その女、悪魔憑きにつき

犬噛 クロ

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2.お腹いっぱいの恋

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 ドライフルーツに熱湯をかけて、油を抜く。水分をよく拭き取ってからヨーグルトに入れて、ざっと混ぜた。
 クランベリーやレーズン、マンゴーなど、これらのドライフルーツをヨーグルトに一晩浸すと、チーズのように濃厚な風味に変化する。そしてこのヨーグルト漬けのフルーツをトッピングしたパンケーキは、カフェ「ファウスト」の人気メニューだった。

「よいしょっと」

 これで今日中に終わらせねばならない仕込みは終了だ。ヨーグルトが波々詰まったボウルを仕舞い、景は業務用の大きな冷蔵庫を閉めた。

「景ちゃん、ありがとう。急に残業頼んじゃってごめんね。助かったわー」

 声をかけてきたのは、店長の村田 灯里(むらた あかり)である。灯里は厨房にある作業台の前で、立ったまま書きものをしていた。

「商売繁盛なのはありがたいけど、ちょーっと最近、忙し過ぎるよねえ」
「この間、雑誌に載ったばかりですからね。ほら、『mau mau』に」
「うーん、しゃちょーに頼んで、取材はしばらく断ろうかなあ。平日は余裕あるけど、休みの日のお客さんの数は捌ききるのギリギリだよね。スタッフのみんなが大変だし」

 ほかの店が聞いたら贅沢だと怒りそうな悩みを口にしながら、灯里は首や肩の辺りを揉んだ。
 灯里のいう「しゃちょー」とは彼女の兄のことで、そのとおりカフェ「ファウスト」を経営する会社の社長でもあった。

「でも、今日平気だったの~? 誰かと約束あったんじゃないの~?」

 赤いフレームの眼鏡の奥で、灯里の賢そうな瞳がわくわく輝いている。

「えっ?」
「だってさあ、最近仕事が終わるとささっと帰っちゃうし、お洋服やメイクも可愛くなっちゃって。これはもう、男しかいないじゃない! みんな、噂してるんだからね!」

 灯里はもうじき五十歳の、夫と三人の子供を持つ主婦でもある。しかしこうやってはしゃいでいると、実年齢よりずっと若く見えた。
 それにしてもみんな、よく観察しているものだ。
 景はなんと答えていいか分からず、愛想笑いを浮かべた。
 もし地味だった自分が、少しは華やかになったというならば、それはあの悪魔のおかげだろう。――青い悪魔、ティンカー・ベルの。
 しかし今、彼の話はしたくない。灯里の追及から逃れるため、景は大げさな仕草で壁の時計を指した。

「あっ、店長! 急いだほうがいいですよ! 一番下のお嬢さんの、塾が終わる時間じゃないですか?」
「あっ、やべっ! 迎えに行かないと!」

 灯里は奥の店長室へ飛び込んだかと思うと、上着を羽織りながら慌ただしく戻ってきた。

「ごめん、景ちゃん。あとよろしくね! あ、まかないのご飯残ってるから、もし良かったら食べちゃって!」
「はーい。お気をつけて!」
「ホント、ごめんねー! また明日ー!」

 灯里が帰ってしまうと、店内はスイッチを切ったように静かになった。
 シャッターが下ろされて、暗く狭く感じる職場で、景はため息を吐く。

「あ、まかないのご飯、余ってるんだっけ」

 灯里が言い残していったことを思い出して、景は炊飯器を開けた。中には白米が一合分ほど残っている。
 本日のまかない食は、灯里特製の二色丼だった。甘辛い牛肉のしぐれ煮とピリ辛に炒めた高菜を載せた丼で、とても美味しいのだ。
 冷蔵庫を確かめてみれば、しぐれ煮と高菜も少し残っている。景はそれらをご飯に混ぜて、おにぎりを握った。持って帰って、ティンカー・ベルに食べさせようと思ったのだ。――もし彼が、自分をまだ待っていてくれたら、の話だが。
 今日もティンカー・ベルは、景の部屋を訪れる予定になっている。しかしあの悪魔が来るいつもの時間から、もう三時間過ぎてしまった。
 きっと帰ってしまっただろう。悪いことをしたかもしれないが、景はどうしても家に帰る気にならなかった。
 ティンカー・ベルの顔を見るのがつらい。昨晩ひどい魔法をかけられたことで、彼と自分の温度差を思い知ってしまったからだ。
 それに――。
 あのあとずっと泣き続けた景を、ティンカー・ベルは布団に運び、慰めてくれた。いつの間にか眠ってしまい、起きたときに、既に彼の姿はなかった。
 ――くだんのローターを、残したまま。
 そのせいで景が目覚めてから一番にやらねばならなかったのは、電池が切れてうんともすんとも言わなくなったローターを外し、濡れ汚れた股間を洗い清め、下着を代えることだった。それから股間から取り出したローターを綺麗にし、中身が見えないよう厳重に梱包し、更に不燃ごみの日にコソコソと捨てなければならない……。
 起き抜けで挑むには、あまりに過酷な作業だ。そのうえ虚しく、メンタルも削られる。景は早朝、再び静かに泣いたのだった。

 ――思い出したら、段々腹が立ってきた。
 
「別に好きじゃないよ、あんな無神経な男。まだ、好きになってなかったよ。多分」

 自分に言い聞かせるように、景はつぶやく。
 ティンカー・ベルの側ならば自然体でいられて、居心地が良かったから、恋してしまったような錯覚に陥ったのだ。多分。
 いつも遠慮してしまう自分が、あの悪魔の前では言いたいことが言えて、甘えて、甘えられたから。そういった時間が楽しかったから、誤解しただけなのだ。多分。

「――それだけのことだよ。多分」

 景はラップでくるんだご飯を力を込めて握り、おにぎりを二つ作った。




 帰る前に、ゴミを捨てて来なければならない。

「よっこいしょっと」

 両手にゴミ袋を持ち、歩いて一、二分の集積所へ向かう途中、景の体には疲労が一気にのしかかってきた。
 ここのところ絶好調で仕事も楽しく、疲れなんて全く感じなかったのに。ティンカー・ベルの気持ちが自分にないと分かった途端、この有り様だ。

 ――単純っていうか……。私、ティンカー・ベルに、勝手に振り回されてるなあ……。

 どうにも気分が重い。
 ゴミを捨ててから、「ファウスト」所有の小さな駐車場を突っ切って戻る途中、景は男に呼び止められた。

「おい、そこのブス」
「はい?」

 ひどい言いように対しても、疑問を持たず振り返ってしまうあたり、やはり景は自己評価が低すぎるのかもしれない。
 駐車場のか細い外灯の下に、その男はぽつんと一人、立っていた。小柄で小太りで、あまり見た目がよろしくない彼は、最近頻繁に「ファウスト」を訪れている客だった。いつも甘い飲み物を頼み、そして――。

「水谷 花憐が店に来なかったか?」
「えっ」

 そう、水谷 花憐をストーカーしているのではないかと、同僚の姫名が言っていた男だ。
 景は震える声で答えた。

「お、お客様のプライバシーに関わることですので、お答えできません」

 ちなみに本日、水谷 花憐は「ファウスト」に現れていなかった。だがそのことを、男に教えてやるつもりはない。

「なんだと?」

 今にも飛びかかってきそうなほど、男は険のある表情で睨んでくる。非常に怖かったが、景は勇気を振り絞り、引かなかった。
 プライバシー云々も確かにそのとおりだが、それよりもなによりも、景は水谷 花憐が好きなのだ。自分が作ったパンケーキを美味しいと言ってくれたあの可愛い女の子を、守ってあげたかった。

「ふん、クソ生意気な女だな」

 男は面白くなさそうに景を眺め回していたが、その値踏みするような視線を、景の額の辺りでピタリと止めた。

「やっぱり、気のせいじゃなかったのか。昨日、そうじゃねえかと思ったんだが。――お前、悪魔憑きだな?」
「!」

 男は薄い唇を歪めて笑うと、芋虫のような太い指をパチンと鳴らした。直後、景は耳鳴りに襲われる。キーンと高い音がして、たまらず耳を押さえていると、周囲に変化が起きた。
 見た目はなにも変わっていないし、辺りの景色もそのままだ。しかし空気の流れが途絶えている。まるで透明な檻に閉じ込められたかのように、息苦しかった。

「なにこれ……?」

 不安げにキョロキョロと頭を動かす景に、男は不気味に笑いかけた。

「結界を張った。俺たちの姿も声も、ほかの奴らには見えないし、聞こえない」

「けっかい」。漫画やアニメでは散々出てくるが、リアルでは初めて聞いた。
 この男が妄想癖を患っているのでなければ、景は結界という特殊な環境に引きずり込まれてしまったようだ。
 しかしそれよりも、気になることがある。
 男は景のことを「悪魔憑き」と呼んだ。
 悪魔――ティンカー・ベル。男はティンカー・ベルのことを、そして景が彼と関わりがあることを知っているのだろうか。

「その印、ティンカー・ベルのだろ。お前、あいつのお手つきか。生意気なことに、あいつは味にうるさい。お前、相当美味い精気の持ち主なんだろうな。一口喰わせろよ」

 男が一歩、また一歩と近づいてくる。景は後退るが、なにか固いものが背中に当たり、それ以上逃げられなかった。
 背後に見えない壁があるかのようだ。これが「結界」というやつだろうか。
 戸惑っている間に距離を詰められ、景は男に捕まってしまった。

「いやっ!」

 掴まれた腕が熱い。腹の底からなにか持ち上がり、スッと消えていく。クラクラと目眩がした。
 景が倒れる寸前、しかし男は絶叫を上げた。

「まっずううううううう! うええええええええ!」

 景から手を離すと、男は膝から崩れ落ち、おえおえとえずいている。

「えっ」

 唖然となる景を、男は吐き気を堪えながら涙目で見上げた。

「お前ええええ! なんだ、そのクッソまずい精気は! 俺を殺す気か!」
「ええええっ!?」

 先ほど腕を掴まれていた間、男は景の精気を吸っていたらしい。
 しかし精気を吸うには、「口からじゅるじゅると吸う」んじゃなかったのか。ティンカー・ベルは、そう言っていたが。
 そして――。
 ティンカー・ベルは美味しいと褒め称えてくれたのに、目の前の男には真逆の評価で罵られた。

 ――私の精気は美味しいの!? まずいの!? どっちなの!?

 混乱する景の前で男は四つん這いになり、ぶつぶつとなにかつぶやいている。

「お前のその味は……! ティンカー・ベルは、なにを企んでいる!?」

 男の全身が黒く霞んだかと思うと、太ましかった体が更に膨らみ始めた。その身には、なにか小さな生き物が集(たか)っている。
 虫――ハエだった。
 男の体が縦も横も倍以上の大きさになると、彼にまとわりついていたハエたちが一斉に飛び立った。景は一瞬、男が風船のように破裂したのかと思った。
 虫たちがブーンとあの耳障りな羽音を残し、去ったあとには、彼らの親玉に違いない、巨大な一匹のハエが残った。

「ひっ……!」

 大きさはゾウほどもある丸みを帯びた体に、六本の足。透明な羽と、頭部には赤い複眼を持つ。
 そもそも害虫であるハエを、好きな人間は稀だろう。それがおぞましくも大きくなって、目の前に立ち塞がっている。
 景は恐怖のあまり、動けなくなった。

「これ以上、ティンカー・ベルに、力を付けさせてたまるか!」

 ハエが前脚を払うと、禍々しい黒色のつむじ風が起こり、景に襲いかかった。

 ――殺される……!

 為す術もない景を、誰かが後ろへ強く引く。景はよろけて、尻餅をついた。
 背後には結界とやらの壁があったはずなのに、どうして下がれたのだろう? 不思議だった。
 ハエが放った黒い風は景のいた場所を通り過ぎ、駐車場の端にある小さな花壇のあたりで散った。見ればそこに植えられていた草花が、すっかり枯れている。
 景はゾッとした。あの風に当っていたら、どうなっていたのだろう。

「ケガはしていないな?」

 聞き慣れた声がする。慌てて顔を上げると、すぐ横にティンカー・ベルが立っていた。

「ティンカー・ベル……!」
「もう大丈夫だ」

 青い肌に、ダークグレーのスーツ。背中には黒い羽と尻尾が見える。
 いつもどおりの颯爽とした姿で、ティンカーベルは景に微笑みかけると、巨大なハエに向き直った。

「お前……! なんでほかの悪魔が張った結界が分かるんだよ!? 見えねーから結界っつーんだろうが!」

 ハエは足を振り回し、怒っているようだ。

「我は昔から目がいいのだ。久しぶりだな、ベルたん」
「その呼び方はやめろ! 大体お前だって、ティンカー・ベルっつーんだから、ベルたんじゃねえか! 俺のことはきちんと、『ベルゼブブ』様と呼べ!」
「このあだ名を、お前は好んでいなかったか? ベルたん」
「俺様を『たん』呼びしていいのは、嫁だけだ! 二次元のな!」

 巨バエは轟くような大声で怒鳴っているのに、すぐ側を通り過ぎていく通行人たちはこちらを見向きもしない。結界とやらは、まだ有効なのだろうか。

「ベルたんの結界を一度壊して、我がまた新たな結界を張ったのだ」

 大きなハエから目を逸らさず、ティンカー・ベルは言った。




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