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7.パラダイス・ロスト
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しおりを挟む大蔵田 景は、概ね焦っていた。「概ね」というのはつまり、「このままじゃ良くない」、「でもこれはこれで幸せかもしれない」、「いやしかし、やっぱりダメだ」と、このような思考をぐるぐる繰り返しているのだ。いわゆる堂々巡りというやつだが、余裕が見える。現状を維持したいという願望も、感じ取れるし――。
なんのことかといえば、彼女に取り憑いた悪魔、ティンカー・ベルのことだ。
景は「幸せにしてもらう」と、かの悪魔と契約を結んでいる。だからティンカー・ベルは、景にとって理想的な伴侶を探してきてくれるはずだった。
――が。
あの悪魔は景の家に足繁く通い、しかしやることといえば、食っちゃ寝食っちゃ寝。まあ食料は持ってきてくれるし、炊事の後片づけもしてくれるし。料理が趣味の景としては、別に負担どころか、なんでも美味しいと食べてくれる悪魔に給餌することを楽しんでしまっているのだが。
が、このままでは、ダメなのだ。
なぜなら景は、ティンカー・ベルに恋をしてしまっているからである。
それがどうしてダメなのか。
古今東西、悪魔と人の恋なんてうまくいった試しがない。悲劇的な結末を迎えるに決まっている。
そもそも――。
――私のことなんて、誰も好きになってくれるわけがない。
それはきっと、悪魔も同じ。
ティンカー・ベルが景に優しく……はないが、それでも親しく接してくれるのは、二人が契約を結んでいるからだ。そしてそれがある限り、ティンカー・ベルはいつまでも縛られることになる。そのことが景は心苦しく、怖かった。
今は良くても、そのうちお荷物になり、嫌われてしまうのではないか――。
自分に関する事柄については臆病、かつネガティブにしか考えられない。それが大蔵田 景という女であった。
「ふう」
制服に着替え終えた景は、バイト先のカフェ「ファウスト」のロッカールームから事務所へ出た。黒の革靴に履き替えているところへ、女の子が一人、待ち構えていたかのようにすり寄ってくる。
「大蔵田さあん」
「!?」
気色の悪い猫なで声に、景は思わず後ずさりした。人に纏わりつく真夏の蚊のように近づいてきたのは、同僚の姫名である。
「あ、お待たせ……」
「全然ですよぉ!」
似合わない愛想笑いを浮かべている姫名は、景の担当よりも前のシフトに入っていたはずだ。
「ファウスト」のロッカールームは確かに狭いが、女子二人くらいなら同時に着替えられる。しかし姫名は景と二人になるのを嫌がって、景がロッカーを使用中の場合はわざわざ外で待つのだ。そしていつも「遅い」だの「のろま」だの文句を言う。
それなのに今日は難癖をつけるどころか、ニコニコ笑っているなんて……。景は嫌な予感しかしなかった。
「ねえねえ、大蔵田さん。パーティーとか興味ない?」
「ぱ、パーティー?」
「そうそう、ラファエル様の!」
突拍子もない話に面食らっている景の前に、姫名はチケットを突き出した。受け取らないと許さないとばかりの強引さに、景は渋々それを手に取る。そして分厚く上等な紙に印刷された、ゴテゴテしたフォントの文章を読み上げた。
「パラダイス・ロスト? ラファエル?」
話題に追いつけない景に焦れたように、姫名は声を荒げた。
「人気『YO(ヨウ)・チャネラー』のラファエル様だってば! あの超ヴィジュアル系イケメンの!」
「YO・チャネラー?」
「『YO・チャンネル』っていうサイトで、動画を配信してる人のことだって! 知らないの!? テレビでもよく取り上げられてるじゃん!」
「うーん、聞いたことがあるような、ないような」
スマートフォンの通信容量制限があるから、景はあまり動画を見ない。が、「YO・チャンネル」というサイトのことは知っていた。アクセス数世界一の巨大動画配信サイトで、そこに投稿された動画には、再生数に応じて報酬が支払われるとか。人気配信者ともなれば、その収入は莫大なものになるらしい。
姫名の話では、「パラダイス・ロスト」なるパーティーは、その「YO・チャンネル」の注目動画配信者、「ラファエル」が主催するとのことだ。
「ねえ、行ってみたいでしょ? 生ラファエル様に会えるんだよ!」
「あの……そもそもラファエルさんとは、なに……? 音楽やってるとか、モデルとかの人? どんな動画を作ってるの?」
景の質問に、姫名は言葉を詰まらせた。が、すぐにやけくそ気味に答える。
「ラファエル様はラファエル様だよ!」
「えぇ……」
その後の姫名の解説によれば……。
ラファエルの動画は、なにを買ったとか、なにを食べたとか、なにを飲んだとか……。誰と会って、どこへ行ったとか……。そういった日々の出来事に、ゆる~い音楽とコメントをつけ加えたものだそうだ。景からすると自慢大好きの露出狂としか思えないが、しかしラファエルは特に若い女性から、絶大な支持を受けているらしい。
「ラファエル様はみんなの憧れなの! セレブだしセクシーだし!」
「うーん……」
どれだけアツく語られても、微塵も興味が持てない。景は元々別世界の住民に対して、近づくどころか、遠ざかっていくタイプの人間である。
だからパーティーなんて断ろうと思ったが、姫名の次の売り文句を聞いて、つい興味を惹かれてしまった。
「男の人もいっぱい来るからさ! 新しい出会いがあるよ! うん、出会えるよ!」
――出会い。
確かに毎日職場と自宅の往復しかしていない景は、艶っぽい出会いを得ることが難しい。これではいつまでも、ティンカー・ベルを解放することは叶わないではないか。
――積極的に、こういうチャンスを掴みに行くべきなのかなあ……。
景がわずかに乗り気になったのを見て取って、姫名はほくそ笑んだ。
「だからね、そのチケット譲るよ! お友だち価格でぇ、一万円でいいから!」
「一万!?」
それは高い、高すぎる。
「無理!」
景はきっぱり断った。が、姫名はしつこく食い下がってくる。
「えー! いけるよ! ちょっとシフト多めに入れればすぐでしょ、一万なんて! ねえ、お願い!」
「いや、今月、本当に苦しいから!」
「なんならキャッシングとかさあ~。カードくらい持ってるでしょ?」
「いやいやいや」
景と姫名が「買え」「買わない」と押し問答を続けているそのとき、第三の女子が現れた。
「――あんたさ、私には昨日、三千円でいいって言ってたよね?」
同じく同僚の、聖だ。
聖はじろりと姫名を睨んだ。
「うっ……!」
聖に指摘されて、姫名の顔は悔しそうに歪んだ。
景はほっと息を吐く。
「それ聞いちゃったら、一万なんかで買うのは、絶対やだな~」
「ちっ……」
景が結論とばかりに言い切ると、姫名は小脇に提げていたトートバッグから残りのチケットを取り出し、景に投げつけた。
「いたっ!」
「ふんっ! 貧乏人! そんなものくれてやるわよ! なによ、全然儲からないじゃない!」
一息に捲し立てると、姫名は「ファウスト」の事務所から飛び出して行った。
「姫名ちゃん、着替えないで行っちゃった……」
束の間、呆気に取られてから、景は仕方なく、床に落ちたチケットを拾った。売れ残りだろうか、チケットは五、六枚もある。
「あのバカ、きっと主催側から、チケットを買い取らされたんだと思います。色つけて売れば、お小遣い稼ぎになるとかなんとか言われて。でも友達いなそうだから、売れなかったんじゃないですか?」
「そっか……。聖ちゃん、ありがとう」
景は聖に礼を言った。しかし聖は景にも、キッと厳しい目を向ける。
「景さんも、もっとガツンと断らないと! いいカモになっちゃいます! 私、景さんのこと好きだし尊敬してるけど、そういうとこ、ちょっとイライラします!」
聖は言うだけ言って、ロッカールームに入ってしまった。
怒られてしまった。景はオロオロと立ち尽くした。
――追いかけて、謝る? それも変だし……。
景が迷っているうちに、聖はロッカールームから出てきた。先ほどのいざこざから時間にして三分も経っていないが、寸分の乱れもなく制服に着替え終えている。聖はいつもテキパキしていて、素早いのだ。
「すみません、言い過ぎました。その……。嫌なことがあって、八つ当たりしちゃったかも」
決まり悪そうに、聖は詫びた。
「ううん、ううん! 聖ちゃんの言うとおりだから! 私、気をつけるね……」
景も慌てて頭を下げる。顔を上げて、お互い目が合うと、二人はぎこちなく笑った。
「じゃあ、今日も一日頑張ろうか」
「はい!」
実際、景は聖の忠告に気を悪くすることはなかった。聖の発言は景を想ってのことだと、よく分かっているからだ。気にかけてくれて、ありがたいとすら思う。
「あ、パーティーのチケットいっぱい貰っちゃったけど、聖ちゃんもどう?」
「すみません。興味ないんで」
「そうだよねえ」
さくっと断った聖に、景は同意の笑みを漏らす。
しかしこのチケットは、どうしようか。
それにしても、聖は先ほど「八つ当たりした」と言ったが、彼女はそういった私的なことで、感情を爆発させるタイプではないのだが――。
なにか悩みがあるのだろうか。ストレスが溜まっているのではないか。
――いつも私ばっかり面倒かけてるから、たまには聖ちゃんの力になりたいな……。
バイト開始と同時に、聖は早速、客席の掃除に出ていった。その背中を見送って、今度ゆっくり彼女の話を聞いてみようと、景は思った。
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