その女、悪魔憑きにつき

犬噛 クロ

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4.私を食べて

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 潮風に頬を舐められながら、悪魔ティンカー・ベルはおにぎりにかじりついた。
 今、彼は、景の自宅から数十キロ離れた、とある港に来ている。
 景に持たされたおにぎりの具は、ちりめんおかか、鮭、明太子チーズの三種類で、どれも美味だった。
 既に太陽は真上にいる。立ったまま昼食を摂っているこの時間までに、ティンカー・ベルは仕事をもう二つもこなしてきた。
 次の約束の時間まで五分もない。米粒ひとつ残さずおにぎりを食べてしまうと、やることもなくなって、ティンカー・ベルはぼんやりと海を眺めた。ただし目に入るのは、波でもなくカモメでもない。浮島だ。
 視界のほぼ全てを埋める広大なその上には、数基の製油プラントがそびえ立つ。配管が剥き出しの無骨な造りだが、むしろそこが良い味になっている。夜間、ここいら一帯が点灯された様は非常に幻想的で、見学ツアーが組まれるほどだとか。
 これもまた人類の叡智の結晶。自分たちの想像がつかぬ理論と方法で、不思議で便利なものを作り上げる人間に、ティンカー・ベルは畏敬の念を抱いている。
 磯の匂いを嗅ぎながら、ティンカー・ベルはつい先ほどのことを思い出した。
 景の家を出てから、最初に立ち寄った喫茶店でのことだ。待ち合わせの場所に、「彼」はもう来ていた。
「彼」はキリマンジャロを、ティンカー・ベルはマンデリンを頼んだ。――頼んだものの、ティンカー・ベルにはコーヒーの味の違いは分からなかった。人間はこれが分かるのだから、凄いものだと感心する。

「まさかあんなところで会うなんて、思わなかった」

 よく通る声で、待ち合わせ相手の男は言った。
 店員に運ばれてきた白いカップに、コーヒーの濃い黒がよく映えている。この美しい漆黒を、ミルクなど入れて濁らせるのは、勿体なく思えた。

「それは我の台詞だ。音沙汰がないと思っていたら、あんなところにいたとは」

 綺麗なものは綺麗なまま飲みたかったが、なにか入れなくては苦くて、とても飲めたものじゃない。渋々ティンカー・ベルは砂糖をスプーン山盛りに、用意されたミルクも全部放り込んで、コーヒーを飲んだ。対して男はすました顔をして、ブラックのまま飲んでいる。そんなところからも、彼がすっかり人間界に馴染んでいることがよく分かった。

「悪魔は休業中か」
「そう。今は人間にサラリーをお恵みいただく立場だよ。税金も収めてるし、社会保険各種にも加入しているし」

 自虐的に笑う男に、ティンカー・ベルはズバリと切り込んだ。

「お前がそうやって人間界に留まっているのは、大蔵田 景のためか」
「……………………」
「ということは、あの娘は、やはり――」

 男は答えず、微笑むだけだ。否定しないということは、ティンカー・ベルの予想どおりということだろう。

「あの子は俺の娘だよ。――俺はそう思ってる。だからティンカー・ベル、あの子を絶対に不幸にしてくれるな」
「問題ない。我はあの娘を幸せにするために、働いているのだからな」
「……………………」

 男は懐疑的な目で、ティンカー・ベルを見据えた。
 まあ確かに、悪魔が人を幸せにすると請け合うなんて、笑い話のようではあるが。

「本当に分かってんのかねえ……」

 男はシガレットケースを取り出すと、長い指でタバコをつまみ、火を点けた。

「分かっているとも。我ら悪魔と親しくなればなるほど、人間は不幸になる。――確かに我と大蔵田 景は慣れ合い過ぎた。だからこそ今夜、契約を仕切り直そうと思う」
「仕切り直す、ねえ……」

 男はため息と共に、メンソールの匂いのする細い煙を吐き出した。




「人間と眠ったのは、初めてだな……」

 相変わらず強い潮風に吹かれながら、ティンカー・ベルは今朝方の布団の温もりに思いを馳せた。ホカホカと温かくて、いい匂いがして――。
 やがて足音が近づいてくる。振り返れば、中年の男が、こちらに向かって歩いてくるところだった。
 男はトレンチコートを羽織り、サングラスをかけていた。頭は丸々剃っており、ずんぐりと分厚い体をしている。手にはアタッシュケースを提げており、どこからどう見ても「危険な取引に赴いた、そのスジの人」といった風情だ。この男が町を歩いたら、十人が十人とも避けるだろう。もしかしたら見た目だけで通報されるかもしれない。
 そして男の額には、悪魔と悪魔に連なる者にしか見えない、不思議な模様が刻まれていた。
 縦長の円と、その上に引かれた短い五つの線。ティンカー・ベルとの契約の印である。

「時間どおりだな」
「――約束のものは?」

 男は挨拶もせず、強い口調で尋ねた。
 ティンカー・ベルは一枚のメモを、男に差し出した。

「向こうには話を通してある。なるべく早く連絡することだな」

 男はサングラスを眉のあたりまで持ち上げ、メモを確認した。黒いレンズの下から現れた彼の目は、意外にもつぶらで可愛らしかった。

「品質に間違いはねえんだろうな?」
「極上品だ」
「まあ、前に紹介してもらった分も、確かだったからな……」
「では、こちらの番だ。報酬をいただこうか」

 男は地面にアタッシュケースを置き、開けた。その中から取り出したのは、瓶。いわゆる一升瓶である。

「お任せっちゅーことだったからな、俺の好みで選んだぞ。『獺祭』。最近人気だが、やっぱりうめえ」

 男はサングラスを外して畳むと、コートの胸ポケットにしまった。

「だいたい、なんなんだよ!? わざわざこんな格好で来いって、なんか意味あったのか!? しかも埠頭なんて、辺鄙なところに呼び出しやがって! 来るのが大変だったじゃねーか!」

 一息に文句を吐き出す男に対し、ティンカー・ベルはしれっと答えた。

「いや、単に似合うだろーなーと思ったのだ」
「俺はカタギだ! ヤクザでもマフィアでもねえ!」

 男はいきり立つが、ティンカー・ベルは男の怒りなどどこ吹く風で、スーツのポケットから出した風呂敷で、日本酒の瓶をテキパキと包み出した。

「落とすと大変だからな」
「お、おう。まあ、そうだな……」

 風呂敷で作った持ち手を掴み、具合を確かめているティンカー・ベルを前にして、男は戸惑っている。この悪魔のマイペースさに、調子を狂わされない人間はいないのだ。

「それでは、さらばだ。――またのご利用をお待ちしてオリマス」

 棒読みの挨拶を残し、ティンカー・ベルは背中の羽を広げた。

「あ……!」

 空に飛び立ち、あっという間に去っていく悪魔を、男は呆然と見送った。額が疼くので触れれば、あの不気味な印がなくなっている。契約が成立した証だろう。

「本当にああいうのがいるなんてなあ……。何度見ても驚くぜ……!」

 そして男は手元のメモに視線を戻した。

「悪魔様の紹介だからな。きっと本物だろうよ」

 携帯電話を取り出すと、男は早速メモに書かれていた番号をコールした。




 この日ティンカー・ベルは複数の契約者に会い、それぞれの仕事を完遂した。こうして悪魔は、多くの報酬を得たのだった。




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