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2話
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おなじみの揉み手に、おなじみの猫なで声。――オヤジさんの必殺技だ。
だが今日は、彼のおねだりを聞くわけにはいかない。キャシディーは腕を組み、ふんっと荒い鼻息を吐いた。
「頼むよ~、キャシディー!」
「い、や! 絶対にいや!」
オヤジさんが経営する娼館「カーク・カッツェ」に、キャシディーはもう十年籍を置いていることになる。
娼婦にも二種類いる。
親族やその他関係者から売られるか、もしくは娼婦自ら店に借金を申し込むケース。この場合、支払われた金額の分、娼婦は働き続けなければならない。
もうひとつは、自らの意志で働くケース。これはいつでも辞められるので、気楽なものである。
キャシディーの場合、最初は前者で、現在は後者だ。
娼婦なりたての頃に、「カーク・カッツェ」から借り受けた金銭はしっかり返済済みで、だからいつでもここを出て行ける。
実際のところ、「カーク・カッツェ」はさほど給料が良いわけではない。客層だって金持ちもいれば貧乏人もいて、つまりチップの額にバラつきがあり、娼婦にとっては魅力的な職場とは言いかねる。
それでもキャシディーがこの娼館に留まるのは、元締めであるオヤジさんの人柄によるところが大きい。
多くの売春宿が暴力と金によって支配したがるのに対し、オヤジさんは仁と和によって、店で働く女たちを取りまとめている。
……まあオヤジさんは少し気が弱いので、かしましい娼婦たちの尻に敷かれている向きもなくはないが。
だが、殴ったり蹴ったりされて、無理矢理言うことをきかされるよりはずっといい。
店の、そんな平和な雰囲気を守りたくて、キャシディーはオヤジさんの言いつけや要望をなるべく聞くようにしてきた。
「持ちつ、持たれつ」の精神だ。
だが今日だけは、首を縦に振るわけにはいかなかった。
「オヤジさん。あたし、オヤジさんのお願い、かなり聞いてるほうだと思うんだけど」
事実そのとおりなので、ぴしゃりと言い返されてしまうと、オヤジさんはぐうの音も出ない。
「でもな、ほら、アーレンス様はどうしてもおまえさんをと、強くご希望なんだよ。チップだって、いつもはずんでくださるじゃないか」
「そんなこと、どうでもいいわ。それとも、娼婦の希望を尊重してくれる『カーク・カッツェ』は、もう閉店しちゃったのかしら」
取りつく島もない、親子ほど歳の離れた娼婦を前に、オヤジさんはハアとため息を吐いた。
オヤジさんのおねだりはつまり、「とある客の指名に答えて欲しい」ということだ。
「まったく、アーレンス様のどこがそんなに嫌なんだね。若いし金持ちだし、イケメンじゃないか。なんかいい匂いがするしぃ。うちの女の子たちにも、大人気だっていうのに」
「だったら、違う子に譲るわよ。あたしは全然構わないわ」
「そういうわけにもいかないって、知ってるだろうに。もう」
オヤジさんはぶつぶつと愚痴をこぼしながら、部屋を出て行った。
背中の丸まった後ろ姿が見えなくなると、キャシディーは腰掛けていたベッドに、コロッと寝転んだ。
わがままを言うのはあまり慣れていなくて、やはり気が引ける。
だが、これだけは譲れない。きっぱり決然と断るしかないのだ。
「アーレンス」というのは苗字だそうで。名前も聞いたことがあったが、忘れてしまった。キャシディーにいたく執心している、金持ちの客の家名である。
アーレンスはオヤジさんの言うとおりまだ若く、確かになかなかの美形だった。娼婦にも乱暴な真似は一切しない。彼もまた紳士と言っていい。
だから最初のうちはキャシディーも、良い殿方がお得意様になってくれたと喜んでいたのだが――。
なぜかそのうち、違和感を覚えるようになってしまった。
最初は小さかったそれは、どんどん大きくなり――。
――そう。私はあの目をどこかで見た……。
遠くなり、曖昧に薄れた記憶の中の、誰かと同じ――。
それがきっかけでキャシディーは、今やアーレンスのその姿が視界に入るだけで、嫌悪感を抱くようになってしまったのだ。
――まったく、待ち人は来ず、招かれざる客ばかり。
イライラと、キャシディーが自分の黒い巻き毛で手遊びしていると、ドアがノックされた。次いでオヤジさんが、ひょいと現れる。
「もう! やだって言ってるじゃない!」
ガバッと起き上がったキャシディーが野良犬のように吠えかかると、オヤジさんは慌てて首を振った。
「違う違う、アーレンス様じゃない! けど、おまえさんに客だ」
「……もしかして、アロイスさん?」
「いや、そっちでもない」
キャシディーはがっかりと頭を垂れた。
だが。
「『黄金ウサギ』のフロレンツィアさんだよ」
「!」
オヤジさんの言葉で我に返って、しゃんと背筋を伸ばす。大物の訪問に、ぼけっとしているわけにはいかなかった。
キャシディーのいる「カーク・カッツェ」が庶民の通う娼館であるのに対し、「黄金ウサギ」はゴージャスな金持ち向けの娼館である。例えば花代は、「カーク・カッツェ」の軽く三倍。最高級の嬢などは、十倍にまで至る。
本日訪ねてきてくれた「フロレンツィア」というのは、「黄金ウサギ」で一番人気の高級娼婦だ。キャシディーにとって大恩ある人物で、また茶飲み友達でもあった。
「いらっしゃい、姐さん」
「おはよう、キャシディーちゃん。元気だった?」
例え夜だろうが、娼婦たちが交わす挨拶は「おはよう」だ。
シンプルなデザイン故に、生地と仕立ての良さが際立つスーツを着こなし、耳たぶや首元には豪華なアクセサリーが光る。
その身を飾る衣装や付属品に全く引けを取らない彼女、フロレンツィアは輝くほどに美しい。
だが残念というべきか、彼女は一目見ただけで、ただの貴婦人ではないと分かってしまう。
明らかに空気が違うのだ。
その溢れ出るフェロモンときたら、同性であるキャシディーでさえドキドキと胸が騒ぐ。これが男だったら、ひとたまりもないだろう。
――本当に姐さんは変わらないな……。
二人の出会いは十年も前のことだったが、フロレンツィアは今と同じ、いやむしろますます美貌に磨きをかけて、裏町に君臨し続けている。
そんな女王様につい見惚れて、ハッと我に返ったキャシディーは、慌ててお茶の支度を始めた。
「あん、どうぞお構いなくう」
「あたしのお得意さんは、開店直後の時間帯にあまり来てくれないの。だから今、暇なのよ。良かったら、ゆっくりしていってくださいな」
それを聞いたフロレンツィアは、屈託なく笑った。
「うふふ。実はそれを狙って来ちゃったのー。せっかくのお休みなんだし、キャシディーちゃんの淹れてくれる美味しいお茶が飲みたかったのよねえ」
相変わらず遠慮がない。キャシディーも釣られて笑った。
フロレンツィアはかなり年上のはずだったが、子供のように無邪気だ。しかし厳しいところもある。そこがまた、彼女の魅力なのだが。
実はフロレンツィアは、右も左も分からなかったキャシディーを、「カーク・カッツェ」に紹介してくれた恩人だ。
元々世話好きらしく、だからキャシディーを見詰める目は優しい。
「ああ、この蜂蜜入りの紅茶! 自分で入れると、同じ味にならないのよねえ」
カップを手に取り、一口中身を飲むと、目を細め、ほうっとため息を吐く。しばらくお茶を堪能してから、フロレンツィアはソーサーにカップを置いた。
ガチャリと陶器同士が擦れる音が、やけに重たく聞こえた。
「……今日はね、ちょっと聞きたいことがあって。キャシディーちゃんのとこに通ってる、わんこちゃんのことなんだけど」
「わんこ?」
「ほら、でっかくて、黒い……。」
「あ……」
それだけのヒントで、キャシディーはすぐアロイスに思い至った。
二メートル近い身長と、黒いマスクをかぶった男。
確かに「でっかくて、黒い」。だが「わんこ」……。そうだろうか?
「実はあの人、一昨日うちの店に来たの。それで私を指名してくれて」
「……!」
フロレンツィアの話を聞いた途端、キャシディーの胸は針で刺されたように痛んだ。
実はアロイスはここ一ヶ月ほど、「カーク・カッツェ」に現れていない。
金が続かなくなったのか、もしくは飽きたのか。よくあることだ。
だが、原因として思い当たることがもうひとつあり、キャシディーはそれが気がかりだった。
――「あんなこと」を言わなければ、良かったのだろうか、と。
その予感が、フロレンツィアからもたらされた事実によって、確信に変わる。
「あ、まだわんこちゃんとは寝てないわよ。ほら、ご存知のとおり、うち、初回は顔見せのみっていう決まりだから」
「黄金ウサギ」は、行けばすぐセックスができるという類の店ではない。
お目当ての娼婦と面談の機会を持ち、行為に及べるのは次回、場合によっては次々回以降。娼婦に気に入られなければ永遠に関係を結べないという、客の根気が試される場所なのである。
圧倒的な売り手市場なのだが、そこが金持ちの紳士たちに好評で、大繁盛だとか。
なんでも、気位の高い女を、徐々に自分のものにしていく感覚がたまらないのだそうだ。
「これから先も、あのわんこちゃんがうちに通ってくるか分からないけど。でもお話ししてみたら、なかなかセクシーな殿方じゃない? ちょっと変わった外見をしてるけどね。だから、キャシディーちゃんの気持ちを確かめておこうと思って。あなたが構わないなら、私、彼のこといただいちゃおうかなーって」
フロレンツィアは持ち味の、目尻が少し垂れた目で、キャシディーをじっと見詰めた。
これが彼女流の仁義の通し方なのだろう。そしてそれは正しい。
娼婦と娼婦で客を奪い合うことを、一般の男女間で起こる諍いごとのように「寝取った、寝取らない」などと騒ぐのは滑稽なことかもしれない。
だが、娼婦たちだって人間である。
客とはいえ、関係を持った男性が、他の女に奪われるのは面白くないものだ。
だからせめてそこに至る前に話を通しておけば、娼婦たちの摩擦もいくらか軽減されるだろう。
「…………」
キャシディーは大きく息を吸ってから、正面に座る美しい女性の、青い瞳を見詰め返した。
「……いいのよ、姐さん。あたしのことは気にしないで。アロイスさんのお望みどおりにしてあげて」
なるべく私情を排除して答えたつもりだったが、直後持ったカップの琥珀色の表面は、波立っていた。――手が震えている。
フロレンツィアは微笑んだ。
「あなたの気持ちはよく分かったわ。――わんこちゃんをもらうのは、やめておくわね」
「え……!?」
戸惑い、何か言おうとするキャシディーを制するように、フロレンツィアはつけ足した。
「それにね、多分あのわんこちゃんは、もう来ないような気がするわ。なんだかとてもシャイだったしね」
フロレンツィアはうふふと、思い出し笑いをした。
――確かに、自分のところへ最初来たときのあの人も、大きい図体の割にビクビクしていて、おかしかった……。
キャシディーもまた苦笑いを浮かべた。
「私ね、今でもあなたが娼婦になるのを止めなかったこと、後悔しているの……」
ひとしきり笑ったあと、フロレンツィアは寂しそうに睫毛を伏せた。
「そんなこと……! 望んだのはあたしなんだから、姐さんが気にすることないわ! いいお店を紹介してもらって、ずっと感謝してるのよ!」
「……………」
キャシディーがフォローするが、フロレンツィアはそれには答えず、カップを手に取った。
「あのわんこちゃんはこういうことに慣れていないようだから、相手をするのは大変ね。キャシディーちゃん」
「え……?」
「きっとあなたも、この仕事をしていることに苦しむわ。だから私は……後悔しているのよ」
この大先輩は何を言いたいのだろう。
真意を計り兼ねて、キャシディーは返事をすることができなかった。
だが今日は、彼のおねだりを聞くわけにはいかない。キャシディーは腕を組み、ふんっと荒い鼻息を吐いた。
「頼むよ~、キャシディー!」
「い、や! 絶対にいや!」
オヤジさんが経営する娼館「カーク・カッツェ」に、キャシディーはもう十年籍を置いていることになる。
娼婦にも二種類いる。
親族やその他関係者から売られるか、もしくは娼婦自ら店に借金を申し込むケース。この場合、支払われた金額の分、娼婦は働き続けなければならない。
もうひとつは、自らの意志で働くケース。これはいつでも辞められるので、気楽なものである。
キャシディーの場合、最初は前者で、現在は後者だ。
娼婦なりたての頃に、「カーク・カッツェ」から借り受けた金銭はしっかり返済済みで、だからいつでもここを出て行ける。
実際のところ、「カーク・カッツェ」はさほど給料が良いわけではない。客層だって金持ちもいれば貧乏人もいて、つまりチップの額にバラつきがあり、娼婦にとっては魅力的な職場とは言いかねる。
それでもキャシディーがこの娼館に留まるのは、元締めであるオヤジさんの人柄によるところが大きい。
多くの売春宿が暴力と金によって支配したがるのに対し、オヤジさんは仁と和によって、店で働く女たちを取りまとめている。
……まあオヤジさんは少し気が弱いので、かしましい娼婦たちの尻に敷かれている向きもなくはないが。
だが、殴ったり蹴ったりされて、無理矢理言うことをきかされるよりはずっといい。
店の、そんな平和な雰囲気を守りたくて、キャシディーはオヤジさんの言いつけや要望をなるべく聞くようにしてきた。
「持ちつ、持たれつ」の精神だ。
だが今日だけは、首を縦に振るわけにはいかなかった。
「オヤジさん。あたし、オヤジさんのお願い、かなり聞いてるほうだと思うんだけど」
事実そのとおりなので、ぴしゃりと言い返されてしまうと、オヤジさんはぐうの音も出ない。
「でもな、ほら、アーレンス様はどうしてもおまえさんをと、強くご希望なんだよ。チップだって、いつもはずんでくださるじゃないか」
「そんなこと、どうでもいいわ。それとも、娼婦の希望を尊重してくれる『カーク・カッツェ』は、もう閉店しちゃったのかしら」
取りつく島もない、親子ほど歳の離れた娼婦を前に、オヤジさんはハアとため息を吐いた。
オヤジさんのおねだりはつまり、「とある客の指名に答えて欲しい」ということだ。
「まったく、アーレンス様のどこがそんなに嫌なんだね。若いし金持ちだし、イケメンじゃないか。なんかいい匂いがするしぃ。うちの女の子たちにも、大人気だっていうのに」
「だったら、違う子に譲るわよ。あたしは全然構わないわ」
「そういうわけにもいかないって、知ってるだろうに。もう」
オヤジさんはぶつぶつと愚痴をこぼしながら、部屋を出て行った。
背中の丸まった後ろ姿が見えなくなると、キャシディーは腰掛けていたベッドに、コロッと寝転んだ。
わがままを言うのはあまり慣れていなくて、やはり気が引ける。
だが、これだけは譲れない。きっぱり決然と断るしかないのだ。
「アーレンス」というのは苗字だそうで。名前も聞いたことがあったが、忘れてしまった。キャシディーにいたく執心している、金持ちの客の家名である。
アーレンスはオヤジさんの言うとおりまだ若く、確かになかなかの美形だった。娼婦にも乱暴な真似は一切しない。彼もまた紳士と言っていい。
だから最初のうちはキャシディーも、良い殿方がお得意様になってくれたと喜んでいたのだが――。
なぜかそのうち、違和感を覚えるようになってしまった。
最初は小さかったそれは、どんどん大きくなり――。
――そう。私はあの目をどこかで見た……。
遠くなり、曖昧に薄れた記憶の中の、誰かと同じ――。
それがきっかけでキャシディーは、今やアーレンスのその姿が視界に入るだけで、嫌悪感を抱くようになってしまったのだ。
――まったく、待ち人は来ず、招かれざる客ばかり。
イライラと、キャシディーが自分の黒い巻き毛で手遊びしていると、ドアがノックされた。次いでオヤジさんが、ひょいと現れる。
「もう! やだって言ってるじゃない!」
ガバッと起き上がったキャシディーが野良犬のように吠えかかると、オヤジさんは慌てて首を振った。
「違う違う、アーレンス様じゃない! けど、おまえさんに客だ」
「……もしかして、アロイスさん?」
「いや、そっちでもない」
キャシディーはがっかりと頭を垂れた。
だが。
「『黄金ウサギ』のフロレンツィアさんだよ」
「!」
オヤジさんの言葉で我に返って、しゃんと背筋を伸ばす。大物の訪問に、ぼけっとしているわけにはいかなかった。
キャシディーのいる「カーク・カッツェ」が庶民の通う娼館であるのに対し、「黄金ウサギ」はゴージャスな金持ち向けの娼館である。例えば花代は、「カーク・カッツェ」の軽く三倍。最高級の嬢などは、十倍にまで至る。
本日訪ねてきてくれた「フロレンツィア」というのは、「黄金ウサギ」で一番人気の高級娼婦だ。キャシディーにとって大恩ある人物で、また茶飲み友達でもあった。
「いらっしゃい、姐さん」
「おはよう、キャシディーちゃん。元気だった?」
例え夜だろうが、娼婦たちが交わす挨拶は「おはよう」だ。
シンプルなデザイン故に、生地と仕立ての良さが際立つスーツを着こなし、耳たぶや首元には豪華なアクセサリーが光る。
その身を飾る衣装や付属品に全く引けを取らない彼女、フロレンツィアは輝くほどに美しい。
だが残念というべきか、彼女は一目見ただけで、ただの貴婦人ではないと分かってしまう。
明らかに空気が違うのだ。
その溢れ出るフェロモンときたら、同性であるキャシディーでさえドキドキと胸が騒ぐ。これが男だったら、ひとたまりもないだろう。
――本当に姐さんは変わらないな……。
二人の出会いは十年も前のことだったが、フロレンツィアは今と同じ、いやむしろますます美貌に磨きをかけて、裏町に君臨し続けている。
そんな女王様につい見惚れて、ハッと我に返ったキャシディーは、慌ててお茶の支度を始めた。
「あん、どうぞお構いなくう」
「あたしのお得意さんは、開店直後の時間帯にあまり来てくれないの。だから今、暇なのよ。良かったら、ゆっくりしていってくださいな」
それを聞いたフロレンツィアは、屈託なく笑った。
「うふふ。実はそれを狙って来ちゃったのー。せっかくのお休みなんだし、キャシディーちゃんの淹れてくれる美味しいお茶が飲みたかったのよねえ」
相変わらず遠慮がない。キャシディーも釣られて笑った。
フロレンツィアはかなり年上のはずだったが、子供のように無邪気だ。しかし厳しいところもある。そこがまた、彼女の魅力なのだが。
実はフロレンツィアは、右も左も分からなかったキャシディーを、「カーク・カッツェ」に紹介してくれた恩人だ。
元々世話好きらしく、だからキャシディーを見詰める目は優しい。
「ああ、この蜂蜜入りの紅茶! 自分で入れると、同じ味にならないのよねえ」
カップを手に取り、一口中身を飲むと、目を細め、ほうっとため息を吐く。しばらくお茶を堪能してから、フロレンツィアはソーサーにカップを置いた。
ガチャリと陶器同士が擦れる音が、やけに重たく聞こえた。
「……今日はね、ちょっと聞きたいことがあって。キャシディーちゃんのとこに通ってる、わんこちゃんのことなんだけど」
「わんこ?」
「ほら、でっかくて、黒い……。」
「あ……」
それだけのヒントで、キャシディーはすぐアロイスに思い至った。
二メートル近い身長と、黒いマスクをかぶった男。
確かに「でっかくて、黒い」。だが「わんこ」……。そうだろうか?
「実はあの人、一昨日うちの店に来たの。それで私を指名してくれて」
「……!」
フロレンツィアの話を聞いた途端、キャシディーの胸は針で刺されたように痛んだ。
実はアロイスはここ一ヶ月ほど、「カーク・カッツェ」に現れていない。
金が続かなくなったのか、もしくは飽きたのか。よくあることだ。
だが、原因として思い当たることがもうひとつあり、キャシディーはそれが気がかりだった。
――「あんなこと」を言わなければ、良かったのだろうか、と。
その予感が、フロレンツィアからもたらされた事実によって、確信に変わる。
「あ、まだわんこちゃんとは寝てないわよ。ほら、ご存知のとおり、うち、初回は顔見せのみっていう決まりだから」
「黄金ウサギ」は、行けばすぐセックスができるという類の店ではない。
お目当ての娼婦と面談の機会を持ち、行為に及べるのは次回、場合によっては次々回以降。娼婦に気に入られなければ永遠に関係を結べないという、客の根気が試される場所なのである。
圧倒的な売り手市場なのだが、そこが金持ちの紳士たちに好評で、大繁盛だとか。
なんでも、気位の高い女を、徐々に自分のものにしていく感覚がたまらないのだそうだ。
「これから先も、あのわんこちゃんがうちに通ってくるか分からないけど。でもお話ししてみたら、なかなかセクシーな殿方じゃない? ちょっと変わった外見をしてるけどね。だから、キャシディーちゃんの気持ちを確かめておこうと思って。あなたが構わないなら、私、彼のこといただいちゃおうかなーって」
フロレンツィアは持ち味の、目尻が少し垂れた目で、キャシディーをじっと見詰めた。
これが彼女流の仁義の通し方なのだろう。そしてそれは正しい。
娼婦と娼婦で客を奪い合うことを、一般の男女間で起こる諍いごとのように「寝取った、寝取らない」などと騒ぐのは滑稽なことかもしれない。
だが、娼婦たちだって人間である。
客とはいえ、関係を持った男性が、他の女に奪われるのは面白くないものだ。
だからせめてそこに至る前に話を通しておけば、娼婦たちの摩擦もいくらか軽減されるだろう。
「…………」
キャシディーは大きく息を吸ってから、正面に座る美しい女性の、青い瞳を見詰め返した。
「……いいのよ、姐さん。あたしのことは気にしないで。アロイスさんのお望みどおりにしてあげて」
なるべく私情を排除して答えたつもりだったが、直後持ったカップの琥珀色の表面は、波立っていた。――手が震えている。
フロレンツィアは微笑んだ。
「あなたの気持ちはよく分かったわ。――わんこちゃんをもらうのは、やめておくわね」
「え……!?」
戸惑い、何か言おうとするキャシディーを制するように、フロレンツィアはつけ足した。
「それにね、多分あのわんこちゃんは、もう来ないような気がするわ。なんだかとてもシャイだったしね」
フロレンツィアはうふふと、思い出し笑いをした。
――確かに、自分のところへ最初来たときのあの人も、大きい図体の割にビクビクしていて、おかしかった……。
キャシディーもまた苦笑いを浮かべた。
「私ね、今でもあなたが娼婦になるのを止めなかったこと、後悔しているの……」
ひとしきり笑ったあと、フロレンツィアは寂しそうに睫毛を伏せた。
「そんなこと……! 望んだのはあたしなんだから、姐さんが気にすることないわ! いいお店を紹介してもらって、ずっと感謝してるのよ!」
「……………」
キャシディーがフォローするが、フロレンツィアはそれには答えず、カップを手に取った。
「あのわんこちゃんはこういうことに慣れていないようだから、相手をするのは大変ね。キャシディーちゃん」
「え……?」
「きっとあなたも、この仕事をしていることに苦しむわ。だから私は……後悔しているのよ」
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