、気の毒な事情を抱えていた。
 家族を養う、はたまた彼らの借金を返すため……。娼婦たちの多くは、自分以外の誰かのために、その体を差し出ていた。

「ほかに方法があったら、こんなことしてないわ。私のような汚れた女を、きっと神様は許してくださらない。――私は地獄に堕ちるでしょう」

 そう言って悲しそうに微笑む女を見て、ヘクターは彼女たちと自分は同じなのだと気づいた。

 ――底の底の、生きもの……。

 ヘクターは男として生まれたから体力も腕力もあり、おかげで薄給ではあるが、真っ当な仕事にありつける。
 だが、これが女に生まれていたら? なんの後ろ盾もない貧乏な移民の娘に、与えられる職といったら?

 ――だとしたら、不平等なのは、どちらなのだろう?

 そう考えるうちに、ヘクターの中から、娼婦たちを蔑む気持ちは失せたのだった。

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