アンビバレンツお兄ちゃん

犬噛 クロ

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前編

前編8(終)

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 それからしばらく二人で歩くと、男女が向かい合って話をしている場に出くわした。
 一号館と二号館の間、風羽と静香が頻繁に利用している屋外の休憩所である。

「あ、あれ、風羽じゃないですか? ――と、一緒にいる、あれが後藤先輩ですよ」

 遠目から見ても険悪なムードの二人は、一方は久宗 風羽。そしてもう一人は、静香が教えてくれたところによると、噂の後藤先輩とのことだ。
 風羽たちは、匡と静香の登場に気づいていないようだ。

「も、もう、こういうのはやめてください」

 びくびくと震えながら、風羽は言った。

「え? え? なに言ってんの? これくらい普通でしょ? 少ないくらいだと思うけど。俺って、女に冷たいってよく言われるんだ~」

 後藤は論点のずれた弁明を続けたが、精彩を欠いている。風羽が叛意を翻したことに動揺しているようだ。
 そして怯えてはいるが、風羽に引く気はないようだ。――決着をつける。
 風羽の決然とした態度が気に触ったのか、後藤は声を張り上げた。

「あ、それとも別の男ができたとか? 浮気ィ? こっちが甘くしてりゃつけあがって。これだから女はクソだよね!」
「浮気もなにも……だって……」
「俺のこと好きなんだろ!? 俺たち、つきあってるんだろ?」
「つきあっている?」

 風羽は幼子のように、後藤の言葉を繰り返した。

「そうだよ! あーあ、お前、処女だと……男慣れしてないと思ったのに! やっぱり清純な女なんて、この世にいねえんだな!」

 後藤が苛立っているのが、遠目でも分かる。
 静香は匡に耳打ちした。

「後藤先輩、キレちゃって……。匡お兄さん、あれマズイですかね。手が出る前に、私、行きましょうか?」
「いやいや、俺が行くよ。ありがとう」

 匡たちが後藤を制止するタイミングを見計らっているところで、いきなり風羽がプッと吹き出した。
 匡と静香、そして後藤は驚き、棒立ちになった。

 そもそも。
 風羽はどうして、なんで、後藤の誘いを断らなかったのか。

 ――だってそれは、お母さんの教えだから。

『友達は大事にしなさい。宝物だからね』

 大好きなお母さんが残した言葉。
 だけど、そうじゃないなら。相手がそのつもりじゃないなら。

 ――我慢しなければ良かった。

 風羽は腹を抱えて笑い出した。

「あはははは! ないですよ、ないない! 先輩、冗談ばっかりぃ! もう! 飲み会で隣同士になっただけで! ひとつふたつ話しただけで! つきあってるとか! もう、無茶苦茶ですよ!」
「え、でも」

 風羽は笑みを引っ込めると、相手の急変ぶりにオロオロと狼狽えている後藤先輩を見据えた。

「友達になってくれるなら、できるだけ優しくしたいと思ってたけど。――あの、先輩。私、彼氏とかいらないんです」
「え? な、なんで? だって、お前も年頃だし、つきあってみたいだろ? 俺、結構、彼氏にするにはいいタイプだと思うけど。優しいし、一途だし、見た目も悪くないと思うんだけど……」

 風羽を責める姿勢から懐柔に転じた後藤を見て、遠目から二人を観察していた静香は失笑した。
 哀れにも思える先輩に、しかし風羽は冷たく告げた。

「だって、私にはお兄ちゃんがいるから。――お兄ちゃんがいれば、彼氏なんていらない。欲しくない」

 あまりにきっぱりとした態度の風羽に、匡と静香はごくっと喉を鳴らした。

「――あ。これが、もしかして風羽砲?」

 匡が尋ねると、静香はコクコクと頷いた。

「ぶ、ブラコンかよ!? 気持ち悪い! お前、変態じゃねえの!?」

 後藤が怒鳴るが、風羽は一切動じなかった。

「はい、私はブラコンです。変態かもしれません。そのうえブスで、スタイルも良くないし、頭も悪い……。だから、いいじゃないですか? 先輩には、もっといい相手がいるんじゃないんですか? 私のことは放っておいてください」

 ――見込みが甘かった。甘すぎた。
 後藤は風羽をおとなしい女の子だと思い込んでいたのだ。好き勝手できる相手だと。
 しかし、それは間違いだ。
 風羽は決して従順な女子ではない。相手にどう思われようが、言うべきことは言う。そして別に、そういった性格を隠していたわけでもない。後藤が勝手に勘違いしていただけだ。
「友達は大事にする」。そんな長所を持つ風羽に優しくされたのを、後藤は「脈アリ」と誤解したのである。

「じゃあ、もう二度と、私には構わないでくださいね」
「く……っ!」

 完全に下に見ていた側から、あっさり切り捨てられた。
 怒りに駆られた後藤は、暴力に訴えようとした。

「バカにしやがって!」

 後藤が振りかぶった腕を、素早く近づいた匡が掴む。

「はい、そこまで。俺、その子の兄なんだけど」
「えっ」
「お兄ちゃん!?」

 風羽も後藤も驚きに固まった。
 風羽が周りを見渡せば、親友の静香までいて、こちらに手を振っているではないか。
 なにがなんだか。風羽が呆気にとられている間に、話は進んでいく。

「えーと、俺、この学校の先生と知り合いなんだけど、大事(おおごと)にしたい? 就活、始めてるんでしょ? しょっぱなから躓くの、嫌じゃない?」
「……!」

 匡はそう諭すが、その言葉は後藤の脳内を素通りしていく。

「あ、あんたは……!」

 なんだ、この人は。
 背は高く、体は細く、なにより美しい――。
 突然現れた人物は、後藤が憧れていた男、そのものだった。
 綺麗だし中性的で、とってもいい匂いがする。さぞ、女にモテるだろう。
 そんな男が、風羽の兄だったなんて。
 風羽はこんな素晴らしい兄に大切にされている、妹だったなんて。
 ――つまり風羽は、後藤がいいようにできる下々の者ではなく、むしろ高嶺の花だったわけだ。

「でっ、でも……」

 このまま自分だけが悪いなんて、納得がいかない。
 ――本音は、こんな素敵な男性に、悪い印象を与えたまま終わりたくない。
 往生際悪く、後藤はごねた。匡は意外にも、彼に同情するような態度を見せた。

「うんうん、君だけが悪いわけじゃないよね。女の子って不思議で、よく分からないとこがある。ズルいし、やり方が汚い。人の道から逸れた鬼畜なことをやらかしても、いつだって被害者面だ」
「お兄ちゃん……!」

 風羽は反論したかったが、匡は人差し指を自分の唇に当てて見せた。
 ここは任せておけということか。仕方なく、風羽は黙った。

「でもさ、そういうところも包み込むのが、男ってもんじゃない? 度量の広さっていうか。風羽のこと、許してやってよ。うちの妹は俺と一緒に育ったから、ほかの男を見る目がハンパなく厳しいんだ。でもきっとほかの子は、君の良さが分かると思うよ?」
「……! 分かりました……」

 匡の慰めに納得したのか、それとも単に匡への憧れが勝ったのか、後藤は矛を収めることにしたようだ。

「うんうん、ありがとう。やっぱり君は、素敵な男の子だね」

 後藤の腕を離し、匡は微笑んだ。

「お兄さん……!」

 もはや風羽のことは眼中にないらしく、後藤は潤んだ目で匡を見詰めたあと、名残惜しそうに去っていった。
 風羽はむっつりと口をへの字に曲げた。

「……なんかひどい」

 近寄ってきた静香が、風羽の肩を叩いた。

「いやいや、良かったよ。ああいうしつこい、思い込みの激しい男から恨みを買うと大変だよ。ずーっと、つきまとわれちゃう」
「うー……」

 匡はなにごともなかったように、淡々としている。

「これにて一件落着~」
「……………」

 それにしても、言いたい放題だったではないか。
 風羽は不信感に満ちた目で、兄を見上げた。

『ズルいし、やり方が汚い。人の道から逸れた鬼畜なことをやらかしても、いつだって被害者面だ』

 あれが兄の本心なのだろうか。

 ――妙に、実感こもってなかった?

 匡のあの台詞は、自分に対する当てつけだったんじゃないか。

 ――私、そんなにお兄ちゃんに苦労をさせたかなあ……。

 匡は風羽のことが本当に好きなのだろうか?
 むしろ、嫌いなんじゃないのか。

 ――よく分からない……。

 風羽の視線に気づいた匡が振り返る。
 その麗しい顔には、静かな笑みが浮かんでいるだけだった。





~ 終 ~

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