【完結済】世界で一番、綺麗で汚い

犬噛 クロ

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3話

1.

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 キングサイズの大きなベッドなのに、この客が相手だと狭く感じる。
 天井を向いて横たわった逞しい体に、キャシディーは擦り寄った。男の肩に頭を乗せ、キメの荒い肌の感触を頬で味わう。
 濃い汗の匂いがするが、不快ではない。むしろもっと嗅いでみたくて、彼の胸の辺りに鼻をつけ、すんすんと息を吸い込んだ。

「ど、どうしました?」

 さすがに挙動不審だったか。

 ――犬みたいだったかしらね……。

 狼狽えた目で自分を見詰めるアロイスに、キャシディーは誤魔化すように笑い返した。

「あはは……。ええと、お茶、お飲みになりますか?」
「ああ……。欲しいけれど、すみません、今は動きたくない……」

 アロイスは力なく答えると、手の平を上にして、目を覆った。
 疲労困憊の様子だ。
 無理もない。
 今日は興が乗ったというのか、彼はほとんど間を開けず、三回も射精してしまった。
 キャシディーはそれ以上の回数達しているから、こちらもクタクタである。
 セックスを覚えたばかりの猿のように、二人はお互いを求め、貪り合っていた。

「無茶をさせてしまったでしょうか……?」
「ううん。すごく……良かったです」
「そ、そうですか」

 隣で寝そべるキャシディーの、豊かな黒い髪を、アロイスは優しく梳いた。その手つきはぎこちない。きっとこの男は、何かを愛でるということに慣れていないのだろう。
 しかしそんなことは気にならない。キャシディーはうっとりと目を閉じた。

 ――犬か猫になってしまいたい。

 男や女などではない、性を越えた生き物に……。
 そうすればこの男は、自分を側に置いてくれるだろうか。
 ――そうだ。
 人でなければ、娼婦だとか客だとか、面倒くさい関係を捨て去ることができる。

 ――ただ純粋に、一緒にいられるのに。

「……っ」

 アロイスの体が、不意にがくっと大きく揺れた。眠りに落ちかけたらしい。

「あ……。私、寝てましたか?」
「ふふ……。まだ時間はありますし、お眠りになってよろしいんですよ?」
「……それは勿体ない」

 そう言って、アロイスはキャシディーの体を抱き寄せた。
 額に男の唇が当たって、キャシディーの胸はドキドキと激しい鼓動を刻む。
 こんな温かい触れ合いを知らなければ、なんてことはなかったのに、知ってしまったら最後、欲しくて切なくてたまらなくなる。

 ――寂しい。

「孤独」とは、愛を知った瞬間に、初めて生まれる概念なのだろう。
 キャシディーは、またうとうとと船を漕ぎ始めたアロイスの顔を覗き見た。
 彼は相変わらず、頭から首までを黒いマスクですっぽり覆っている。
 マスクは恐らく錦糸でできていて、その布地は薄く、目、鼻、口の周りは楕円形にくり抜かれていた。

「アロイスさん。これ、取ってみてもいいかしら?」

 キャシディーは起き上がると、アロイスのマスクの裾をそっと摘んだ。

「!」

 アロイスはぱっと目を覚ますと、シーツに肘をつき、体を起こした。その拍子に、キャシディーの手からマスクが逃げていってしまう。
 傷痕を人に見られるのは、やはり嫌なのだろうか。

「…………」

 アロイスを覆う筋肉の鎧はぴりりと張り詰め、彼が警戒しているのが分かる。
 が、それはすぐ、風船から空気が抜けるように緩んだ。

「どうぞ……」

 諦めたかのように弱々しく、アロイスは言った。

「じゃあ、失礼します……」

 キャシディーは再び黒いマスクの縁に手をやり、ゆっくりと捲り始めた。
 彼女もアロイスの素顔を見るのは、これが初めてのことである。
 喉に顎、唇は紫で、およそ潤いというものが存在しない――。アロイスは紙やすりのような、ガサガサの肌をしていた。
 痛々しく一帯を侵した火傷の痕は、上るほどにどんどん濃くなっていく。
 鼻は溶けた蝋を固めたようにひしゃげ、毛髪のない頭頂部から後頭部にかけては、ひどいケロイドになっていた。目とその周辺に傷がなく無事なのは、唯一の幸いといえよう。。
 ――正視に耐えない。
 普段マスクの隙間からわずかに覗く様子から、アロイスがどんな状態なのか、ある程度は予想していた。
 だが実際に彼の素顔と対峙すれば、あまりの悲惨さに目を背けたくなった。

 ――自分から見せてと言っておきながら、なんて勝手で失礼なんだろう……。

 キャシディーは、自身を嫌悪した。だが、愛する人の全てを知りたかったのだ。
 アロイスの相貌の――醜さ、無惨な有り様について衝撃が去ると――。
 これだけの傷を負ったのだ。彼が受けた苦痛と恐怖を慮って、胸が苦しくなってくる。

「……おつらかったですね……」

 それ以外、何が言えるだろう。
 目尻に涙を滲ませたキャシディーの手から、アロイスはマスクを優しく取り返し、被り直した。

「なかなかの傷でしょう? もうじき二年になりますか、私は軍の任務で、あるテロリストの自宅を強襲した。奴はこちらの動きに気づき、逃亡しようとしていたのです。その前に、奴は全ての証拠や足跡を、家ごと燃やそうと図り……。ちょうどその場に踏み込んだ私は、奴が持っていた燃料を頭からかけられてしまい、そして火をつけられた……」
「…………!」

 生きながら、炎に巻かれる。
 髪や、頭、顔が燃えていく感覚。
 その痛みと恐ろしさは、一体いかほどのものだったろう。
 想像するだけで悲鳴を上げそうになって、キャシディーは口を手で覆った。気遣ったのか、アロイスはなるべく軽い口調で話を続けた。

「それなりの装備をしていましたから、ほら、手なんかは綺麗でしょう? でも、頭部は無防備だった。まったく、頭隠して……というあのことわざの逆だったら、まだマシだったんでしょうにね」

 アロイスは饒舌だった。明るく話そうとするその努力がかえって不憫で、キャシディーは悲しくなった。

 ――こんなときに、あたしなんかに、気を使わなくていいのに。

「あなたにそんなことをした人は、捕まったんですか?」
「はい。チームで出向いていましたから、目標はその場で確保し、私もすぐに救助されました」

 アロイスは傷痕を確かめるように、マスクの上から顔を撫でた。

「奴は裁判を受けて、もう既に処刑されています。私に対しての……傷害罪ではなく、別件で。――だから私は、もう誰も憎むことができない」
「…………」

 キャシディーはそっと、アロイスの頬に触れた。

「よろしければ、ここではそのマスクを取ってくださいな。もちろん、あなたがお嫌なら、話は別ですが。それを着けていらっしゃると、少し息苦しそうだから、気になっていたのです。だいたい、邪魔でしょう? 激しい運動をなさるわけですし?」
「激しい運動……」

 アロイスはぷっと吹き出した。

「違いない。鍛えていたつもりだったが、たったあれだけの回数でこんなにもバテてしまうとは、私もまだまだです」

 くすくす笑いながら、しかし結局アロイスはマスクを取らなかった。

「すみません。まだ少し、この身を人目に晒すことに、抵抗があります。……ですが、お気遣いありがとうございます」
「いいえ……」

 キャシディーも無理強いはせず、ただ微笑んだ。




 この善良な軍人の、崩れた素顔を見たとき、黒く濁った沼のようなあたしの心に、ぽかりと、更に汚い何かが浮かんだ。
 恐怖ではなく、厭悪でもなく、もっともっと愚かで、救いようのない――。

 ――あたしは、世界で、一番、汚い。

 キャシディーはこのときのことを――このときの想いを、一生忘れることはなかった。




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