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5話(終)
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静まり返った部屋で、青と黒、その目に宿る光を互いにぶつけ合う。
やがてアーレンスは乾いた笑みを漏らした。
「はは。あなたはいつもそうだ。男に媚びへつらうくせに、心の中では対等だと思っている。――何様のつもりだ! ただの淫売のくせに!」
最後には鬼のような形相になって、怒鳴る。
そうだ。これこそがアーレンスの本性である。
娼婦の身の上について同情するふりをして、彼女たちの不幸を影で笑う。
慈悲深く見えて、その実、誰よりも残酷な男。
『可哀相に、可哀相に』
アーレンスが自分のお得意様だった頃、彼が繰り返す哀れみの言葉を聞くたび、キャシディーは自分が本当に愚かで無力で、誰かに頼るしか能のない、卑しい人間のように思えてならなかった。
だが、それは違う。
「褒められるような仕事ではありませんが、私たちは自分の体で稼いでいるんです。あなたにそこまで蔑まれるいわれはありません」
そもそも娼婦をそんなに毛嫌いしているのならば、娼館になど来なければいいのだ。
それなのにアーレンスは、間をおかず通ってくる。きっと彼は、自分より劣った存在を嘲笑うために、足を運んでいるのだろう。
「偉そうなことを言うな、売女が!」
鞭のような鋭い声にぴしりと鼓膜を叩かれて、キャシディーは身をすくませた。
怯えたキャシディーを見て、いくらか溜飲を下げたのか、アーレンスは険しかった顔つきを緩めた。
「大丈夫ですよ、キャシディーさん。僕がゆっくりと教えて差し上げます。あなたは賢い。きっとすぐにご自分が何であるのか――豚よりも劣る生きものなのだということを、理解できるようになるでしょう」
近づいてくるアーレンスから、キャシディーはもう逃げなかった。
――ああ。
きっとこれからこの暴君によって、自分の心は殺されてしまうのだろう。
――でも、それもいいかもしれない。
アロイスの顔が思い浮かんで、キャシディーの目からは涙がこぼれ落ちた。
娼館にはそろそろ自分の席はなくなるだろう。
愛する男にも拒絶されてしまった。
人間らしい感情なんて残っていても、つらいだけだ。
――絶望で心を真っ黒に塗り潰して、ただの性具になり果てれば、楽になれる――。
「あなたは僕のものだ……」
掴まれた腕に、アーレンスの爪がギリギリと食い込んでいく。
痛くて、おぞましくて、力が抜けそうだ。
そのとき、扉が開いた。
「!」
キャシディーは「あっ」と声を上げた。
マスクを取り、焼けただれた肌を晒したアロイスが、扉の前に立っていたからだ。
「その手を離してくれないか。ダニエル・アーレンス少尉」
「……どなたですか?」
アーレンスは、突然現れた、しかも顔にむごたらしい傷跡を持つ男を、最初は冷遇しようとした。が、なにかに思い当たったのか、ハッと表情を一変させ、姿勢を正す。
「その傷……! 声……! まさか、少佐!? バーレ少佐でいらっしゃいますか!?」
「そうだ。少尉とは以前、同じ部隊に所属していたことがあったな」
「はい……。その節は、お世話になりました……」
アロイスはつかつかと二人のもとへ歩を進めると、キャシディーの肩に腕を回し、自らの胸元へ引き寄せた。
「アーレンス少尉。今後この人に構わないでくれないか。私は彼女を妻に、と考えている」
「!」
これには、アーレンスもキャシディーも驚いた。
「そ、それは……! しかし、私は……!」
「申し訳ないが、少尉。私は力づくでも、彼女を返してもらうつもりだ」
崩れた肌に囲まれた黒い瞳が、鋭く光っている。アロイスの体からは、さわればそれだけで傷ついてしまいそうな殺気が立ち上っていた。
卑怯なテロリストに炎を放たれた――アロイスは、だが今や彼は哀れな被害者ではない。目的を遂げるためなら何をも傷つけることも厭わない、獰猛な兵士に戻ったのだ。
「ぼ、僕に何かあれば、あなたも無事にはすみませんよ! せっかくの地位も信頼も……!」
「そんなもの、どうだっていい。欲しいのならくれてやる。その代わり、キャシディーは私に返してもらおう」
「なんだと……!」
アロイスの揺るぎない意志を聞いた途端、アーレンスは目を見開き、叫んだ。
「それは、僕に対する皮肉か! 僕が喉から手が出るほど欲しい『それ』を、あなたは簡単に手放せるというのか!」
「……?」
室内は緊張に包まれる。それを破ったのは、ノックの音だ。
「失礼します」
返事を待たず入ってきたのは、キャシディーをここへ連れて来たあの大男、クルツだった。
クルツを一目見て、アーレンスはぎくっと全身を強張らせた。
「門番二人に、室内飼いのボディーガードが三人が戦闘不能。うち一人は、なぜか侵入者に忠誠を誓っている。奴らはいずれも軍隊経験者だ。それを大したケガもさせず倒すとは、どんな猛者が押し入ってきたかと思ったが……。あんただったか、ベーレ大尉」
「ブラル・クルツ中佐、お久しぶりです」
アロイスはクルツに敬礼した。
「階級で呼ばれたのは、久しぶりだ。ベーレ大尉、いや失礼、今は少佐だったな。『ベンクト邸制圧作戦』の話は聞いているぞ。君が隊長を勤めた精鋭五名のチームで、五十名からの私兵を殲滅、目標を確保した。あれほど完璧な作戦を、俺は今まで聞いたことがない。――部下を庇い、君が負傷したのは、実に残念だった」
クルツはしみじみ語ったのち、アーレンスを見据えた。アロイスに向ける目と、アーレンスに向けるそれには、あからさまな差がある。
「若、ここまでです。そちらの娼婦殿を、お返しになりなさい」
「な、嫌だ! クルツ、何とかしろ!」
「現在は休職中とはいえ、ベーレ少佐は軍内部で英雄視されている、一角の人物です。彼に傷ひとつでもつけようものなら、大事になります」
「い、嫌だ!」
駄々っ子のようにアーレンスはねばるが、クルツは冷たく突き放した。
「なりません。これ以上は、お父上に迷惑がかかります」
「おまえは……! おまえも、お父様のことばかり……!」
「何を今更。俺はあくまでもあなたのお父上の部下であって、あなたの家来ではありません。しかもあなたは俺に、さも娼婦側に罪があるかのような嘘を吐いた。――信用などできるものか」
教え諭すようだったクルツの声色は途中からガラリと変わり、もはや怒気を隠そうとはしていなかった。
「甘ったれた坊やの面倒をみるのも、いい加減うんざりなんだよ! 兵隊やんのが嫌なら、とっとと辞めちまえ! こっちは続けたくても、辞めさせられたっつうのに!」
「……!」
胸ぐらを掴まれ、頭上から忌々しげに恫喝されて、アーレンスは今にも泣き出しそうだ。
クルツはアーレンスをそのたくましい腕でギリギリ吊り上げたまま、顔だけをアロイスたちに向けた。
「こいつが先に呼び出した娼婦には、俺が責任を持って詫びを入れさせよう。だからすまないが、今回のことは他言無用で頼む。こいつはクソだが、こいつのオヤジさんには恩があってな。ケガのせいで除隊させられた俺に、秘書の仕事を恵んでくれたんでね」
キャシディーにちらりと目をやってから、アロイスは答えた。
「私は構いませんが……」
「そっちの彼女は?」
クルツに顎で指されたキャシディーは、トゲのある口調で言った。
「娼婦如きが何を言っても、信じてもらえないわ……。ただアンナには、彼女が納得するだけの償いをしてあげてください」
「約束しよう。――車を呼ぶか?」
「いえ……。キャシディーの顔色が悪いようなので、ここで少し休ませていただいてよろしいでしょうか? 彼女が回復したら、そのあとは自分たちで勝手に帰りますので」
「ああ、いいぜ」
気軽に了承すると、クルツはアーレンスを引きずるようにして、部屋を出て行った。
「……………」
――いきなり静かになった。
緊張の糸が切れたのか、キャシディーは今にも倒れそうだ。
アロイスは近くにあった椅子を引き寄せ、キャシディーを座らせた。
「大丈夫ですか? ひどいことは、されませんでしたか?」
アロイスはキャシディーの顔を、確かめるように撫でた。
――また会えた。
優しく自分にふれる大きな手に、キャシディーは頬ずりした。
「どうしてここに? アーレンス様とお知り合いだったようですが。ていうか、アーレンス様は軍人さんだったんですか?」
何から聞いていいのか分からず、キャシディーは頭に浮かんだ疑問を矢継ぎ早に尋ねた。
「あなたともう一人の娼婦が捕らわれたことは、『カーク・カッツェ』のオヤジさんに聞きました。そのときアーレンスという名が出て……ここに来たのです。私と彼は同じ部隊にいたことがあり、この屋敷にも招待されたことがあります。アーレンス少尉は人に言えない遊びをするとき、ここを使うのだと言っていました」
キャシディーの柔らかな頬から手を引き上げ、アロイスは続けた。
「ダニエル・アーレンス少尉の父親については、軍に籍を置く者なら知らぬ者はいない。武家の名門貴族の当主であり、将軍補佐を勤めるお方です。我が国の軍隊を実質的に運営している、大変な実力者だ。その息子であるアーレンス少尉は、お父上の後継者となるべく軍に入ったのです」
「貴族だとは聞いていたけれど……。アーレンス様が軍人だったとは、知りませんでした」
到底そうは思えない。男性にしては線が細く、なによりあの美貌だ。まだ俳優だとでも言われたほうが、しっくりくる。
「だが……。アーレンス少尉は、残念ながら軍人としての資質が全く備わっておらず、成長もなかった。本人もそれをよく分かっているはずです。お父上の立場がありますから、少尉まではなんとか昇進しましたが、それ以上は恐らく……」
アロイスはそこで一度口を噤んだ。
「あの男を許せとは言いません。あいつのしたことは最低だと、私も思います。ですが……。戦友としては、哀れでならない。昔の彼は、もう少し明るい目をしていました。だが、今は……。もう、限界かもしれません」
「……………」
金も身分も麗しい容姿も、何もかも持っているのだと思っていた。誰よりも恵まれた男だと。
だが、本当のアーレンスは――。
代々優秀な軍人を生み出してきた家系。その跡取りとして生まれたにも関わらず、彼にはその才能がなかった。
当たり前のように優れた能力を期待されて、だが応えられない。そのことで、きっとあの男はひどく苦しんだのだろう。
だから自分よりももっと弱い者を探し、虐げることで、心の均衡を保っていたのではないか。
結局アーレンスは、本当に欲しいものを何も持ってはいなかったのだ。
――いや。自分に相応しい場所に生まれ落ちる人間のほうが、もしかしたら少ないのかもしれない……。
やがてアーレンスは乾いた笑みを漏らした。
「はは。あなたはいつもそうだ。男に媚びへつらうくせに、心の中では対等だと思っている。――何様のつもりだ! ただの淫売のくせに!」
最後には鬼のような形相になって、怒鳴る。
そうだ。これこそがアーレンスの本性である。
娼婦の身の上について同情するふりをして、彼女たちの不幸を影で笑う。
慈悲深く見えて、その実、誰よりも残酷な男。
『可哀相に、可哀相に』
アーレンスが自分のお得意様だった頃、彼が繰り返す哀れみの言葉を聞くたび、キャシディーは自分が本当に愚かで無力で、誰かに頼るしか能のない、卑しい人間のように思えてならなかった。
だが、それは違う。
「褒められるような仕事ではありませんが、私たちは自分の体で稼いでいるんです。あなたにそこまで蔑まれるいわれはありません」
そもそも娼婦をそんなに毛嫌いしているのならば、娼館になど来なければいいのだ。
それなのにアーレンスは、間をおかず通ってくる。きっと彼は、自分より劣った存在を嘲笑うために、足を運んでいるのだろう。
「偉そうなことを言うな、売女が!」
鞭のような鋭い声にぴしりと鼓膜を叩かれて、キャシディーは身をすくませた。
怯えたキャシディーを見て、いくらか溜飲を下げたのか、アーレンスは険しかった顔つきを緩めた。
「大丈夫ですよ、キャシディーさん。僕がゆっくりと教えて差し上げます。あなたは賢い。きっとすぐにご自分が何であるのか――豚よりも劣る生きものなのだということを、理解できるようになるでしょう」
近づいてくるアーレンスから、キャシディーはもう逃げなかった。
――ああ。
きっとこれからこの暴君によって、自分の心は殺されてしまうのだろう。
――でも、それもいいかもしれない。
アロイスの顔が思い浮かんで、キャシディーの目からは涙がこぼれ落ちた。
娼館にはそろそろ自分の席はなくなるだろう。
愛する男にも拒絶されてしまった。
人間らしい感情なんて残っていても、つらいだけだ。
――絶望で心を真っ黒に塗り潰して、ただの性具になり果てれば、楽になれる――。
「あなたは僕のものだ……」
掴まれた腕に、アーレンスの爪がギリギリと食い込んでいく。
痛くて、おぞましくて、力が抜けそうだ。
そのとき、扉が開いた。
「!」
キャシディーは「あっ」と声を上げた。
マスクを取り、焼けただれた肌を晒したアロイスが、扉の前に立っていたからだ。
「その手を離してくれないか。ダニエル・アーレンス少尉」
「……どなたですか?」
アーレンスは、突然現れた、しかも顔にむごたらしい傷跡を持つ男を、最初は冷遇しようとした。が、なにかに思い当たったのか、ハッと表情を一変させ、姿勢を正す。
「その傷……! 声……! まさか、少佐!? バーレ少佐でいらっしゃいますか!?」
「そうだ。少尉とは以前、同じ部隊に所属していたことがあったな」
「はい……。その節は、お世話になりました……」
アロイスはつかつかと二人のもとへ歩を進めると、キャシディーの肩に腕を回し、自らの胸元へ引き寄せた。
「アーレンス少尉。今後この人に構わないでくれないか。私は彼女を妻に、と考えている」
「!」
これには、アーレンスもキャシディーも驚いた。
「そ、それは……! しかし、私は……!」
「申し訳ないが、少尉。私は力づくでも、彼女を返してもらうつもりだ」
崩れた肌に囲まれた黒い瞳が、鋭く光っている。アロイスの体からは、さわればそれだけで傷ついてしまいそうな殺気が立ち上っていた。
卑怯なテロリストに炎を放たれた――アロイスは、だが今や彼は哀れな被害者ではない。目的を遂げるためなら何をも傷つけることも厭わない、獰猛な兵士に戻ったのだ。
「ぼ、僕に何かあれば、あなたも無事にはすみませんよ! せっかくの地位も信頼も……!」
「そんなもの、どうだっていい。欲しいのならくれてやる。その代わり、キャシディーは私に返してもらおう」
「なんだと……!」
アロイスの揺るぎない意志を聞いた途端、アーレンスは目を見開き、叫んだ。
「それは、僕に対する皮肉か! 僕が喉から手が出るほど欲しい『それ』を、あなたは簡単に手放せるというのか!」
「……?」
室内は緊張に包まれる。それを破ったのは、ノックの音だ。
「失礼します」
返事を待たず入ってきたのは、キャシディーをここへ連れて来たあの大男、クルツだった。
クルツを一目見て、アーレンスはぎくっと全身を強張らせた。
「門番二人に、室内飼いのボディーガードが三人が戦闘不能。うち一人は、なぜか侵入者に忠誠を誓っている。奴らはいずれも軍隊経験者だ。それを大したケガもさせず倒すとは、どんな猛者が押し入ってきたかと思ったが……。あんただったか、ベーレ大尉」
「ブラル・クルツ中佐、お久しぶりです」
アロイスはクルツに敬礼した。
「階級で呼ばれたのは、久しぶりだ。ベーレ大尉、いや失礼、今は少佐だったな。『ベンクト邸制圧作戦』の話は聞いているぞ。君が隊長を勤めた精鋭五名のチームで、五十名からの私兵を殲滅、目標を確保した。あれほど完璧な作戦を、俺は今まで聞いたことがない。――部下を庇い、君が負傷したのは、実に残念だった」
クルツはしみじみ語ったのち、アーレンスを見据えた。アロイスに向ける目と、アーレンスに向けるそれには、あからさまな差がある。
「若、ここまでです。そちらの娼婦殿を、お返しになりなさい」
「な、嫌だ! クルツ、何とかしろ!」
「現在は休職中とはいえ、ベーレ少佐は軍内部で英雄視されている、一角の人物です。彼に傷ひとつでもつけようものなら、大事になります」
「い、嫌だ!」
駄々っ子のようにアーレンスはねばるが、クルツは冷たく突き放した。
「なりません。これ以上は、お父上に迷惑がかかります」
「おまえは……! おまえも、お父様のことばかり……!」
「何を今更。俺はあくまでもあなたのお父上の部下であって、あなたの家来ではありません。しかもあなたは俺に、さも娼婦側に罪があるかのような嘘を吐いた。――信用などできるものか」
教え諭すようだったクルツの声色は途中からガラリと変わり、もはや怒気を隠そうとはしていなかった。
「甘ったれた坊やの面倒をみるのも、いい加減うんざりなんだよ! 兵隊やんのが嫌なら、とっとと辞めちまえ! こっちは続けたくても、辞めさせられたっつうのに!」
「……!」
胸ぐらを掴まれ、頭上から忌々しげに恫喝されて、アーレンスは今にも泣き出しそうだ。
クルツはアーレンスをそのたくましい腕でギリギリ吊り上げたまま、顔だけをアロイスたちに向けた。
「こいつが先に呼び出した娼婦には、俺が責任を持って詫びを入れさせよう。だからすまないが、今回のことは他言無用で頼む。こいつはクソだが、こいつのオヤジさんには恩があってな。ケガのせいで除隊させられた俺に、秘書の仕事を恵んでくれたんでね」
キャシディーにちらりと目をやってから、アロイスは答えた。
「私は構いませんが……」
「そっちの彼女は?」
クルツに顎で指されたキャシディーは、トゲのある口調で言った。
「娼婦如きが何を言っても、信じてもらえないわ……。ただアンナには、彼女が納得するだけの償いをしてあげてください」
「約束しよう。――車を呼ぶか?」
「いえ……。キャシディーの顔色が悪いようなので、ここで少し休ませていただいてよろしいでしょうか? 彼女が回復したら、そのあとは自分たちで勝手に帰りますので」
「ああ、いいぜ」
気軽に了承すると、クルツはアーレンスを引きずるようにして、部屋を出て行った。
「……………」
――いきなり静かになった。
緊張の糸が切れたのか、キャシディーは今にも倒れそうだ。
アロイスは近くにあった椅子を引き寄せ、キャシディーを座らせた。
「大丈夫ですか? ひどいことは、されませんでしたか?」
アロイスはキャシディーの顔を、確かめるように撫でた。
――また会えた。
優しく自分にふれる大きな手に、キャシディーは頬ずりした。
「どうしてここに? アーレンス様とお知り合いだったようですが。ていうか、アーレンス様は軍人さんだったんですか?」
何から聞いていいのか分からず、キャシディーは頭に浮かんだ疑問を矢継ぎ早に尋ねた。
「あなたともう一人の娼婦が捕らわれたことは、『カーク・カッツェ』のオヤジさんに聞きました。そのときアーレンスという名が出て……ここに来たのです。私と彼は同じ部隊にいたことがあり、この屋敷にも招待されたことがあります。アーレンス少尉は人に言えない遊びをするとき、ここを使うのだと言っていました」
キャシディーの柔らかな頬から手を引き上げ、アロイスは続けた。
「ダニエル・アーレンス少尉の父親については、軍に籍を置く者なら知らぬ者はいない。武家の名門貴族の当主であり、将軍補佐を勤めるお方です。我が国の軍隊を実質的に運営している、大変な実力者だ。その息子であるアーレンス少尉は、お父上の後継者となるべく軍に入ったのです」
「貴族だとは聞いていたけれど……。アーレンス様が軍人だったとは、知りませんでした」
到底そうは思えない。男性にしては線が細く、なによりあの美貌だ。まだ俳優だとでも言われたほうが、しっくりくる。
「だが……。アーレンス少尉は、残念ながら軍人としての資質が全く備わっておらず、成長もなかった。本人もそれをよく分かっているはずです。お父上の立場がありますから、少尉まではなんとか昇進しましたが、それ以上は恐らく……」
アロイスはそこで一度口を噤んだ。
「あの男を許せとは言いません。あいつのしたことは最低だと、私も思います。ですが……。戦友としては、哀れでならない。昔の彼は、もう少し明るい目をしていました。だが、今は……。もう、限界かもしれません」
「……………」
金も身分も麗しい容姿も、何もかも持っているのだと思っていた。誰よりも恵まれた男だと。
だが、本当のアーレンスは――。
代々優秀な軍人を生み出してきた家系。その跡取りとして生まれたにも関わらず、彼にはその才能がなかった。
当たり前のように優れた能力を期待されて、だが応えられない。そのことで、きっとあの男はひどく苦しんだのだろう。
だから自分よりももっと弱い者を探し、虐げることで、心の均衡を保っていたのではないか。
結局アーレンスは、本当に欲しいものを何も持ってはいなかったのだ。
――いや。自分に相応しい場所に生まれ落ちる人間のほうが、もしかしたら少ないのかもしれない……。
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