上 下
2 / 8

1

しおりを挟む




 そろそろ長袖の服を出さないと。確か昨日も同じことを思ったのに、家に帰ってきた途端、忘れてしまうのはなぜなんだろう。

「ただいまー」

 仕事を終えて、寄り道をして、だから帰りが遅くなったが、今日はさほど疲れていない。それはこの収穫のおかげだろうと、私は持っていた紙袋を胸に抱きかかえた。
 靴を脱いで家の中に入ると、短い廊下の先から、エプロンを着けた母がひょいと顔を出す。辺りには、デミグラスソースの香ばしい匂いが漂っていた。
 今日の晩御飯はハンバーグと見たが、どうか。

「おかえり、都。今日はお風呂の前に、ご飯食べちゃいなさい。光也の部屋に葉多(ようた)くんがいるから、連れて下りておいで」
「ヨータ? あいつ、また来てるの?」
「ふふふ。帰ってくるところを見かけたから、また拉致しちゃった」

「葉多」は家族ぐるみでつき合いのある、近所の男の子だ。うちの不肖の弟の親友でもある。

「もー。お節介だなあ」
「いーじゃないの、賑やかで。だいたい、春に光也が東北に行っちゃってから、ご飯作る張り合いがなくって。葉多くんにいっぱい食べてもらえると嬉しいのよ」
「あっそ」

 私は他人に食事を振る舞うなんて面倒なだけだと思うけれど、母は違うらしい。
 これも母性本能のひとつなのだろうか。感心半分呆れ半分の気持ちになりながら、私は階段を上った。
 二階には両親の寝室と、私と弟の部屋がそれぞれある。ただし弟の光也の部屋は、今は使われていない。
 光也は今春新卒で入った会社の東北支社に赴任し、旅立っていった。だけど時々は戻ってくるから、奴の部屋はそのままにしてあるのだが。

「ヨータ」

 軽くノックをしてから、光也の部屋のドアを開けた。
 ヨータ――橘 葉多(たちばな ようた)はいつもどおり弟のベッドに腰掛け、壁に寄りかかりながら漫画を読んでいた。手にしているのは、「スラムダンク」だ。何度も何度も読み返したはずだろうに、いい加減、飽きないのだろうか。

「おかえり、みゃー姉ちゃん」

 ヨータが顔を上げる。私のことを子供っぽく呼ぶ割りに、奴はニコリともしていなかった。そのギャップに、いつも笑ってしまいそうになる。
 私の名前は、上月 都。ヨータは私のことを「みやこ姉ちゃん」と呼び――たかったらしい。が、幼かった頃の彼は舌足らずで「みゃー姉ちゃん」としか言えず、それが定着してしまった。お互いいい大人になった今でも、である。

「お母さんが、ご飯だから下りてこいってさ」
「ん」
「あ、そうだ」

 漫画本を閉じてベッドから下りようとしたヨータを押し留めるように、私は持っていた紙袋を突き出した。

「なにこれ?」
「見て」

 ヨータは訝しげに紙袋を受け取ると、中に入っていた封筒を出した。開けていいのかと目で尋ねてくるので、「どうぞ」と頷いて促す。
 封筒の中には数枚の書類が入っており、ヨータはそれらに目を通し始めた。
 ――誰かに言いたくて言いたくて、たまらなかったのだ。しかし親相手だと大ごとになりそうだし、同僚や友達だとうまくまとまらなかったときに恥ずかしいし。
 その点、ヨータならちょうどいい。今回の話が成功しようが失敗しようが、こいつはいつもどおりテンション低めのまま、見届けてくれそうな気がするのだ。

「……なにこれ?」

 書類を見終えたヨータは、先ほどと同じ問いを繰り返した。

「釣書っていうの。簡易版だけどね」
「つりがき」

 ヨータに見せびらかしたのは、ある男性の釣書、つまり学歴や職歴、その他を紙にしたためたものだ。簡単に言えば、自己紹介シートといったところか。

「へっへー。遂に来たの! 理想の結婚相手が!」
「けっこんあいて……!?」

 我ながら、唐突な切り出し方だったと思う。いつもぼさっとぼけっとしているヨータもさすがに驚いたらしく、切れ長の目がまん丸になっている。

「え? みゃー姉ちゃん、結婚すんの? え? え? じゃあ、この人、恋人……!?」
「いや、違う。知らない人。今度会うけどね」
「え? え? 全然意味が分かんないんだけど!」
「実はねー、私、結婚相談所に入会してたの。その人は、そこで紹介してくれたってわけ」

 釣書の主の名は、不破 健人さんという。三十二歳のバツイチ。勤め先は某省庁。国家公務員総合職というご身分だ。

「いやー、結婚相談所も今までイマイチでさあ。こっちは結構な額のお金を払ってるのに! 別んとこに変えようかなって迷ってたら、ようやくキタわけよ! スーパー完璧超人が!」

 私は胸を張って高らかに宣言してから、ヨータの隣に腰を下ろした。

「完璧超人って……。おじさんじゃん。離婚歴ありって書いてあるし」

 釣書に添えられた不破さんの写真を見ながら、ヨータは意地悪く鼻で笑った。

「三十二なんて、全然おじさんじゃないよ。この間紹介された人なんて、四十だったからね。バツイチっていうのも、まあ子供がいなければ気にならないかな」
「でも……!」

 ヨータは手元の書類と私の顔を交互に見比べて、なにか言いたそうにしている。
 あら探しをするつもりだな? しかし発見には至るまい。
 私だって不破さんの釣書をもう軽く百回は読んでいるけれど、バツイチであることと、強いて言うなら少しぽっちゃりしているくらいしか、難を見つけることはできなかったのだから。

「……………………」

 いちゃもんをつけるのを諦めたのか、ヨータは封筒に釣書をしまうと、私に返した。

「ていうか、結婚? みゃー姉ちゃんが? まだ早くない?」
「早くないよ。私、もうじき二十八だよ」
「だ、だって今って、結婚は三十越えてからが普通じゃん」
「適齢期は人それぞれでしょ。私の場合、今からでも遅いくらいだもん」

 この世間知らずめ。でもヨータは私より四つも下だし、まだ学生だから、感覚が違ってもしょうがないのかもしれない。

「私はともかく子供が欲しいわけ。それもいっぱい、たくさん、最低三人は。仮に二年ごとに産むとしてー、体力も使うだろうしー……。ほら、今すぐ結婚して子作り始めても、全然遅いじゃん」

 つい拳に力が入り、不破さんの釣書というお宝の入った封筒にシワが寄ってしまった。
 長いつき合いではあるが、そういえばヨータに私の結婚観なんて語ったのは、これが初めてだ。
 ――そりゃそうか。弟の親友なんかに、そんなことを話す機会なんて、そうそうないし。

「姉ちゃん、子供好きだもんな。で、でもお見合いとか、結婚相談所とか、そういうのは不自然っていうか」
「甘い!」

 今度こそ私は掴みかかる勢いで、ヨータに力説した。

「私は子供をたくさん産んで、その子たちが大きくなるまでは、そばで見守っていたい! つまり、専業主婦志望! そんな私に必要なのは、子供たちと私を養えるだけの経済力がある男性! そんなもん、普通に暮らしてたらなかなか出会えるわけないじゃん! 使えるものは使って、貪欲に探していかないと!」
「か、金かよ! だから女は……!」
「は? なにが悪いの? 医者やら歌手やら目指して努力するのと、お母さんになるために婚活するのと、どこが違うわけ? どっちも、夢を叶えるために頑張ってるだけじゃない!」
「そ、それは」
「だいたいさあ、『経済的に頼るぶん、家庭はきちんと守る! 後方の憂いなくガッツリ稼いできて!』って、そういう奥さんのほうが助かるって男の人も、いるんじゃないの?」
「う……」

 ヨータは目を白黒させている。私の勢いに飲まれているようだ。
 しまった。アツク主張し過ぎたかもしれない。
 畳み掛けてみたものの、正直に言えば、私もちょっと引け目を感じていたのだ。
 ――今の時代、旦那さんに養ってもらうって、古風過ぎないか、と。
 でも決して、主婦のほうが楽ができるからという、自己中で怠惰な考えからではない。育児は働くよりも大変だと聞くし。
 なんにしろヨータをやり込めて、自分を正当化しようとするのは、よろしくなかったかも……。
 案の定ヨータは、泣きそうな顔をしている。

「きゅ、急だよ……。だってちっともそんな素振り見せなかったじゃねーか。結婚なんて……。男にも興味なさそうだったし」
「そりゃあ『結婚したい! 子供欲しい!』なんてガツガツしてるとこ、見せるわけないでしょー! 恥ずかしい!」

 私は明るく笑い飛ばすが、ヨータは憮然としている。
 ――そりゃそうか。
 こいつからしたら私は姉みたいなもんだし、そういう身内の人間から生々しい話を聞くのは嫌だったかもなあ。
 ――これ以上はやめておこう。
 私はベッドから下りると、うなだれているヨータに手のひらを差し出した。

「さっきのこと、うちの親にはまだ黙っておいてね。光也にもね。さ、行こう。お腹減ってる? 今日、多分ハンバーグだと思うんだよね~。ヨータ好きじゃん? うちのお母さん、ヨータの好きなものばっかり作るもんね」
「……………………」

 ヨータはベッドに座ったまま、私の手を取る。思ったより強い力で握られた。

「ん? もしかして寂しいの? 私が嫁に行ったら?」

 ニヤニヤ笑いながら尋ねると、途端にヨータは眉を吊り上げ、私の手を投げるように離した。

「結婚式には行ってやらないからな!」

 吐き捨てるように言うと、ヨータは一人で部屋を出ていってしまった。
 うーん。「寂しいよ、みゃー姉ちゃん」とでも泣きついてきたら、可愛いのにね。




しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

かりそめマリッジ

ももくり
恋愛
高そうなスーツ、高そうなネクタイ、高そうな腕時計、高そうな靴…。『カネ、持ってんだぞ──ッ』と全身で叫んでいるかのような兼友(カネトモ)課長から契約結婚のお誘いを受けた、新人OLの松村零。お金のためにと仕方なく演技していたはずが、いつの間にか…うふふふ。という感じの王道ストーリーです。

27歳女子が婚活してみたけど何か質問ある?

藍沢咲良
恋愛
一色唯(Ishiki Yui )、最近ちょっと苛々しがちの27歳。 結婚適齢期だなんて言葉、誰が作った?彼氏がいなきゃ寂しい女確定なの? もう、みんな、うるさい! 私は私。好きに生きさせてよね。 この世のしがらみというものは、20代後半女子であっても放っておいてはくれないものだ。 彼氏なんていなくても。結婚なんてしてなくても。楽しければいいじゃない。仕事が楽しくて趣味も充実してればそれで私の人生は満足だった。 私の人生に彩りをくれる、その人。 その人に、私はどうやら巡り合わないといけないらしい。 ⭐︎素敵な表紙は仲良しの漫画家さんに描いて頂きました。著作権保護の為、無断転載はご遠慮ください。 ⭐︎この作品はエブリスタでも投稿しています。

【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。

三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎ 長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!? しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。 ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。 といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。 とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない! フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!

お姉様に押し付けられて代わりに聖女の仕事をする事になりました

花見 有
恋愛
聖女である姉へレーナは毎日祈りを捧げる聖女の仕事に飽きて失踪してしまった。置き手紙には妹のアメリアが代わりに祈るように書いてある。アメリアは仕方なく聖女の仕事をする事になった。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

冷淡だった義兄に溺愛されて結婚するまでのお話

水瀬 立乃
恋愛
陽和(ひより)が16歳の時、シングルマザーの母親が玉の輿結婚をした。 相手の男性には陽和よりも6歳年上の兄・慶一(けいいち)と、3歳年下の妹・礼奈(れいな)がいた。 義理の兄妹との関係は良好だったが、事故で母親が他界すると2人に冷たく当たられるようになってしまう。 陽和は秘かに恋心を抱いていた慶一と関係を持つことになるが、彼は陽和に愛情がない様子で、彼女は叶わない初恋だと諦めていた。 しかしある日を境に素っ気なかった慶一の態度に変化が現れ始める。

彼氏が完璧すぎるから別れたい

しおだだ
恋愛
月奈(ユエナ)は恋人と別れたいと思っている。 なぜなら彼はイケメンでやさしくて有能だから。そんな相手は荷が重い。

処理中です...