【完結済】犬とロボットと彼氏

犬噛 クロ

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 久しぶりに、あのときの夢を見た。目覚めると同時に、ぶるりと震える。体がすっかり冷えてしまったようだ。

「んー、よく寝た……?」

 梅田 凛太郎うめだ りんたろうの寝起きの目に飛び込んできた光景は、しかし見慣れないものだった。
 黄ばんだ壁に、床は年代を感じさせる板の間。だが掃除は行き届いているらしく、埃すら落ちていない。
 ――というか、そもそも何もない。
 家具らしい家具もない、がらんどう。この部屋に置かれているのは、せいぜい畳んで壁に立てかけられている、いくつかのパイプ椅子くらいだ。

「ん? んん?」

 こんな殺風景な場所が自分の部屋なわけはなく――じゃあ、ここはどこだ?
 凛太郎が眠っていたのは、大きなリクライニングチェアだった。ダークブラウンの革で覆われたそれは、歯医者さんのところにあるものと同じくらい大きい。そして素晴らしい高級品なのは、彼の体がほどほどにほぐれていることからも分かる。

「うーん、ラグジュアリ~。何百万もするやつじゃないの、これ」

 もうちょっとまどろんでいたいが、異常な状況であるし、いつまでもこうしているわけにもいかないだろう。凛太郎はとりあえず椅子から降りることにした。
 が、それは叶わない。手が、デラックスなリクライニングチェアの左右の肘置きに、それぞれ縛りつけられていたからだ。

「どういうこと……」

 拘束されている。
 かといって、慌ててもしょうがない。凛太郎はリクライニングチェアのゆったりとした背もたれに寄りかかり、考えてみることにした。
 ――この男は、あまり激しく心が動くということがない。「冷静沈着」と言えば聞こえはいいが、「いつものんびりぼんやりしている」という表現のほうが的確だ。
 ここ最近で凛太郎が驚いたり慌てたりしたのは、去年、愛犬が事故に遭ったときくらいだろうか。

「えーと、何がどうなって、俺はここにいるんだろ」

 凛太郎は大学四年生。就職先も無事決まっており、残り数ヶ月の学生生活を楽しもうと、遊びにバイトにと励んでいた。
 そんなある日の帰り道。そう、数時間前のことだ。

 ――そうだ、後ろから来た誰かに変な薬を嗅がされて、そこから記憶がない……。

 凛太郎が覚えているのはそれだけだった。
 ここはどこなのか。さらわれてからどれくらい経っているのか、さっぱり分からない。凛太郎の胸は、ざわざわと騒いだ。

 ――ああ、母さんに「夕飯いらない」と言っておいて良かったなー。

 凛太郎の母親は食事を無駄にすると、鬼のように怒るのだ。

 ――あと、うちの誰か、あのドラマ、録画しておいてくれないかなあ。今週は主人公の出生の秘密が明かされる重要な回なんだけど。見逃し配信を見るにしてもタイムラグがあるし。ネットとかSNSでネタバレ踏むの、嫌だなあ~。

 ――などと、割りとヤバそうな状況なのに、自分の安否に全く関係のないことを暢気にグダグダ考えていると、少し先の壁が動く。
 シューッと音を立て、横にスライドしたそれは、壁ではなく扉だったらしい。

「お目覚めのようね」

 扉をくぐり、何者かが部屋に入ってくる。
 ――女の子だ。
 背はそれほど高くなく、細い。彼女は白衣を着ていた。その下はニットセーターにデニム。凛太郎の大学に通う女生徒たちと、似たような格好だ。
 ――そう、服装だけは。
 凛太郎は眉根を寄せた。

「なんですか、それ……」

 それは、蝶。どちらかと言えば地味な格好をした女の子の、その顔の上半分を、ギンギラギンに光る蝶のマスクが隠していたのである。
 思い切り怪訝な凛太郎の表情に気づいているのか気づいていないのか、女の子は気取った口調で言った。

「怖がらなくていいよ! おとなしく私の言うことをきいてくれたなら、無事に帰してあげるから」

 数多のスパンコールが縫いつけられている蝶のマスクが、天井の蛍光灯の光を受けて、華やかに輝いている。

「はあ……。そうですか……」

 場違いな仮面の乱反射に目が眩む。凛太郎は迷惑そうな顔をして、適当に返事をした。

「あなたには、とても名誉なことを頼みたいの。あのね……」

 蝶の仮面の女の子は得意げに切り出した。
 せっかくだから最後まで聞いてあげるべきか。凛太郎は迷ったが、しかし素早くきちんと伝えたほうが、逆に親切だろう。そう判断し、女の子の口上を遮る。

「あのさ……。君、貝塚 瑠璃かいづか るりさんだよね? 中学のとき、三年間ずっと同じクラスだった……」
「!」

 ミス・バタフライ改め貝塚 瑠璃は、蝶のマスクを自ら剥ぎ取ると、怒り心頭といった様子で床に叩きつけた。

「なんで分かったの!? 中学卒業してから、もう七年も経つじゃない! こんなの得意げに着けてたの、恥ずかしいじゃん!!!!」
「いや、それ、似合ってたよ……多分。あとね、瑠璃ちゃん、声が可愛いかったから、俺、覚えてたんだー」
「……………………」

 マスクの下から現れた瑠璃の顔は、なかなか整っている。美少女と言って差し支えない。眉が太く、目は大きい。小さな唇は、今はきゅっと引き結ばれている。

「久しぶりだね、瑠璃ちゃん」
「……………」

 人懐こく笑う凛太郎を、瑠璃は仇にでも出くわしたかのように睨みつけた。

「ところで、なんでこんな面倒なことを? 薬使って、ラチカンキンコウソク――おお、噛まずに言えた。ともかく大変だったでしょ? 俺に用があるなら、普通に声を掛けてくれればよかったのに」

 どこまでもゆったり凛太郎は尋ねる。その態度に神経を逆撫でされたのか、瑠璃は怒鳴った。

「普通に頼めないことだから、こんな面倒くさい手順を取ったんじゃない! 目的を果たしたら、こっちの正体を明かさず解放するつもりだったの!」
「普通に頼めないこと?」

 凛太郎はキョトンと目を丸くした。尋ねれば、瑠璃は口ごもる。

「だから……。私の偉大な研究のために、あなたの……が欲しいの!」
「え、ごめん、聞こえなかった。俺の何が欲しいの?」
「だから……!」

 大事な部分が聞き取れない。聞き返せば、瑠璃は仁王立ちになって、凛太郎に指を突きつけた。だが、その顔は真っ赤だ。

「だから、あなたの精子が! 欲しいの!」


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