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1.その女、悪魔憑きにつき
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しおりを挟むいよいよ決行の日がやってきた。
朝から落ち着かず、景はそわそわと一日を過ごしている。バイト先のカフェで、来客を告げるチャイムが鳴るたび小さく飛び上がり、目的の人物でなければホッと胸を撫で下ろして、オーダーを取った。そんなことを繰り返しているうちに、もう十六時だ。
いつもの時間、飯島 大吾はカフェ「ファウスト」に現れた。アメリカン・コーヒーを頼み、窓際の席に着く。
店内は客もまばらだ。同僚に声をかけて、景は客席の清掃に出る。ひとつひとつ机を拭きながら、じわじわと大吾のもとへ近づいていった。
――もうちょっと、もう一席で……!
緊張のあまり、景は渾身の力で机を磨いた。
「机が割れるぞ」
モコモコした短い手に腹を叩かれ、景は我に返った。見れば、カフェテーブルの天板は、既に宝石のようにキラキラと輝いている。これ以上力を込めれば、確かに破壊してしまうかもしれない。
深呼吸をして、景は大吾の後ろに立った。しかし。
――うわああ、うわああああ……! ダメだあああ!
もう一回、出直したほうが良さそうだ。怖気づき、引き返そうとした景の足は、しかしその場にピンで押し留められたように動かなかった。
「もしかして、飯島くんじゃなあい?」
勝手に開いた景の口からは、他人のような甲高い声が出た。
「え?」
大吾がスマートフォンを片手に振り向く。不審そうな目がちらりと下を向き、彼はまず突然話しかけてきた店員の、黒いカフェエプロンを注視した。
――カフェの店員が、腹にクマのぬいぐるみを仕込んでいるのは、いかがなものか。
言葉にせずとも、大吾の表情がそう語っている。そのとおり、景のエプロンの前ポケットには、ぬいぐるみのふりをしたティンカー・ベルが収まっていた。
「覚えてないかなあ? 私、大蔵田 景だよ。中学、一緒だったよね」
「ああ……」
しばらく考え込んだのち、大吾はパッと目を見開いた。景のことを思い出してくれたらしい。
「あ、そうそう、大蔵田さん。覚えてる、覚えてる。久しぶりだね」
昔の知り合いだからと警戒を解き、大吾は表情を緩めた。
「ホント、久しぶりだよね」
「うんうん」
「懐かしいよねー……」
なにか言わないと、と景は思うのだが、焦れば焦るほど次の台詞が出てこない。昨晩からずっと、あれほどシミュレーションしたというのに。
景は助けを求めるように、エプロンの前ポケットを見下ろした。そこにちょこんと収まっているぬいぐるみの頭が、まるでため息でも吐くかのように小さく揺れる。
次の瞬間、景の口は再び滑らかに動き出した。
「私、ここでバイトしてるんだあ。あとちょっとで終わるんだけど、良かったらこのあとご飯でも行かなあい?」
「うん、いいよ」
急な誘いにも関わらず、大吾はあっさり了承してくれた。
「じゃあ、またあとでね」
景は軽く手を振ると、大吾に背中を向けた。
あれほど重かった足は軽くなり、踊りたいくらいだ。
「ありがと! ティンカー・ベル!」
カウンターに戻る短い道すがら、景はポケットの中にいる悪魔の頭を、感謝の念を込め、盛大にわしゃわしゃと撫でた。
十七時にバイトが終わると、景は大吾を伴い、近くのスペインバルに向かった。手頃な値段の割に美味しいと評判の店だ。
小洒落た内装の店内をきょろきょろと見回しつつ、大吾は声を弾ませた。
「良い店、知ってるんだね」
「バイト仲間と、前に来たことがあるんだ」
ジャガイモ入りのオムレツのほか、数品を肴に、二人はワインを飲んだ。
料理や酒が運ばれてくるたび、大吾はスマートフォンでいちいち写真を撮った。普通ならばイライラしそうなものだが、景としては大吾が喜んでくれているのならばと、大して気にならなかった。それに彼が撮りたての画像をSNSにアップしている間、放っておかれるのも都合が良かったのだ。ぬいぐるみに身をやつしている、自称「上級悪魔」ティンカー・ベルが、机の上のご馳走をしきりに食べたがるので、こっそり横流ししてやることができるからだ。
「美味しい?」
周りに聞こえないよう、景は小声で尋ねた。
「食べログだったら、星二つというところだな」
小さな口でもぐもぐと生ハムを噛み締めながら、悪魔は手厳しい評価を下した。
肝心の大吾との会話は、最初のうちは中学時代の思い出や、誰それの進路についてなどの話題だったのだが、そのうち大吾自身の話になり、景は一方的に聞くだけになった。それでも大学生活を満喫しているらしい大吾の話は、景の知らない世界を覗かせてもらっているようで楽しかった。
「大蔵田さんはどこの大学だっけ?」
「あ、私は大学行ってなくて……。今は働いてるの。バイトだけど」
「えー!?」
景が高校を出てすぐに働いていることを知ると、大吾は信じられないというように目を丸くした。
「そうなんだ。エライね」
褒められたというよりは、同情されてしまったようだ。反応に困り、景は苦笑する。その間もティンカー・ベルは景の隣に腰掛け、もぐもぐとチーズを齧っていた。
店に入ってかれこれ二時間が経った。景と大吾は赤と白のワインを二杯ずつ飲んでいる。
ちなみに景は、顔に似合わず酒に強い。一方の大吾は、既に呂律が怪しくなっている。お開きにはいい頃合いだろうか。
「じゃあ、そろそろ……」
このあと連絡先の交換ができれば上出来だ。
景がスマホを取り出そうとすると、大吾はその手を掴んだ。手のひらに滲んでいた彼の汗が、じっとりと自分の肌に染み込んでくるような気がして、景は少々不快だった。
「ねえ、俺、今から大蔵田さんちに行ってもいい?」
「えっ」
景にとって、これは予想外の展開だった。
でもまあ、ここでさよならというのも味気ないし、家にお招きして、お茶でも飲んでもらうのもいいかもしれない。
そういえば、昨晩プリンを作っておいたし、食べてもらおうか。
「うん、いい……いたっ!」
言いかけたところで、腕にぴしっと鋭い痛みが走る。ティンカー・ベルに、そこだけは悪魔の姿のときと同じ、先が鉤形になっている細い尻尾で叩かれたのだ。
「どうしたの?」
「あ、いや、ちょっと……」
不思議そうな大吾を愛想笑いで誤魔化して、景はぬいぐるみに化けている悪魔を睨みつけた。ティンカー・ベルはなにごともなかったように、前を向いている。
なんなのだ……。首を傾げながら大吾に向き直ると、また勝手に口が動いた。
「ごめーん、家は散らかっててえ、ちょっと無理ぃ。でも……」
悪魔に勧められた雑誌のレクチャーどおり、景の瞼にはきっちりアイラインが引かれている。そこが、これまた許可なく、わずかに下がった。
「もうちょっと行ったところに、何軒かホテルがあるの。そこならいーよ。でも、部屋代はそっち持ちね?」
最後は冗談めかして、唇の端を上げる――。こんな軽い女の子を、景は知らない。断じて、自分ではない……!
「大蔵田さん、しっかりしてるなあ。じゃあさ、ここは割り勘でいい?」
魅惑的に微笑み、だが実際は金縛りにあったように動けないでいる景の前で、大吾はヘラヘラ笑った。
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