その女、悪魔憑きにつき

犬噛 クロ

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4.私を食べて

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『土産があるから、食事はさほど用意しなくていい』

 ティンカー・ベルは今朝、そう言い残していった。

「最近、ボリュームのあるものばっかり作ってたからな~。ちょっとでいいって言われると、かえって難しい……」

 自宅の台所で腕を組み、景はうーんと唸った。
 夕飯になにを作ろう。冷凍してあった鶏肉があるから、照り焼きにしようか。あとは野菜を茹でて、特製の明太子バタークリームソースを添えるのはどうだろう。

「ご飯炊かなくていいのかな。まあ足りなかったら、お蕎麦でも茹でればいっか」

 鼻歌交じりに下準備を終えた頃には、陽がだいぶ傾いていた。洗濯ものを取り込まなくては。
 景が住んでいるのは、この辺りではかなり家賃の安いボロアパートだ。当然そのような住まいにはベランダなどという贅沢なものはなく、だから洗濯した衣類は軒下に工夫してぶら下げてある。
 今日はよく晴れたので、干しておいたものはすっかり乾いたようだ。それらをせっせと畳みながら、景は置き時計を気にしていた。
 時刻はまだ十六時を回ったところだ。ティンカー・ベルは何時に来るのだろう?
 あの悪魔のことを考えると、景の胸はいつもドキドキと高鳴る。
 ティンカー・ベルへの気持ち。友達として好きなのか、それとも異性として好きなのか。
 彼に特別な感情を抱いているのは確かだが、それは肉体関係を結ぶ一歩手前まで済ましてしまった故の錯覚なのか、それとも本当に恋をしているのか――。
 分からない。分からないのだ。だから「幸せになる」という願いごとを叶えるのに、今ひとつ積極的になれない。

 ――ティンカー・ベルに好きになってもらうのが、私にとっての幸せなのかもしれないんだもの……。

 勇気を出して言ってみようか。
 私はもしかしたら、あなたのことが好きかもしれません、と。




 その夜ティンカー・ベルは、景の部屋に、たくさんの荷物を抱えて現れた。
 まずは日本酒。名酒の誉れ高い、『獺祭』である。
 そのほか携えていたのは、いうなれば高級珍味セットだろうか。からすみに鰹の酒盗といった海のものや、わさびや七味を練り込んだ大人向けのチーズ、ベーコン、ササミ、ゆで玉子の燻製など。そのほかにも、呑んべえにはたまらない逸品が揃っていた。

「うわあああ……! からすみ! 一度食べてみたかったんだ~!」

 景はうきうきと台所の食器棚から、徳利とぐい呑みを取り出した。ガラス製の美しいそれらは、小物屋で見かけて一目で気に入り、買ったものの、今まで使う機会がなく、棚の奥にずっとしまい込んでいたものだ。

「どうぞ、座って座って」

 自作の料理に追加して、悪魔のお土産も皿に盛る。それからティンカー・ベルの前には青、自分の前には緑のぐい呑みを置いた。
 景がきびきび働いている隙に、ティンカー・ベルは卓上の徳利に触れた。

「ん? どうしたの?」
「いや……。酒を移しただけだ。随分と洒落た徳利だな」
「うん、へへへ。素敵でしょー」

 徳利もぐい呑みも色鮮やかだ。底から斜め上にかけてアシンメトリーの水玉模様が描かれており、可愛らしくも爽やかな佇まいに仕上がっている。
 お気に入りの器にやっと出番がきた。しかもティンカー・ベルと一緒のときに使えるなんて、嬉しい。景の顔には笑みが広がった。

「さ、飲むがいい、食うがいい」
「うん! 初めて食べるものばっかりだよ」

 ぐい呑みに口をつけ、景は美酒を味わう。口当たりが良く、飲みやすかった。

「『ファウスト』ね、今のお店ができる前って、居酒屋だったんだよ。焼き鳥屋さん。最初はそこでバイトしてたんだけど、メニューにからすみってあってね。すごく高いじゃない? 食べてみたいなあって、ずーっと思ってたの」

 小さく切り分けたからすみを恐る恐る口に含んだあと、景は叫んだ。

「美味しい! これは美味しい! さすが! 癖になる!」
「そうか、良かったな」

 ティンカー・ベルはといえば、自分の持ち込んだ高級品には目もくれず、景の作った料理ばかりもりもり食べている。

「でも、どうしたの? 急にお酒なんて」
「なに、今日の報酬が偶然、酒とツマミだったのでな。お前がいける口だったのを思い出したのだ」
「ああ、飯島くんのときのこと? そんなに強いわけじゃないんだけど……。でもお酒を飲むことってあんまりないから、嬉しいよ。ありがとう」
「――それにリラックスしたほうが、効きがいい」
「え?」
「なんでもない」

 悪魔と景はゆっくり酒を酌み交わしながら、雑談を楽しんだ。

「この照り焼き、美味いな。鶏といえば、そういえば我も、素晴らしい鶏を育てている農園を見つけてな。今日の仕事は、それを人に紹介することだったのだ。新しく店を作るのに、目玉を探しているとかでな」
「そんなことしてるの? 仲介!? 悪魔が!? あっ、でも、『鶏肉の悪魔風』(ディアボラチキン)っていう料理があるから、悪魔とチキンは縁があるのかも?」
「いや、それは関係ない。が、なんだ、『鶏肉の悪魔風』だと? どんな食べものだ。今度作ってくれ」

 オチがあるわけでもなく、面白いともいえない、ダラダラした会話。だが気心の知れた相手と喋っているだけで、澱のように溜まった疲れが押し流されていくようだ。

 ――今、言ってみようか。

 酔いに任せて、景はそんなことを思う。
 願いなんて、すぐに叶えてくれなくていい。ただ、側にいてくれれば。

 ――ティンカー・ベルが遊びに来てくれる。それだけで私は幸せなんだよ。

「酒盗か。確かにこれは酒が進むな」

 箸先で赤黒い小さな塊をつまみ、ティンカー・ベルはそれを口へ運んだ。

「え? あ、うん、そうだね」

 出鼻をくじかれた景は、慌てて相槌を打った。

「こういった臭みの強いものを食べていると、あのときのことを思い出す」

 ティンカー・ベルが持ってきてくれた酒盗とは、魚の内臓を塩漬けし、発酵させたものだ。味が濃く美味だが、独特の匂いがする。

 ――なんだろう。部屋の温度が、急に下がった気がする。

 酒のせいだろうか。いや、だが普通は、酔えば熱くなるものではないだろうか。

「あのときって?」

 両腕を擦りながら景が先を促すと、ティンカー・ベルはクスクスと、彼にしては珍しく楽しそうに笑った。

「少女を、食べたときのことだ」
「……え?」

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