その女、悪魔憑きにつき

犬噛 クロ

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 大きなベッドの縁に腰掛け、景とぬいぐるみは喧々囂々とやり合っている。

「こんなことまで、頼んでない!」
「あの男と親しくなりたい、あわよくばそれ以上の関係になりたいと、言っていたじゃないか」
「だからって、こんな急なのは困るよ! こういうことは、もっと時間をかけて、ゆっくりと……!」

 トーンダウンした景に、ティンカー・ベルは諭すように畳み掛ける。

「そうやって時間をかけて、いざ事に及んでみたら、体の相性が合わなかったなんてことになったらどうするのだ。それまでにかけた手間暇が、勿体ないではないか」
「そ、そんなこと……」

 下(しも)の問題に切り込まれれば、その手の経験がないが故に反論できないし、そういうものかと納得せざるを得ない。口ごもる景に、ティンカー・ベルは駄目押しする。

「特にお前らのような盛りのついた年頃の人間にとって、セックスの問題は重要だぞ」
「ううう……。ティンカー・ベルさあ、報酬が早く欲しいからって、やっつけ仕事になってない?」
「失敬な。我は仕事は完璧にこなす」

 景の疑惑を跳ね返すかのように、青い体の小さなクマ、悪魔ティンカー・ベルは腕を組み、胸を張った。
 大吾と飲んだスペインバルからこの狭いホテルの一室まで、景の足は勝手に動いた。ティンカー・ベルの例の不思議な力によって、歩かされたのだ。
 今、大吾はシャワーを浴びている。いつ彼が浴室から出てくるか、景は戦々恐々としていた。
 そりゃあお互い大人だから、もし大吾とうまくいったら、遠くない未来に体を繋げるときがくるだろう。処女だって、別に大事にとっておいたわけでもないし。

「それでも、もうちょっと……。海が見えるホテルでとか、そんなことは言わないけどさ」

 美しくロマンチックに、そのときを迎えられたらと思っていたのに。乙女のそんな願いとはあまりにかけ離れた現実を、景はうんざりと眺め回した。
 二時間三千八百円の狭っ苦しい部屋。ベッドだけは立派だが、それ以外のインテリア……と呼ぶのも憚れるようなアイテム類は、あまりにちゃちだった。ベッドの横には、隙間に無理矢理押し込んだような応接セットが置かれている。円形のガラステーブルは表面が曇っていて、ソファにはあちこち煙草でできた焼け焦げがあった。窓はシャッターで覆われており、息苦しくて、まるで監獄に閉じ込められているような気持ちになる。

「こんなところでするくらいだったら、うちのほうがよっぽど……」

 するとまたティンカー・ベルは、細い尻尾で景の太ももを打った。

「いたっ!」
「男を家に入れるのは、相手を絶対的に信頼できるようになるまで、やめておけ」
「エッチなことはするのに、家に入れちゃダメなの?」

 ヒリヒリ痛む太ももを擦りながら、景は尋ねた。順番が逆なようが気がして、腑に落ちない。

「そうだ。あと、プリンは我が食うから、あいつにやる必要はない」
「……………………」

 まあ昨晩作ったプリンは、甘いものに目がないこの悪魔のために作っておいたのだから、あげるのは別にいいのだが。
 浴室の水音が止まり、ごそごそと衣擦れの音が聞こえてくる。景の心臓は、激しく鳴り始めた。

 ――覚悟を決めなければ……!

 そう言い聞かせるが、大吾が室内に戻ってきても、景の心中はざわざわと騒がしいままだった。
 本当にいいのだろうか。このまま、してしまっていいのだろうか……?
 大吾は、バスタオルを腰に巻いただけの格好である。青白い彼の裸体を前に、景は照れるというよりは、なにか嫌なものを見てしまった気になった。

「わ、私もシャワー入ってくる……!」

 ティンカー・ベルを胸に抱えて、浴室に逃げ込もうとしたところで、景は大吾に捕まってしまった。

「いいよいいよ。俺、もう我慢できないし」
「いやいやいや! こういうのは、ほら、ま、マナーだから!」

 景の主張を大吾は無視し、抱きすくめようとしてくる。
 妙に熱い体温が、顔に降ってくる吐息が、気持ち悪い。――怖い。

「大蔵田さんさあ、めちゃくちゃ綺麗になったよね。中学んときも、すごく可愛かったけど」

 大吾は景の肩を強く掴むと、顔を寄せてきた。

「そ、そんなことないけど……」

 中学時代、なぜ苛められていたのか。景は自らに問題があったのだと思っている。
 自分自身に、ちっとも自信を持てなかった。
 嫌われるのが怖くて、人の顔色を伺ってばかりいた。
 争いごとが嫌で、誰にでもいい顔をした。
 そんな八方美人な態度から、周りからは調子だけいい、自分の意見がない奴だとみなされたのだろう。実際景も、当時の自分はそのとおりの人間だったと思っている。
 友達は一人、また一人と離れていき、遂に無視されたり、陰口を叩かれるようになった。そんな女子たちのいじめに乗っかる形で、男子からも心ないことを言われるようになった。
 だが飯島 大吾だけは、景につらく当たったりはしなかったのだ。周りに人がいないときには、話しかけてくれたりもした。景にとって、中学時代のいい思い出といえば、それだけだった。

 ――だから、縋って。

「ご、ごごご、ごめん!」

 大吾の顎を押さえて力任せに身を捩り、景は彼の腕からなんとか逃れた。ティンカー・ベルはしっかりと胸に抱いたままだ。
 ようやく気づいた。

 ――感謝してるけど、だけど今の飯島くんを好きか、好きになれるかといえば、それは別問題だ……!

 自分だって変わってしまっただろうが、相手だって変わってしまった。
 いや、そもそも自分は、飯島 大吾を本当に好きだったろうか?
 大吾が本当はどういう人間か、理解していただろうか?
 思い出を壊したくないがために、彼を都合よく美化していなかっただろうか?

 ――優しくしてくれたから、なついただけじゃないの……?

 恋なんてよく分からないが、きっとこの気持ちは違う。

「やっぱ、今日いきなりっていうのは無理だ! ごめん! ごめんね!」

 距離を取ってペコペコと頭を下げる景を、大吾は不機嫌を隠そうともせず、睨みつけた。

「なんだよ。今更、純情ぶるなよな! ヤリマンのくせに!」
「え?」

 なにを言われたのか理解が追いつかず、景は茫然と大吾を見返した。

「みんな言ってたじゃないか! お前んち、金持ちぶってるけど、ただの見栄っ張りで、本当は貧乏だって! だからお前はいつも同じ服着てたし、使ってる物なんかもボロボロで。今日、話聞いたら、大学にも行けなかったみたいだし。お前んちってやっぱり底辺で、だからお前は援交もやってたんだろ!?」
「えんこう……?」

 二十歳となった今では目立つこともないが、景は早熟なほうで、幼い頃から顔つきや体型が大人びていた。そのせいでよくからかわれたし、大吾が口にしたような、根も葉もない噂が立つこともあった。
 実際の景は、援助交際なんてとんでもない。その逆で、放課後や休日は自分の部屋に篭もり、時間が過ぎるのをじっと待つような内気な少女だったのだが。

「だから優しくしてやれば、やらせてくれるんじゃないかって、俺、中学んときはお前の周りをうろちょろしたけど。でもお前、結局なにもしてくれなかったよなあ。俺が金持ってなかったから?」

 大吾の発する言葉の一つ一つが、景の胸を刺し貫いていく。
 大切にしていたものが粉々に、それも憧れていた大吾本人によって砕かれてしまった。
 つらくて悲しくて、考えること理解することを放棄した頭の中に、なぜか昔聞いたある歌が途切れ途切れ流れる。

『弱い者たちが、更に弱い者を……』

 なぜだろう。なぜ関係のないこの歌を、思い出したんだろう。

「あ、そうだ。お前が昔援交してたって、お前が働いてるあのカフェの奴らにバラしたら、どうなるかなあ? あとはネットに書き込むとか」

 表情も言葉もなくして立ち尽くす景の前で、大吾の下衆な口上は絶好調だ。

「あっ、もちろん冗談だよ、冗談。そんなの犯罪だもんね。でもさあ、もう部屋取っちゃったし、お金が勿体ないから……。手か口でいいから、抜いてくれない? 頼むよ」

 口調を一転させて、気味の悪い猫なで声で迫ってくる旧友が、景には化け物のように見えた。

 ――嫌だ、嫌だ。こんな男と、もう一分一秒も一緒にいたくない。

 気を許せば、涙が出てしまいそうだった。

 ――帰ろう。

 胸元のティンカー・ベルを、無意識に抱き締める。するとまた口が、ひとりでに動き出した。

「うん、いいよ」

 信じられなかった。なにを勝手に、おぞましいことを了承しているのか。
 景はクマの頭をバシバシ叩くが、しかし唇は止まってくれない。

「じゃあさ、ほら、寝転んで。タオル取ってくれる?」

 普通ならば、急に物分かりが良くなった景を怪しむはずだ。だが大吾は、昔売春をしていた女だという先入観があるからか、不審に思わないらしい。

「へへ、よろしく~。優しくしてね。なんちゃって」

 せかせかと腰のタオルを取り、大吾はベッドの上に寝転んだ。横になった拍子に、硬くなり始めている彼の陰茎が、右側にだらりと倒れる。そのだらしない肉の棒を見た瞬間、景の体は軽くなった。今まで全身に巻きついていた糸が、ぷっつりと切れたような感覚だった。




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