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4話
2.
しおりを挟む馴染みの客の局所は、どれだけ心を砕いて奉仕してみても、その気になってくれなかった。
「もういいよ、キャシディーちゃん。悪ィね。疲れただろう」
「ううん! ごめんね、カールさん! もうちょっとやらせて!」
キャシディーがうなだれたままの男根をきゅっと握り締めると、客の男は苦笑いを浮かべた。
「いやいや、キャシディーちゃんが悪いんじゃねえんだ。俺、今日ちょっと気が散っちまってよお」
カールという名のその客は寝台から降りると、脇に置かれたカゴから服を取って、身に着け始めた。
キャシディーはそんな客を、不甲斐ない気持ちで見守るしかなかった。
――客をその気にさせられないなんて、娼婦の名折れだ。
だが当のカールはまったく気にしていない様子で、へらへらと笑っている。
「実はよお、俺んち、もうじき子供が生まれるんだよ」
「まあ、赤ちゃん……! おめでとう!」
「へへ、あんがとよ。でもよ、ガキが生まれちまったら、俺も遊んでられねえだろ? 金もいるしよ。だから今日で最後にしようと思って、ここに来たんだけど……。はは、まだカミさんの腹の中にいるっつうのに、赤ん坊の顔がチラついちまって。さっぱり勃たねえや」
そう言って、男は頭をかいた。
この客とは、もう五年来の付き合いになる。陽気な家具職人で、稼いだ金は飲み代に消えるか、女を買うか、そんな刹那的な生き方をしている男だった。
それがいつの間にかきちんと妻を娶り、子供まで授かっていたとは。驚きと共に、キャシディーの胸には、じんわりと温かいものが広がっていった。
良い客だったから、こんな所には通わず、できれば幸せになって欲しいと思っていた。
客の金を吸い上げて生きる娼婦としては矛盾する考え方なのかもしれないが、人同士が密に接し合うこういった場所では、往々にして生じる感情でもあった。
「あーあ、最後にたあっぷりと、キャシディーちゃんを抱こうって思ってたのによ! もう俺はおしまいだな~!」
「カールさんったら」
愛情ではなく、愛着。古い友人を失う寂しさ。
わずかな痛みが、キャシディーの胸をちくりと突いた。
カールは最後に熱い接吻を求めて、キャシディーもそれに応えた。
選別代わりのそれを受け取ると、男は満面の笑みを浮かべながら店を後にした。
足早に、身重の妻の元へと帰って行く客の後ろ姿を見送りながら、キャシディーは改めて思った。
――そろそろ潮時なのかもしれない。
同僚に疎まれ、お得意様に去られ――。自分はここに長く居過ぎたのだろう。
それになによりキャシディーは、娼婦という仕事自体が苦痛になっていた。
原因は、ある一人の客、アロイスのせいだ。
自身を売る。高額な報酬と引き換えに、男性の下半身の世話をする――。はっきり言って下賤な仕事だ。当然、嫌なこともたくさんあった。
だが酷い目に遭っても、キャシディーは心を無にすることができた。
何も考えなければ、大抵のことはやり過ごせる。
しかし最近は何をするにもアロイスの顔が浮かんできて、他の男の体に触れることに嫌悪感すら抱く始末だ。
――彼を、愛しているから。
今まで、自分にはこの仕事が向いているんじゃないかと思っていた。
だが、それは間違いだったらしい。
キャシディーが娼婦でいられたのは、誰かを本気で愛したことがなかったから。
女を売っていながら、本当の意味で女になっていなかったからである。
「……………」
カールが去ったあとの扉を閉める瞬間、隙間から入り込んできた冷たい夜風に、キャシディーはぶるりと震えた。
発作的に、このままここを飛び出して、消えてしまいたいと思った。どこか、もっと暖かい所へ行きたい。
だが、そんなわけにいかないのはよく分かっている。重たい体をなんとか動かして、部屋へ戻る。
伏せた目が、廊下の反対側から歩いてきた仕立ての良い靴を捉えた。
「あ! キャシディーさん!」
「……!」
ギリッと寄った眉根を、キャシディーは慌てて緩めた。
キャシディーを呼び止めた男はすらりと背が高く、役者のような美しい顔立ちをしていた。
名は、アーレンス。ついこの間まで、キャシディーのお得意様だった客だ。
アーレンスを見れば、人は「天は二物を与えず」という諺がどれだけデタラメで、世の中は実に不平等にできていると思い知るだろう。
輝くような美貌といい、高潔な人格といい、貴族という身分といい――。ひとつでも備わっていれば幸せになれるだろうそれらの要素を、アーレンスは全て併せ持っているのだ。
「こんばんは、アーレンス様」
商売用の澄まし顔を作って、キャシディーは頭を下げた。
アーレンスの隣にはあの小生意気なアンナが控えており、ちらちらとこちらに敵意のこもった視線を寄越してくる。今度アーレンスが来たら、彼女を紹介してくれるように頼んでおいたのだが、オヤジさんはうまくやったらしい。
「すみません。あなたに早く謝りたかったのですが、なかなかお会いできなかったので……」
「会えなかった」。その部分に咎めるような響きを感じ取ったが、気づかないふりをして、キャシディーは聞き返した。
「謝る?」
「その……。僕の知り合いが、あなたに強引なことをしたようで……。申し訳ありませんでした」
アーレンスは人形のように整った顔を曇らせているが、そんな表情をしていても絵になるから困る。
「ああ……」
彼に言われて、キャシディーはある男のことを思い出した。
前歯の揃っていない、汚らしい中年の……。
数日前のこと、そのような特徴の男に待ち伏せされて、あやうく連れ去られそうになったことがある。そこをアロイスに助けてもらったのだ。
「信じていただけるか分かりませんが、あのようなこと、僕が頼んだわけではないのです」
男性にしては高く麗しい声を震わせ、アーレンスは弁解した。
「……気にしていませんから。きっとどこかで誤解があったのでしょう」
アーレンスは、この店にとって上客だ。大ごとにして機嫌を損ねたくなかったので、キャシディーはとりあえず穏便に答えた。
多くの人間はアーレンスの言うことを、そのまま何でも信じるだろう。女性を無理矢理拉致しようなどと、そのような野蛮なことをする人物ではない、と。
だがキャシディーは、そこまで素直に、この貴族の青年を信じることができなかった。
その理由は、自分でもよく分からない。
アーレンスの振る舞いは紳士そのものであって優しいし、金払いも良い。力づくで娼婦を呼びつけるような、そんな横暴なことを良しとする男とは思えないのに、この不審感はなんだろうか。
「どうか今度、お詫びをさせてください」
謝罪という名目で食い下がってこようとするアーレンスを、キャシディーは笑顔で振り切った。
「いえ。それより、アンナはとってもいい子ですから、可愛がってあげてくださいね」
――こういうお節介なところが嫌われるんだろうな。
うんざりとそう思ったが、ただし先ほどのは嫌味だ。言われっぱなしなのも腹が立つから。
「……!」
アンナは戸惑ったように目を泳がせた。
悪口を言った相手に良くしてもらう。そのようなことに居心地の悪さを感じるだけの良心が、彼女にもあったのか。
キャシディーは、ひどく悪いことをしたような気持ちになってしまった。慣れてもいないのに、意地の悪いことはしないほうがいい、ということだろう。
「……そうですね。アンナさんは明るくて、元気なお嬢さんだ。ですが、僕は――いえ」
新しく自分の担当になった娘に気遣ったのか、それとも未練たらしかろうと自重したのか、アーレンスは口を噤むと小さく会釈し、そのまま出口へ向かって歩き出した。
キャシディーも再び自分の部屋へ戻り始めたが、その耳に軽薄なアンナのはしゃぎ声が届き、どっと疲れが襲ってきた。
「潮時」という単語が、また思い浮かぶ。
――本当に色々……もう限界かもしれない。
だが、ここを辞めてどうなるのだろうか。そもそも生きていけるのだろうか。
――今のままでも、いいじゃない。
そうやって自分を甘やかすたび、頭の中に黒髪の美しい人が浮かび、首を振った。
『ダメよ』
――あれは、誰だったか。
「おーい、キャシディー!」
後ろからオヤジさんに呼ばれて、キャシディーは我に返った。
「アロイスさんがお出でだ。さくっと準備してくれよ!」
「!」
想い人の来訪に、胸が湧き立つ。キャシディーはオヤジさんに返事をするのも忘れ、自らの手を握り締めた。
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