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5.教えて、偉い人

8(完)

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「はー、ただいまー」

 自宅に着くと、景はカバンからティンカー・ベルを取り出し、クッションの上に座らせてやった。
 ぬいぐるみの表情というものはよく分からないが、ティンカー・ベルはいつも帰りに「あれを買え、これを買え」とうるさいのに、今日は無口だったのが気になる。なにか気に食わないことでも、あったのだろうか。

「いやー、でもとりあえず、なにもなくて良かった~!」

 瓜生は劇薬を渡してくるような人物である。セミナーの最後、景はなんらかの騒動が起きるのではないかと、危惧していたのだ。しかし拍子抜けするくらい、なにごともなく帰ってくることができた。

「……………………」

 青いコグマの姿のティンカー・ベルはぐぐっと首を回して、なにか言いたげというか、責めるような目で景を睨んだ。

「な、なに?」
「……………………」

 次の瞬間、ティンカー・ベルの体は煙に包まれ、人型に戻った。
 久しぶりに、悪魔である彼の本当の姿を見た気がする。

 ――やっぱ、かっこいいな……。

 図らずもときめいていると、ティンカー・ベルは険しく眉根を寄せながら、ずいずいと景に向かってきた。

「え、な、なに……?」

 なにを怒っているのかは知らないが、ティンカー・ベルのあまりの迫力に、景は後ずさった。狭い部屋の中での話だから、すぐ背中に壁がつく。

「お前という奴は、本当に危なっかしい」

 追い詰めた景にぐっと顔を近づけ、悪魔は呆れたように口を開いた。

「瓜生さんのこと? だ、だって、世間的には有名で、評判もいい人だったんだよ? そんな人が、まさか」
「お前は他人を信じ過ぎる。もう少しで、生贄にされるところだったんだぞ」
「い、いけにえ!?」

 ティンカー・ベルは噛みつくように、景に口づけた。
 景は動けない。――頭の芯が、ぼうっと歪んだ。

「だいたいお前は、あの女になにを習いに行ったのだ? 婚活無双だと? お前の相手は、お前に幸せを与える役目を引き受けた、この我が探してやるというのに」

 悪魔の手は景の胸に降り、そこを揉みしだいている。

「だって……!」

 薄い布地のシャツの上から、乳房の頂きを引っ掻かれ、景は唇を噛んだ。久しぶりの快感に溺れそうになるが、ティンカー・ベルの発言に怒りを覚え、踏みとどまる。
 そもそも自分が、男性と交際するためのテクニックを学ぼうとしているのは、ティンカー・ベルのためなのに。
 自分たちの結んだ契約が、なんとかうまく成立するよう、努力しているのに。
 この優しい悪魔に、迷惑をかけたくない一心だったのに。
 なのに、なのに。

 ――ティンカー・ベルが、私の気持ちを受け止めてくれれば、苦労しなくて済むのに。

『お前の想いに応えることはできない……』

 ――あなたが、そう言ったから。だから……。

 景はぎゅっと目を瞑った。
 なんて自分勝手なことを思ってしまうのだろう。悪魔の心が自分に向かなくても、それは彼の勝手なのに。
 そもそも自分には、ティンカー・ベルを惹きつける魅力なんて、ないのに。

 ――こんなに身の程知らずでわがままだから、誰からも好かれないんだよ……。

 俯いて、黙り込んでしまった景に焦れて、ティンカー・ベルは彼女を陵辱する手に力を込めた。シャツとブラジャーを捲り上げると、裸の胸を握り、持ち上げ、乳首をつねる。

「んっ……」

 強い愛撫に、景は感じているのか抗議しているのか分からないような声を漏らす。しかしティンカー・ベルは構わず、立ったまま壁に寄りかかっている景の、ワイドパンツと下着を一度に下ろした。

「あっ、や……!」

 陰毛を掻き分け、その奥へ入り込もうとする手を、景はなんとか押し止めようとする。が、悪魔は容赦しない。邪魔をする景の知性をボロボロに砕かんと、ねっとりとしつこい口づけを施す。思う存分、舌で口内を蹂躙し、代わりに彼女の舌を吸い出して啜り、甘く噛んだ。

「あ……ふぅ……」

 景の瞳がとろけるように潤んできた。そこでまた唇を重ね、互いの唾液を飲み、与える。

「あ……。ティンカー・ベル……」

 ティンカー・ベルは、とうとう力が抜けてしまった景の下半身の、熱の集まる箇所に指を伸ばし、溝に沿って動かした。ぬめり気を感じると、その水音を響かせるように、わざと大きく擦る。

「やっ、ん……!」

 口では嫌だと言うが、景は悪魔からの刺激を受け入れている。
 久しぶりに触れる柔らかな肢体を堪能しながら、だがティンカー・ベルの頭は冷えたままだ。悪友の言葉を思い出す。

『ほかに丁度いい人間の男が現れたら、ホイホイそっちに乗り換えるだろうさ。女なんて、薄情な生きもんだからな』

 そう、結局はそういうことだったのだ。
 悪魔を愛したなんて、一時の気の迷い。

 ――我がいなくても、この女は勝手に幸せになれるのだろうな。

 その結論に至ったとき、ドス黒いなにかが、腹の底から湧き上がってくる。それはまさに「悪魔らしい」感情だった。

 閉じ込めてしまいたい。
 自分だけのものにしてしまいたい。

 この女を不幸にして、なにが悪い。
 堕としてしまって、なにが悪い。

 例えそこが地獄でも、二人で共にいられるならば――。

「セミナーなんぞに行かずとも、我が教えてやろう。男を悦ばす方法なんて、簡単なものだ」

 ティンカー・ベルは景の腕を、自らの股間に引き寄せた。

「あっ……!」

 すっかり怒張している悪魔の陰茎に、スーツの上から触れた景は、驚き、手を引っ込めようとする。が、ティンカー・ベルは許さなかった。

「こうやって、上へ下へ撫でろ」

 ティンカー・ベルは景の手を掴み、硬く膨らんだその形のまま、しごかせた。

「こ、こう……?」

 景は顔を赤くしながらも、ティンカー・ベルの言いなりになった。

「そうだ。お前には素質があるようだな」

 景の手つきが慣れてくると、ティンカー・ベルは嘲るように笑いながらズボンの前を肌蹴けさせ、巨大な肉棒を晒した。

「わっ……」

 景の目は、ティンカー・ベルの立派なそれに釘付けになった。
 思えば彼女が見たことのある男性の性器は、初恋の男のもののみだった。比べるものではないと思うが、彼とティンカー・ベルのそれは比較にならない。
 大きさも、重量感も、色も、艶も……。

 ――わあああああ……! 私、なんてこと考えてるの! いやらしい!

 しかし今握っているイチモツは、愛しいティンカー・ベルのものなのだ。はしたないと思うが、景は彼のそれを見て、撫でて、どんどん興奮してしまう。

「ん……」

 ティンカー・ベルの唇から、乱れた息が漏れる。彼の熱い吐息が肌に当たると、それだけで景はぞくぞくしてしまった。
 ティンカー・ベルもまた、景の性器を探っている。二人はお互いの性器を慰め合った。

「あっ、あん……!」

 濡れそぼった膣の中に、ティンカー・ベルの指が潜り込み、肉壁をさすっている。同時に、膨らんだ陰核もいじられて、どうにかなりそうだった。

 ――本当は、ティンカー・ベルのこれで、貫いて欲しいのに……。

 しかしすんでのところで、悪魔は正気に戻ってしまった。
 契約は守らねば。
 だから、この女を抱いてはいけない。
 取り返しのつかないことになる。――離れられなくなる。

「このまま、出していいか?」
「う、うん……!」

 景はこくこくと頷いた。

「汚れるぞ」

 ティンカー・ベルは苦笑しながら念を押すが、景は悪魔のペニスをますます強くしごいた。

「いい。出して……。ティンカー・ベルのなら、汚くないもん……」
「……………………」

 景の答えを聞くと、ティンカー・ベルは自らゆるやかに腰を振り始めた。と同時に、景の陰核を押し潰す。

「ひ、あ、ダメ、それぇ……っ!」

 たまらず、景は先に上り詰めてしまった。中に埋めたままの指が、びくびくと不規則な痙攣で締めつけられるのを感じながら、ティンカー・ベルは緊張を解いた。次の瞬間、白濁した液体が、景の太ももに迸る。

「あ……」

 青臭い匂いを放つ、ぬめった精液を、景は広げるように撫で擦った。
 ティンカー・ベルの欲望の証。性行為に至っても、いつもはどこか冷めている彼が、初めて吐き出したそれ――。

「上手だったぞ、景」

 景の耳元で囁きながら、ティンカー・ベルは未だとどめていた指で、彼女の中をぐるりとかき回した。

「……っ!」

 景は再び達してしまった。

「今はまだ、お前は我のものだ……」

 脱力した景の体を、悪魔は満足気に抱き支えた。




 こうして表向きは、景とティンカー・ベルの仲は、もとに戻った。
 それから数日後のことだ。
 ある一人の女性が、景の職場であるカフェ「ファウスト」の自動ドアをくぐった。

「いらっしゃいませ」

 初めてのお客様のようだ。カウンターに立っている景は、あまりじろじろ見てはいけないだろうと、なんとなく目を逸らした。しかし客のほうから、話しかけてくる。

「やっほー、大蔵田さん。来ちゃったよ~」
「え?」

 改めて客の顔を確かめれば、「目指せ! 婚活無双」で一緒だった団三さんではないか。
 しかし景が一目で気づかなかったのも、無理はなかった。なぜなら団三の風貌は、がらりと変わっていたからだ。
 ぽっちゃりした体型はそのままだったが、彼女はいわゆるギャルへと転身していた。派手な服装をして、化粧も濃い。しかし申し訳ないが、似合っているとは言い難かった。とりあえず流行を追っているだけというか、浮いた感じなのだ。
 だが、ティンカー・ベルがいなければ、自分だってそんな風になっていたかもしれない。だから景は、彼女を笑う気にはならなかった。

「いいお店だね~」

 きょろきょろと辺りを見回し、団三は「ファウスト」を褒めた。

「あは、ありがとう。えーと、ご注文は? なににします?」
「あ、カフェラテをください。アイスで。持ち帰り用の容器に淹れてくれる? 袋はいいので」

 客が少ないこともあって、そのまま二人は会話を交わした。

「セミナーが終わってからまだちょっとしか経ってないけど、なつかしいね。あれから誰かと会ったりした? 稲荷さんとか」
「あー、そういえば稲荷さんて、失踪したみたいだよ」
「え!?」

 二人の仲がまだ険悪になっていない頃、団三と稲荷はメールアドレスを交換したという。それからセミナー終了後、稲荷のご両親からメールが届いたのだそうだ。ご両親は、なんでも稲荷が自宅に残しておいたアドレス帳のバックアップを調べて、そこにあった人たち全てにメールを送っているらしい。団三が受け取った彼らからのメールには、「娘が行方不明になりました。なにかご存知の方は、どうかお知らせください」と書かれていたそうだ。

「心配だね……」

 気遣わしげな景とは真逆に、団三はケロッとしている。

「そう? 私、あの人、大っ嫌いだったから、どうでもいいわ。全方位にケンカ売ってるような人だったし、ほうぼうから恨みを買ってるんじゃない? 今頃どっかの海に沈められてたりして」
「……………………」

 いくら好きじゃない相手だとしても、そういう縁起でもないことを言ってしまうのはどうなのだろう……。
 ドン引きした景は、わざとらしく話題を変えた。

「えーと……。団三さん、セミナーの効果は出た? 好きな人いるって聞いたけど。あはは」
「あー、あのときの人とはちょっとだけつき合ったんだけど、すぐ別れちゃった」
「あ、そうなんだ」

 たった数日後のことなのに、こちらも急展開である。
 団三は落ち込んでいる様子もなく、淡々と説明してくれた。

「ほら、瓜生先生が薬くれたじゃない? あれ飲ませたら、トントン拍子に上手くいって」
「……!」

 団三はあの怪しい薬を男に飲ませたのか。景は思わず体を固くした。

「でもね、そのあと、彼ったら体を悪くして、入院しちゃったの。それが結構重態で。これから先、長くつき合ってくの大変そうでさ。だから、まあ、さよなら~って感じで。今は違う人とつき合ってるよ」
「……………………」

 やはり瓜生のくれた薬は危険なものだったのだ。
 そして団三は――つまり病気の彼を、見捨てたということか。

 ――団三さんが悪いってわけじゃないだろうけど、なんか、なんか……。

 景はなんだかやるせない気持ちになった。

「じゃあ、またね」
「うん……」 

 景がカフェラテを作って渡すと、団三は席についた。その数分後、男が団三を迎えに来た。今彼だろう。

「待った?」
「ううん、大丈夫~」

 団三は飲みかけのカフェラテを持ち、男と店を出ていった。
 去り際、景に手を振った彼女が、得意げな顔をしていたのは見間違いではないだろう。
 団三は華やかに変身した自分を、景に見せたかったのだ。

 世の中には、男を知った途端、豹変する女がいる。
 団三は、まさにそういったタイプだったわけだ。

 ――でも私は、ゲームや漫画のことを熱く語る団三さんのほうが、好きだったけどな……。

 モヤモヤした想いを抱えたまま、景は客席に向かうと、団三のいた席をダスターで拭いた。
 あのときトイレで盛んに手を洗っていた瓜生の気持ちが、ほんの、ほんの少しだけ、分かった気がした。



 ~ 終 ~
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