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3話
2.
しおりを挟む「それでは、また」
去り際、いつものように、アロイスは几帳面に頭を下げた。
ゴテゴテと生花が貼りつけられた娼館の出入り口をくぐり、大きな背中が遠ざかっていく。
アロイスを見送るたび、キャシディーはもう彼がここへ来てくれなかったらどうしようと、そんな不安に苛まれた。
――考えたって、しょうがないのに。
娼婦である自分に、できることは何もない。
来るか、来ないか。全ては、客であるアロイスの意志によって決まるのだから。
ため息を吐いてから、キラキラ光るミュールの踵を鳴らし、廊下を戻る。
まだ次の客はついていない。
今まで想い人のいた部屋で、一人になるのが嫌で、キャシディーは休憩室に向かうことにした。
「カーク・カッツェ」は、客を迎えるための個室を全部で十ほど備えている。そのうちの三分の二が埋まれば、上々といったところだ。
入り口からまっすぐ伸びた廊下の左右に、娼婦たちがそれぞれ担当する客室がある。
そのままどこにも寄らず進んだ突き当りが、「関係者以外立ち入り禁止」の区域。ミーティングスペース、または休憩室だ。
キャシディーが奥へ進み、ドアを開けると、甲高い声が出迎えてくれた。
「もう!」
「……?」
この店で働く娼婦全員が集まっても、十分休めるだろう広い部屋に、どういうわけか険悪な空気が漂っている。
なにごとだろうか。
「なんでアタシには、嫌な客ばっかりつけるのよ!」
声の主は、アンナという娘だ。十八になったばかりの娼婦で、なかなかの器量良しだが、客からの評判はあまり良くない。
激高するアンナの前ではオヤジさんが、苦虫を噛み潰したような顔で立っている。
「客が『指名なし』っつったら、空いてる娼婦に宛がうのは当たり前だろーがよ」
「それにしたって、アタシの客は変なのばっかりじゃない! 今日のなんて物凄く口が臭くて、そのうえキスはダメだって言ってるのに、無理矢理しようとしたのよ! 吐きそうになっちゃったわよ!」
「機械的に振り分けてるんだ。別に、変……少し問題のあるお客様ばかりを、おまえさんに回してるってわけじゃねえよ」
「うそ! オヤジさんは私情を挟んでる! アタシが気に食わないから、そーゆーことしてるんでしょ!?」
アンナは納得できないのか、そのあとも店やオヤジさんに対する不満を挙げ連ね、機関銃のようにまくし立てた。
最初は黙って聞いていたオヤジさんも、そろそろ堪忍袋の緒が切れる頃合いか、ボサボサの眉を吊り上げた。
「あのなあ、俺は誰も贔屓なんかしちゃいねえよ。大体、嫌な客ばかりだと言うがな、おまえさんが上等なお得意さんを掴めていれば、こんな目に遭わないんじゃねえのか」
「なによ、アタシが悪いっていうの!?」
今にも掴みかかりそうな勢いでアンナは怒鳴ったが、オヤジさんは怯まず、ただ腕を組んだ。
「はっきり言やあ、そーだ。おまえさん、客を怒らせてばっかじゃねえか。ただの小娘が、椿姫を気取りやがって」
「……!」
顔を真っ赤にしたアンナは唇を噛み締め、オヤジさんを睨みつけている。
オヤジさんも引こうとしない。
一触即発の状態だ。
――これはまずいところへ来ちゃったな……。
休憩どころではない。部屋に戻ろう。
握ったままだったドアノブをそろそろと引きかけたところで、キャシディーはアンナに見つかってしまった。
「あっ!」
キャシディーのいるドア付近に目をやって、アンナはまたオヤジさんに向き直る。
頭のてっぺんでひとつにまとめた赤いくせっ毛は、アンナが視線を動かすたび、激しく動いた。
その毛先でしたたか鼻を打たれて、オヤジさんが小さく呻く。
アンナとは、そういう落ち着きのない娘だった。しかも自分で自分のガサツな性格に気づいていないから、尚たちが悪い。
「そうよ! オヤジさん、贔屓してないなんて言ったけど、じゃあキャシディー姐さんは何なのよ!」
「えっ!?」
攻撃の矛先をいきなり向けられて、キャシディーは困惑するしかなかった。
「アーレンス様に、あの覆面男! ほかも、上客ばっかりじゃない!」
鼻を押さえたまま、オヤジさんは呆れ顔になった。
「だからそれは、キャシディー自身の努力だとか魅力とかで、お得意さんになってもらったわけだろうが。俺は何もしてねえよ」
「嘘よ! それだけじゃないわ! だってオヤジさん、キャシディー姐さんと仲いいし! 絶対贔屓してるのよ! ずるい!」
遂にアンナは大声でわんわん泣き出してしまった。
この娘は確か娼婦になって、まだ一年ほどのはずだ。
黙っていれば可愛らしいのだが、今までのやり取りが物語るとおり性格に難があり、トラブルばかり起こしている。そのせいで普通の、昼間の仕事が続かず、この花街に流れてきたらしい。
だが風俗業や水商売だって、これでなかなか対人スキルが必要な職業である。
このままではアンナは、ここでも席を失ってしまうだろう。
「ああもう、泣くなよ、アンナ」
オヤジさんがなだめすかしても、アンナは首や手足を引っ込めた亀のように頑なに、ただただ泣き喚くばかりだ。
その鬱陶しい甲羅を殴りつけるように、キャシディーは怒鳴った。
「うるさい! 口を閉じな、アンナ!」
「!」
初めて聞いた先輩の怒声に、その迫力に、アンナはぴたりと泣き止んだ。
わがままな小娘の青ざめた顔を、キャシディーは冷たく一瞥してから、オヤジさんに向かって言った。
「オヤジさん、今度アーレンス様が来たら、アンナを紹介してあげて」
その途端、アンナの顔はぱっと明るく輝き、逆にオヤジさんは慌て出した。
「って、キャシディー! 娼婦を選ぶのは、お客様の……アーレンス様のほうだろう!?」
「そこをうまく誘導するのが、オヤジさんの腕の見せどころじゃない」
「やったあ!アーレンス様、超イケメンじゃん! 金持ちだし!」
先ほどまでの修羅場から一転、上客を掴めるかもしれないという展開に、アンナははしゃぎ出した。
「アンナ。もうこれ以上、わがままを言うんじゃないよ? あと、アーレンス様があんたのお得意様になってくださるかどうかは、あんた次第なんだからね」
「うんっ! アタシ頑張るよ、姐さん! アーレンス様に気に入られたら、愛人にしてもらえるかもしれないもんね! そしたら、こんな所で働かなくたっていいんだもん!」
「こんな所で悪かったな」とオヤジさんは不機嫌そうだが、アンナは己の幸運に酔いしれている。
アンナは、こういう女の子なのだ。悪気はないのだろうが、周りのことを考えない。考えることができない。
――でも、もしかしたらこういう屈託のない子のほうが、アーレンス様とうまくいくのかもしれない。
キャシディーはそんなことを思いながら、今度こそドアノブを引き、再び廊下へ出た。
ここに来る前よりも、疲れが増している。――何が休憩室だ。全く休めなかったではないか。
「姐さん、ありがとー!」
ぐったりしたその背中に、アンナの脳天気な声が覆いかぶさってきた。
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