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2.支配人の密かな楽しみ

2.

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「黄金ウサギ」には客用と従業員用の食堂がそれぞれ用意されており、一流レストランで修行を積んだ確かな腕前のシェフが厨房を預かっている。そこでは従業員向けに、いわゆる「賄い」も作ってくれるのだが、これがべらぼうに美味い。娼婦たちの出社時間は開店間際の夕方でいいのだが、賄い目当てに、昼からやってくる女たちも少なくないほどだ。
 ――この店一番の売れっ子も、その一人である。




「あー、そー」

 せっかくの忠告は頭に入ったのか、否か。恐らく後者だろうと容易に推察できるほど、フロレンツィアからは気の抜けたつぶやきしか返ってこなかった。
 どうせ賄いを食べに来たのだろうが、なぜかフロレンツィアは食堂に向かう前に支配人室に寄る。休憩所代わりのつもりだろうか。
「黄金ウサギ」では、娼婦たちを含めた従業員たちに寮を提供しており、フロレンツィアもヘクターもそこで暮らしている。なにしろこの店は「俗世から隔たれた桃源郷」だとかいうコンセプトを謳っているから、自動四輪車で首都から一時間、最も近い町や村へ歩いて行くのにも三十分はかかるという不便な立地なのだ。
 寮へは「黄金ウサギ」から徒歩五分ほど。通いやすく便利だが、それをいいことに人気ナンバーワン娼婦が、起き抜けのしゃっきりしない風体のまま店へやって来るのが、少々困りものである。

「ていうかおまえ、寝癖ぐらい直してこい! そんな姿、万一にでも客に見られたら、百年の恋も冷めてしまうぞ!」

 生来の潔癖症で、だらしない人物や態度を厭うヘクターは、キリキリ眉を吊り上げ、叱咤する。
 しかしフロレンツィアときたらどこ吹く風だ。ボサボサの金髪をそのままに、支配人室にある応接用のソファにどっかりと腰を下ろす。

「バカねぇ。こういうのをギャップ萌えっつーのよ。『いつもはパーフェクトレディのフロレンツィアさんの、ちょっとおマヌケな格好はスーパーレア!』なんつって、勝手に盛り上がってくれるんだから」
「……………」

 こちらは真面目に説教したのに、一向に聞き届ける気のない相手に、ヘクターは苛ついた。
 だいたいフロレンツィアがあくびをしながら啜り始めたのは、食堂で提供されている、娼婦は無料だが従業員は金を取られるコーヒーで、しかもヘクターが毎朝選ぶ高価なほう。ヘクターは小遣いを工面してなんとか飲んでいるそれを、グビグビとまるで水のように……。
 ――憤ったせいで、こめかみに青筋が立つ。
 が、すっぴんのせいでいつもより幼く見えるフロレンツィアを眺めていると毒気を抜かれてしまい、ひとつ息を吐いたあと、ヘクターはいつもの調子に戻った。
 それでも手紙の束を見せ、念を押しておく。ヘクターがフロレンツィアに突きつけたのは、ニクラスから届いた例の呪いの手紙だ。

「こんな文面じゃ、法的手段に訴えられない。だがこれらは、三ヶ月間、毎日、欠かすことなく送られてきている! 量も量だし、病的なものをプンプン感じるだろ? 気をつけろよ、フロレンツィア」
「ふあーい」
「なんなら護衛の人間を雇って」
「いらんいらん」

 フロレンツィアは相変わらず眠そうな顔で、しっしっとヘクターを追い払うように手を振った。
 ヘクターは口をへの字に曲げる。
 届く頻度も中身も異常な手紙。普通こういったものを受け取れば、女ならばブルブルと怯えるものだと思うのだが。フロレンツィアときたら、微塵も動揺していない。
 ――豪胆なのか、単に危機感が薄いのか。

「ニクラスって男は、どんな客だったんだ?」

 ヘクターは話題を変えた。

「別に……。少し気の弱そうな、普通の人だったわよ」
「そうか……」

 収穫のない回答に落胆しつつも、だがそんなものかとも納得する。
 見るからに怪しい男だったならば、そもそも来店をお断りしているはずだからだ。

 ――さて、どうしたものか。

 フロレンツィアからは断られたが、警備員を増やすか。
 だが、まだ何も起きていないというのに、過剰反応だろうか。いたずらに娼婦たちを怯えさせてしまうだけかもしれない。
 かといって、何かあってからでは遅いし……。
 腕を組み、悶々と考え込む支配人をよそに、フロレンツィアはうーんと大きく伸びをした。

「まあ、へーきよ。あんたが考えてるようなことは、起こらないはず」
「……その根拠はなんだ?」
「勘」

 即答されて、ヘクターは脱力した。
 女性のインスピレーションは確かに侮れないものだが、よりどころにするには少し頼りない気がする……。

「あんたって本当に心配性ね」

 フロレンツィアはソファから立つと、すぐ近くで立ったまま思案に暮れていたヘクターに向き直った。背伸びをして、メガネを取ろうと手を伸ばす。

「……レンズに指紋をつけるなよ」

 ヘクターは目を瞑り、フロレンツィアのしたいようにさせた。
 彼女は、彼女だけは、いいのだ。
 ――なぜなら。
 しかしメガネを奪われる寸前、ウルスラが支配人室に飛び込んで来た。

「フロレンツィア姐さん、やっぱりここにいた! 今日賄い食べに来るって言ってたから、待ってたのよ! 早く食堂に行きましょう!」

 そう言うとウルスラはフロレンツィアの腕を取り、ぐいぐいと引きずって行く。支配人室に残されたヘクターは、呆然と二人を見送った。
 そういえばウルスラはフロレンツィアによく懐いていて、何かというとまとわりついている。
 人気者の娼婦というのは店での影響力も大きいし、取り入っておいて損はない。
 だが、そんな打算的な考えを抜かしても、気風が良く、さっぱりした性格のフロレンツィアは、娼婦や従業員の間でも人気が高いのだ。ウルスラはその中でも一番フロレンツィアを慕っている。

 ――まあ、女同士仲良くしてくれるのは助かる。

 娼婦たちの多くは気が強くプライドも高いので、トラブルに発展すればどちらも譲らず、手がつけられなくなる。
 女たちの修羅場に何度も遭遇している支配人の目には、フロレンツィアたちの友情は微笑ましく映った。
 そんな風に見送った娼婦二人だが、昼食を終えたあと支配人室に戻ってきたのは、片方だけだった。
 ――フロレンツィアの姿が見えない。

「フロレンツィアは仕事の準備に入ったのか? それとも寮に戻ったか?」

 ヘクターが尋ねると、ウルスラはつい先ほどはフロレンツィアが座っていたソファに腰を下ろし、ポケットから小さな鏡を取り出した。

「食べ過ぎて、お腹壊しちゃったって。だから今日のお客、あたしに変わってくれって」
「またあいつは……」

 支配人は頭を抱えたが、そうしていてもしょうがないから、すぐに予定表を開いた。
 本日のフロレンツィアのお客は、今のところ一名。新進気鋭の若き実業家で、名を「エマール」という。

「いいのか、ウルスラ」
「いいわよ! ほかでもないフロレンツィア姐さんから、直々に頼まれたんだもの! 支配人、うまい具合に調整してね!」
「ああ、早速おまえのお得意様には、少しだけ遅れてきてもらうよう連絡して……。うん、なんとかなりそうだ」

 手紙をしたためるべく便箋を机の上に置きながら、ヘクターはなんとなくソファに目をやった。
 そこに座っていたウルスラが、化粧を直し始める。彼女が手にした口紅を見て、ヘクターはふとつぶやいた。

「それ、『シセンドゥ』とかいうメーカーのやつだろ」
「あら、支配人、よく知ってるわね。そうよ」

 つや消し加工された黒色の容器に、メーカーのロゴが金字で刻印されている。細身でシックなデザインのその口紅は、最近よく見かける。よっぽど流行っているのだろう。
 少々困ったところもあるが、女として装いにも研鑽を重ね、友情にも厚い。

 ――良い子じゃないか。

 ヘクターはウルスラを見直したのだった。

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