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5話(終)

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 ――ああいうのを、「可愛くない女」って言うんだわ。

 過剰なほどの「お愛想」を振り撒きながら、アンナは「カーク・カッツェ」で一番の古株の、ある女のことを思い出していた。

 ――アタシは、あんな意固地な女とは違う。利用できるものは何でも使って、絶対に幸せになってやるんだから。

「すっごいおっきいお屋敷ぃ~!」
「…………」

 せっかく褒めてやったのに、前を歩くアーレンスは返事もしない。
 聞こえなかったのか、それとも謙遜しているつもりなのか。
 ノリが悪い……。アンナは苛ついた。
 だが今回の客であるアーレンスは、お金持ちなだけでなく、おとなしくて扱いやすい、上質なカモだ。顔がいいのもポイントが高い。
 せいぜいお行儀良くしなければ……。
「店ではなく、自宅で会って欲しい」と、昨晩アーレンスが申し出たとき、アンナははしゃぎつつ、内心しめしめとほくそ笑んだ。
 この男の愛人にしてもらうことが、アンナの野望なのである。そしてどうやらそれは、早々に実現しそうだ。

 ――ホント、こんな上客を拒否するなんて、あのキャシディーっていうババアは何を考えてるのかしら。

 店主であるオヤジさんが甘やかすからわがままに、気位ばかり高くなるのだ。自分のことを棚に上げ、アンナはそう思った。
 誰かが誰かを拒絶するその理由を、考えようともしない。アンナは客や同僚など、自分以外の誰かにだって人格があるということを、根本的に理解できない娘だった。
 ――だからいつだって、表面的なことにしか気づけない。

「アンナさん、こちらへ」

 開かれた扉の先には、この屋敷の豪華な外観にそぐわない、あまりに質素な空間が広がっていた。
 大きなベッドと椅子。――これでは娼館の自分の部屋と、たいして変わらないではないか。

「え……?」

 何かがおかしいと、アンナが不安になり始めた頃、開きっぱなしだった扉から、ぞろぞろと男たちが入ってきた。
 総勢十名に及ぶ彼らに押し込まれるようにして、アンナは部屋の奥へと追いやられてしまう。

「あの、アーレンス様、この人たちは……?」

 アンナは根性の曲がった女であり、そして人としての「底」も浅かった。
 ――真の悪意には、到底敵わない。

「本当によく来てくれましたね、アンナさん。――とても楽しみですよ」

 客の美しく整った顔には、見たことのない不気味な笑みが浮かんでいた。







 普段だったら予約すら取れない大人気の娼婦と、酒の席を共にするなんて、光栄かつ幸運なことなのかもしれない。
 ――ただし酌をするのは、客のほうであったが。
 空いた盃に、変わった形のピッチャーを傾けてやると、フロレンツィアは艶やかに笑った。

「ありがと。あなた男のくせに、気が利くのね。軍隊では、そういった礼儀も仕込まれるのかしら」

 くっと一息で飲み干した盃を、娼婦はまた差し出す。
 アロイスは酒を注いでやりながら、ふと興味に駆られて、手にしたピッチャーをしげしげと眺めた。
 陶製のそれは注ぎ口の下がくびれており、ひょろりと細長い。
 独特だが風流なデザインは、恐らく異国のものだろう。中に収められている酒も、初めて嗅ぐ匂いがした。

「これね、東国のお酒なの。お米からできてるんですって。冬は温かくして飲むらしいけど、私は冷やが好きだわ。キリッと辛口で美味しいのよ」

 さすが高級取りなだけあって、フロレンツィアは舌が肥えているようだ。
 彼女が先ほどから口元に運んでいる盃は、手の平にすっぽり入ってしまうほど小さく、アロイスはこれも見たことがなかった。

「ああ……酒器が珍しい? 瓶のほうが徳利、こっちはお猪口っていうのよ」

 フロレンツィアはアロイスに猪口を渡し、酒を注いでやった。
 アロイスからすれば呑むつもりはなかったのだが、娼婦手ずから勧められては、断るのも失礼だろう。仕方なく口をつけると、爽やかな香りがすっと鼻に抜けた。
 すっきりしていて、しかし芳醇でもあり、確かに美味い酒だ。ただし、ひどく強い。
 アロイスはアルコールに弱いほうではなかったが、フロレンツィアのように立て続けに何杯も、は呑めそうになかった。

「ご馳走様でした」
「おかわりは?」
「いえ、結構です」

 固辞したあとはフロレンツィアに盃を戻すと、アロイスは彼女から半ば奪うようにして徳利を掴み、酒を注いだ。
 フロレンツィアは挑むように微笑みながら、返杯を空にする。そうやって、もう五、六杯は平らげているはずなのだが、まるで水でも飲んでいるかのように、彼女の顔色は全く変わらない。
 良い娼婦になるには、酒が強いことも条件の一つなのかもしれない。
 内心舌を巻きながら、アロイスはそう思った。

「それで、あなたの疑問は解決したの?」

 尋ねながら、フロレンツィアは近くの皿に手を伸ばした。
 金色のマニキュアで飾られた指が摘んだのは、「スルメ」。東国ではポピュラーな魚介の干物だそうだ。

「どれだけ貯め込んでたか知らないけど、娼館巡りは、軍人さんのお財布ではつらいものがあったんじゃないの? 財産をはたいてまで知りたかった答えを、あなたは得たのかしら?」

 カサカサに乾いた「スルメ」は、見た目干からびた皮のようで、恐らく相当硬いのだろう。歯と顎でぐっとその肴を毟りながら、フロレンツィアは質問を重ねた。
 女性らしからぬ荒々しいその仕草に、だがアロイスは、男にしなだれかかって甘えている彼女よりも、こちらのほうがしっくりくると、失礼ながらそう思ってしまった。

「私が何を悩んでいたか、お見通し……ですか」
「『あの娘は、自分に惚れてるんじゃなかろうか?』でしょ? 特別扱いされてるんじゃないかっていう錯覚。遊び慣れていない男が陥りやすい、勘違いね」
「……返す言葉もありません」

 アロイスが首をすくめて見せると、フロレンツィアは楽しそうに声を出して笑った。

「で、ほかの娼婦たちと比べてみて、本当のところは分かったの? あなたが抱いたそれは、真実だった? 間違いだった? キャシディーは、あなただけの女神だったの?」
「……分かりません。冷静になろうと努めましたが、彼女の言動のひとつひとつを、どうしても自分に都合良く受け取ってしまって……」

 キャシディーは、もしかしたら自分に好意を持ってくれているのではないか。彼女にとって自分だけは特別であり、ただの客だと思われていないのではないか、と――。
 だがアロイスが色街で遊ぶようになったのは、最近のことだ。娼婦の媚びやお世辞を真に受けてしまい、自惚れているだけなのではないかと、彼は自分を疑った。
 だから頭を冷やすために、「カーク・カッツェ」以外の娼館へも通ってみたのだが――。
 結論を言えば、ますます分からなくなってしまった。
 テクニックだけでいえば、キャシディーよりも巧みな女は多い。しかし彼女のように柔らかい雰囲気で自分を包んでくれる女は、誰一人としていなかった。
 だからといってそれが、自分が愛されていることの証左であると、言い切れるはずもない。ほかの客にだって、キャシディーは同じような安らぎを与えているのかもしれないし……。

「自分では判断がつかないから、キャシディーがどんな子か、私に聞きに来たってとこかしら?」

 フロレンツィアは自ら徳利を取った。アロイスが慌てて酌をしようと手を伸ばすが、フロレンツィアは「手酌が好きなのよ」と、やんわり辞した。

「でもそれは責任重大過ぎて、答えづらいわね」
「いえ、私が聞きたいのは、彼女の人となりではなく……」

 そうだ。「キャシディーはどんな女性か」などと、人に教えてもらってどうなろう。
 誰がなんと言おうと、自分の目で見た、耳で聞いた、肌で感じた、それが自分にとっての彼女なのだから。
 聞きたかったのは――。

「あなたがたは、客に恋をしますか?」

 真剣な顔をしたアロイスに尋ねられると、フロレンツィアは徳利を傾けていた手をぴたりと止め、ぷっと吹き出した。

「そんなこと聞かれたの、久しぶりだわ! あはははっ!」

 どうやら酒が空になったようだ。アロイスは店の者を呼ぶと、おかわりを注文してやった。それにしてもペースが早い。

「そうねえ。一流の娼婦は、客に恋なんてしないわ。お客様はあくまで仕事相手よ。でも、キャシディーのような二流の娼婦なら、そんな間抜けなこともやらかすんじゃないかしら」

 フロレンツィアの回答はアロイスに希望を持たせるものだったが、内容は幾分か辛辣だった。
 この高級娼婦とキャシディーは、懇意にしていると聞いていたのに。
 腑に落ちない顔のアロイスに、フロレンツィアは微笑みかけた。

「キャシディーのことは、友達として好きよ。でもあの子は、娼婦に向いてないと思うわ」
「彼女のどこが、向いていないと……?」
「娼婦っていうのはね、殿方に夢を売るお仕事なの。恋人、妻、奴隷。彼らが望む女になりきって、ひとときを共に過ごす……。だけど娼婦のほとんどは、そこを理解していない。あくまでも自分を売ろうとする。キャシディーも同じね。だから男たちにその身を梳られて、ボロボロになっていく……」
「……………」

 新しく運ばれてきた酒をアロイスは受け取ると、フロレンツィアの盃に注いだ。
 若々しく美しい、だがきっと自分よりもずっと年嵩だろうこの女性が、もう長いこと色街の頂点に座していられるのは、それが理由なのだろう。
 フロレンツィアは男たちから奪われることなく、むしろ奪い続けて、ここにいるのだ。

「多くの娼婦たちは、ある意味、男たちへの希望を捨てていないとも言える。父親か恋人か、正義の味方か……。自分を救ってくれるなにかだと、そんな風に見誤り、尽くそうとする。――それだけに哀れだわ。キャシディーなんて、ペラッペラになっちゃって……」

 フロレンツィアは笑みを消し、真顔になって、アロイスを見上げた。

「ねえ、あなた。あの子を救ってあげてよ」
「……!」
「私にも夢を見せて。男が女を助ける、そんな物語を」

 まるで少女のように無邪気に輝く翡翠の瞳を、アロイスは見返すことができなかった。


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