その女、悪魔憑きにつき

犬噛 クロ

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3.夢で逢えたら

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 空は青く、雲ひとつない快晴だった。スタートを切るには、いい日和だろう。
 新春のとある月曜日。今日は大蔵田 景がオーナーとなったカフェの開店日である。
 店の外観は黒を基調とした、アーバンなスタイルに整えてもらった。カフェとしての営業が軌道に乗ったら、夜はアルコールの提供もしていきたいので、大人っぽくまとめたのだ。中は広さに余裕がないこともあって、インテリアも最低限しか配置していない。ごちゃごちゃと物を置かず、清潔感と動きやすさを重視した作りになっている。
 太陽の下で勇壮にそびえ立つ、我が城――とはいえ、せいぜい十坪の、客席は十二席しかないささやかな店だったが、景は周辺をぐるっと回ると、満足そうに頷いた。

「うん、完璧!」

 駅から徒歩三分と立地条件も悪くない。ドリンクや料理を作る腕にも自信がある。
 唯一欠けているのは経験だったが、オーナーになるための勉強もしたし、従業員としてなら長年カフェに勤めていたこともあるので、ある程度のノウハウは身につけているつもりだ。
 開店資金は貯金と、あとは銀行から融資を受けた。
 借金を背負ってしまったことは不安といえば不安だが、お金を貸してもらえたということはつまり、景のこれからの仕事は信用に値すると太鼓判を押してもらったことになる。その期待に応えるべく、頑張らねば。やってやれないことはないだろう。
 時刻は十時となった。スタッフの集合時間である。
 厨房は基本、景が一人で回し、もう一人に客への対応をお願いする予定だ。接客スタッフの勤務形態はシフト制で、既に二人を採用済みである。
 時間より少し早く、スタッフのうち一名は出勤してくれていた。

「おはようございます!」

 景とスタッフは、元気良く挨拶を交わす。

「いい天気で良かったです。お客さん、たくさん来てくれるといいですね!」

 スタッフの一人目は、ハキハキと活発な聖だった。カフェ「ファウスト」の元同僚で、仕事が早く正確なところに惚れ込み、お願いしてこの店に来てもらったのだ。
 気心の知れた仲間と、明るく楽しく仕事をしていきたい。そんな生ぬるい目標を景が立てたところで、店のドアが開いた。

「おはよーございまーす。あ、ちょっと遅れちゃって、すみませーん」

 スマートフォンを操作しながら入ってきたのは、姫名である。

「姫名ちゃん……?」

 カフェ「ファウスト」の問題児。どうして彼女が来るのだろう。状況が理解できない。

「景さん、人が良すぎるよ。姫名なんか雇うなんて……」

 苦虫を噛み潰したような顔をして、聖がぼやく。その瞬間、景は思い出した。
 そういえば、そうだった。
 景がカフェを開くと聞きつけた姫名が「新しく綺麗な店に移りたい」と駄々をこね、強引に押し切られる形で採用してしまったのだ……。




 初めて迎えたランチタイムでは、失敗が続いた。
 オーダーをミスする、オペレーションが遅い、お釣りを間違える、その他。ほぼ全て、姫名一人がやらかしたことだ。
 そのうえ姫名は、身だしなみについての規定も破っている。長い髪はしっかり縛る、ネイルは禁止だと伝えてあったのに、彼女はなにひとつ守っていなかった。客席ではスマホをいじり、それ以外の態度もひどいもので、客はひそひそと声を潜め、姫名への文句を口にしている。
 このままでは店の評判はガタ落ちだ。調理に忙しい合間を縫って客席の様子を見にきた景は、耐え切れず姫名を呼んだ。
 厨房に引き入れて注意するが、姫名は謝るどころか言い返してきた。

「えーでも、厳し過ぎじゃないですか? いまどきネイルなんて誰も気にしないし、女の子向けのお店だったら、店員もある程度オシャレじゃないとぉ」
「でも……」

 誰に対しても弱腰になってしまう景の悪癖は、オーナーとなった今も改善されていないらしい。争いごとを嫌うあまり、口論になりそうになると自分の意見を引っ込めてしまうのだ。
 そんな景を、聖が客を捌きつつ、ちらちらと心配そうに見ている。

 ――負けちゃダメだ……!

 ここで姫名の横暴を許しては、きっちり頑張ってくれている聖に示しがつかない。
 最初が肝心なのだ。ビシっと言わなくては。

「やる気がないなら、辞めてもらっていいんだよ」

 景にしては強気な台詞を発する。すると姫名はヒステリックに捲し立てた。

「は? なに、偉そうに! 景さんみたいな無学な人は知らないかもしれないけど、バイトをクビにするなら、一ヶ月前に言わないといけないんだから!」
「いや、そういうことじゃなくて、あの……」

 せっかく勇気を出したのに、感情的に怒鳴られて、景は怖気づいてしまった。対する姫名の勢いは止まらない。

「こっちは安い時給で働いてやってるのに、そういうこと言うんですか!? 経営者として失格ですよ! だいたい景さんがオーナーやるなんて、無茶しすぎ! できるわけないんですよ!」

 失礼なことを散々言い放ったのち、姫名はじろじろと値踏みするように辺りを見回した。

「ねえ、この店を開くお金、どうしたんですか? 景さん、貧乏ですよね?」

 銀行から借りたと答える前に、姫名は口元を歪めて笑った。

「あー、やっぱ、あの噂本当だったんだ? 『ファウスト』の店長のお兄さん、景さんはあのヤクザみたいな男の愛人だって。あの人が、ここのお金出したんでしょ? そうでしょ?」

 目の前が真っ赤になる。少し遅れて、景は自分が激怒しているのだと気づいた。
 カフェ「ファウスト」の店長、村田 灯里の兄は、景の大恩人である。高校卒業後、なにも知らず、なにもできなかった景を、厳しくも丁寧に根気強く指導してくれた。今日の景があるのは、彼のおかげなのだ。
 そんな大切な人を、くだらない憶測で貶めるなんて――。
 姫名は楽しげに悪態をついているが、もはやそれらは景の耳に意味を持って入ってこなかった。
 ただ、うるさいだけだ。黙らせてやりたいが、どうすればいいだろう。
 背後の調理台を振り返れば、いいものがあった。――包丁だ。
 光る刃先を見詰めながら、景はこれを使ったらどうだろうと思った。名案じゃないか。
 いや、そんなことをしては絶対にいけない! やっとお店を持てたところなのに、台無しにするつもりか! もうひとりの自分が自制を促す。
 そうだ、もちろん、やってはいけないことだ。――でも。

「もうおじいちゃんじゃないですが、あの人。景さんもよくやりますよね~。たかがお金のために、私はそこまでプライド捨てられないな~」

 姫名はまだ喋り続けている。

 ――ああ、鬱陶しい。

 景は後ろに手を伸ばした。指先に当たった木製の柄を握り、前に構える。
 景の行動に気づいた姫名が、目を見開いた。

 ――頭悪そうなツラしちゃって。こんな子、生きててもしょうがないよね?

 右手が勝手に動き、景は包丁を振りかざした。




「うわああああっ!」

 絶叫と同時に、景は跳ね起きた。大量に汗をかいたらしく、服がびっしょり濡れていて気持ち悪い。
 目線を上げれば、いつものように無表情なティンカー・ベルが、じっとこちらを見ていた。

「いい夢は見られたか?」
「……!」
「――その様子では、あまり良い結末ではなかったようだな」

 悪魔の言葉に弾かれたように、景は叫んだ。

「私、しない! しないよ! あんな怖いこと……! いくら気が合わない人だからって、こ、こ、殺そうとするなんて!」
「落ち着け。お前が体験したことは、夢だ」

 夢。そうだ、夢だ。
 しかしとんでもなくリアルだった。見るものも嗅ぐものも触れるものも現実そのもので、幻だとは思えなかった。
 そしてその中で考えたこと、思ったことも、全て――。

『殺してやりたい』

 なんて恐ろしいことを思ってしまったのだろう。しかしあのねっとりとした重たい感情に、景は覚えがあった。
 人間を人間で無くする、醜悪な気持ち。あんな汚いものを心に抱いたのは、だが初めてのことではなかったのではないか?
 相手は姫名ではない。もっと身近な誰かに対して。
 
 ――いやだ、思い出したくない!

 忘れようと努力していたなにかが、心の奥底から引きずり出されそうだ。
 景は何度も首を振った。
 呼吸が乱れ、苦しくなる。鼓動も早い。

「吸って、吐いて。きちんと息をしなさい」

 ティンカー・ベルは景の背中を擦った。
 悪魔の温もりと規則正しい手の動きが、心を落ち着かせてくれる。やがて景の息は整った。

「はあ……。さっきの夢って、現実と変わらないんだよね? ということは、私は些細なことで人を殺しちゃう、危険な奴ってこと?」
「舞台設定は現実に即したものだ。だが、夢は夢だからな。若干理性が働かないところはあるかもしれん」
「若干かあ……」

 誰かを傷つけたりしない。殺すなんてもってのほかだ。
 だが自分の中に恐るべき衝動があるということは、肝に銘じておこうと、景は思った。

「ストレスはためるもんじゃないね……」

 畳の上で背中を丸め、景は力なくつぶやく。

「そうだな。大量に溜めたものを一気に放出すれば、大惨事になる。小出しにしていけ」

 悪魔は助言をくれたが、しかし不満を細かく吐き出していくというのも、景のようなタイプの人間にはなかなか難しいことなのである……。

「それで、どうだった? お前は仕事向きの人間だったか?」

 景はうんざりした顔で答えた。

「うーん……。料理に関わる仕事がしたいなとは思うけど、お店を開くとか、そこまでにならなくてもいいかなあ。私は経営者って器じゃないみたいだし、仕事はほどほどで……」

 例えばオーナーシェフだとか、店のトップに立ったならば、自分にも人にも厳しくあらねばならないだろう。
 説教するときは説教し、切り捨てるときは切り捨てる。
 しかし人の顔色を伺ってばかりの景に、その任は重すぎるのだ。

「ふむ、そうか」

 ティンカー・ベルはジャケットからメモを取り出すと、さらさらとなにごとか書き留めた。

「ならば今度は、幸せな結婚ルートを辿ってみよう」
「えっ、連続で!?」

 またもや悪魔は、ガラスの小瓶を突き出してくる。
 先ほどとは一転し、今度は家庭に入る夢を見させられるわけか。
 人間関係はきっと狭まるだろう。主婦業を軽んじているわけではないが、余計なことに気を煩わせなくていいかもしれない。

 ――家のことするの、好きだしね。うん。

 ほのかな期待を抱きつつ、景は小瓶の中身を飲んだ。


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