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3話
3.
しおりを挟む休憩室での一騒動で調子を崩されたせいか、そのあとのキャシディーに客はつかなかった。
まあ、こういう日もある。
娼婦になって十年。陽が沈む頃に店に入り、陽が現れる前に帰る生活を続けている。
不健康なようだが――仕事中の自分は、太陽に見つかることはない。そのことは、キャシディーにとって救いだった。
何年経ってもこの仕事に、キャシディーは誇りが持てないでいる。――どうしても。
店の裏口から外へ出ると、ひんやりとした空気が頬を刺した。
辺りはまだ暗い。見上げれば、夜と朝が混じり合った、菫色の空が広がっていた。
――帰ったら一眠りして、煮込んでおいたスープと、美味しいパンで食事を取ろう。そのあとは、編み物の続きをしようか。
娼館から一歩出れば、娼婦たちも一人の女性である。
しかしそのルールを知らない無粋な男に、キャシディーは突然呼び止められた。
「おい、あんた! キャシディーっていうんだろ?」
振り返ると、店の裏門の脇に、一人の男が立っていた。
記憶を探るが、とりあえずお得意様ではない。店で見かけた覚えもないように思う。
こんな時間のこんな場所に、偶然人がいるとは考えにくい。ならば、待ち伏せしていたのだろうか。
せっかく帰宅後どう楽しく過ごそうか考えていたのに、キャシディーは一気に陰鬱な気分になった。
男は恐らく四十は越えているだろう。くたびれた服を着て、古びた中折れ帽にボサボサの伸びっぱなしの髪を押し込んでいる。髭にも剃刀を当てておらず、喋るたび開閉する口元は、よく見ればいくつか歯が欠けていた。
「あんた最近忙しくて、店では指名できねえんだって? さるお方がよう、嘆いていなさるんだ。だからよ、これからちょっと俺と一緒に来て、そのお方の相手をしてやってくれよ。な?」
「……今日の仕事は終わりましたから。その人には、お店に来てくださいとお伝えください」
キャシディーが身構えてそう言うと、男は舌打ちし、あからさまに苛つく素振りを見せた。
「だからよ! 店であんたを捕まえられないから、わざわざ俺が来たんじゃねえか!」
「私はお店の外では、お客を取らないんです」
娼婦が個人で営業活動を行うのは、トラブルの元だ。
今までの経験からそれをよく分かっているキャシディーは、ジャケットの前を押さえて、早足で歩き出した。
「待てよ!」
男が駆け寄ってきて、腕を掴まれる。
「離して!」
キャシディーは咄嗟に店のほうを振り返った。
既に門を出てしまったし、裏口まではだいぶ距離がある。
娼館には、このような困った客もよく来る。そのため店は、荒事への対処用に、用心棒を雇うことが多い。
「カーク・カッツェ」にも数人そういった役目の男がいたが、ここは裏手だし、店からもだいぶ離れてしまっている。気づいては貰えないだろう。
そのうえ、今は夜が明けきれぬ早朝だ。周囲には人通りもない。
――どうしよう。
「たく、淫売ごときが何様のつもりだァ? てめえらみたいな女は、黙って男の言うことを聞いてればいいんだよ! まだ分からねえっつうなら、その綺麗な顔を一発二発、殴ってやろうか!?」
男は短気なタチのようで、キャシディーを捕まえているのと逆の腕を振り上げた。
こういうタイプの男は、何の躊躇もなく、本当に女を殴る。
キャシディーは自由になるほうの手で、せめて顔を庇った。
「何をしている!」
「!?」
びりっと雷のように響く声に恐る恐る頭を上げれば、男の後ろに山のような影が佇んでいる――。と、そう認識した次の瞬間には、男の振り上げた手は、彼自身の背中に回っていた。
「いててててっ!」
「――その人を離せ」
男はよほど捻じり上げられた腕が痛いのか、すぐにキャシディーの手を離した。
キャシディーが数歩後ずさって、彼らから距離を取ったのを確認してから、黒い影は男を解放した。
「あ」
突然現れた山の如き存在。その顔を覆っているのは、黒い――マスク。
つまり、アロイスだ。
「てめえ!」
男はアロイスに殴りかかった。
アロイスは素早く身を引き、軽々と攻撃を避けると、男の腕が胸先を掠めていく一瞬にその手首を掴み、くるりと捻った。
それだけのことで何がどうなったのか、男はこてんと地面に転がってしまった。
「……え?」
二人のやり取りを見守っていたキャシディーも、そして倒された男自身も地面に背をつけたまま、ぽかんと放心している。
――しばらく、誰も動かなかった。
「やめておけ。どうやっても、おまえは私に勝てない。それ以上、歯を失いたくないだろう?」
アロイスは男を見下ろしながら、親指の先を自らの口元に向けた。
「お、覚えとけよっ! 次はボコボコにしてやるからな!」
力の差を思い知ったのだろう。男はがばっと起き上がると、捨て台詞を吐いて、一目散に逃げて行った。
「大丈夫ですか?」
「あ、は、はい!」
アロイスに声をかけられて、キャシディーは我に返った。
そうだ。彼が来てくれなければ、今頃どうなっていただろう。
そう思うと、今更ながら心臓は大きく跳ね、冷や汗がダラダラ流れ出す。
「あ、ありがとうございました……!」
「いえ、たいしたことはしていません。でも、気をつけたほうがいいですね」
深々と頭を下げるキャシディーの前で、アロイスは頭をかいた。
「ところでアロイスさんは、どうしてここに……?」
「体が鈍るので、最近毎朝走っているんです。今日もその途中で……」
見ればアロイスは、トレーナーにジャージ姿だ。健康的なその格好に、黒いマスクはあまりにミスマッチで、キャシディーは申し訳ないと思いつつも、笑いたくなってしまった。
「もうお仕事は終わられたんですよね。一人で帰れますか?」
「あ、はい……。」
正直に言えば、怖い。
男に殴られそうになったショックがまだ残っていて、キャシディーの足はガクガク震えていた。
「店の人を呼んできましょうか?」
アロイスは心配そうだ。
――どうしよう。
図々しいかと迷ったが、キャシディーは思い切って頼んでみた。
「その……。よろしければ、アロイスさん、うちまで送っていただけませんか? 先ほどのお礼もしたいですし」
「……分かりました。お送りしましょう」
アロイスはあっさり了解してくれた。
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