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しおりを挟む翌日、見事な二日酔いで朝を迎える。それでも、昨夜は楽しい時間を過ごせたので蓮に後悔はない。
なんとか気力を振り絞って後片付けをすませると、いつの間に出かけていたのか、ディルクが二日酔いに効く薬を買ってきてくれた。
もちろんディルクも二日酔いで、二人で薬を一気にあおる。爽やかな飲み口だと思ったそれは、後味がものすごく苦かった。
「にっが! すっげぇにがい!」
「ああ、すごいな」
ディルクの眉間のシワもすごい。それに笑って、蓮は効き目の良さに驚く。
不快感が、すうっと消えていた。
「ラクになるものだな」
ディルクも同じように感じたらしい。感心したような声を洩らす。
元気になったなら、と妙に味噌汁を恋しく思いながら軽い朝食用意し、それを二人で食べて、ディルクに送られて出勤した。
いつもと変わらない、蓮の日常だ。
店でも大きなトラブルはなく、閉店時間を迎える。従業員を帰し、いつものメンバーで閉店作業をしていると、予告通りにアホボン伯爵が従者を引き連れ姿を見せた。
余裕たっぷりでいる男に、相対するのは蓮だ。
「さあ、返事を聞かせてもらおうか?」
「断る」
初対面ではあるが、敬意を持てない相手なので、蓮の対応もそれなりになる。アホボン伯爵もそれに気付いたようで、眉をひそめた。
「ほう、それは私が伯爵と知ってのセリフか?」
「もちろん。身分を持ち出して人を従わせようとする、サイテー伯爵だってわかってるよ」
ばっさりと断り、言いたいことを言えて、蓮は少しはすっきりする。あとはこの最低男とその仲間たちが、ふんぞり返っていたところからの転落人生を歩むことを願うばかりだ。
「それは、この店の総意だと思っていいのか?」
「ああ、かまわない」
迷うことなくダーフィットが肯定すると、アホボン伯爵は顔を歪めた。
「ふん、後悔するぞ」
「しねぇよ。てか、すんのそっちだよ」
定番とも言える悪役の台詞に蓮は呆れ、ぞんざいに返す。
「伯爵である私が? バカなことを言う。これだからこちらの常識を知らない渡り人は浅はかで、そこの自分勝手な輩に利用されるんだ」
「利用しようとしてんの、アンタだろ。俺の意思なんて無視して」
「伯爵である私が決めたことだ。従うのが当然だろう?」
今まで、本当に恵まれた環境で暮らせていたのだと蓮は実感する。そして心の底から、あの日拾ってくれたのがディルクで良かったと感謝した。
「身分で、不本意なことに従わせるのは見逃せないな」
蓮の背後から割って入る新しい声に、アホボン伯爵はふんと鼻を鳴らす。
「身分というのは覆せない。実際に、私は偉いんだ。上に立つ者の言葉に、従うのは当然だろう?」
「へえ」
「なんだ、護衛でも増やしたのか? まったくもって、無駄だな。私に危害を加えれば、即座に打ち首だ」
「そんな権限、ないだろう? それこそ、おまえごときに」
「そこのおまえ、口の利き方に気をつけろ!」
長身の男を睨み付けるようにし、声を荒げる伯爵に合わせ、背後に控えていた配下の者が前に出てくる。いかにも荒事専門らしい男たちだ。
「気をつけるのは、そっちだ」
警戒するように、ディルクが少し前に出る。邪魔にならないよう、ダーフィットたちは後ろの方に控えていた。
自分の優位をわずかも疑わないアホボン伯爵は、蓮をかばうように立つ二人を鬱陶しそうに見るだけだ。
「渡り人からの恩恵を独占しようと悪巧むような輩は、礼儀も知らないのか。そこのおまえ、今からでも私の元へ来た方が賢明な判断だと思うぞ。そうすれば、そいつらの無礼は見逃してやってもいい」
「――これが伯爵とはな」
ため息混じりなのに、いい声だなと蓮は場違いなことを考える。ディルクとはまた違った、人を従えるのを当然とするような響きがあった。
「なんだと! 爵位もない愚民のくせに」
激高するアホボン伯爵に、光の加減によって色を変えるヘーゼルの瞳が、冷ややかな視線を投げる。たっぷりと間を開けて、ふ、とその人は笑った。
「そう言うおまえは、私の顔もわからないような、底辺貴族なのだろう」
「はあ?」
怪訝そうに、アホボン伯爵がディルクの傍らにいる男を睨む。
「よくそんな無能で、伯爵としてやってこられたな」
「殿下、店に被害がでると困ります。煽るのはそのくらいに」
「ああ、そうだったな」
誰かが、息を呑む。
室内の温度が、下がった気がした。
「で、んか……」
茫然と、アホボン伯爵が呟く。
それに、ディルクがしっかりと頷いた。
「そうだ。この方はこの国の第一王子である、アルフレッド殿下だ」
衝撃の大きさを物語るように、アホボン伯爵が目を見開く。
同じように、蓮も驚いていた。
王城から蓮を迎えに来るついでに、アホボン伯爵の方も対処するとしか聞いていない。到着が直前だったせいで紹介はなく、ディルクの同僚の騎士という認識でしかなかった。
だいたい、ぞろぞろと共を引き連れてきているアホボン伯爵と違い、従者の一人も連れていない。
「なんでこんなところに」
王族への謁見は、そう簡単には叶わない。一市民が、会えるはずのない人だ。
「直属の部下から、報告が上がったんだ。私が直接来てもおかしくはない」
「直属……第三騎士団?」
いまだに衝撃から立ち直っていないアホボン伯爵は、ディルクが第三騎士団所属で、第一王子殿下と会う機会が設けられるのを失念していたようだ。
知らなかったのかもしれない。調べもせず、迂闊だ。
ばかだなぁと、蓮はあわれむような眼差しを向けた。
第三騎士団は魔獣討伐が主とされているが、当然他にも仕事はある。臨機応変といえば聞こえはいいが、色々押しつけられて雑多なことをしていると聞いた。
詳しい仕事内容は、機密事項に当たるので知る人は少ない。
「第三騎士団は、貴族の不正関係も多く扱う。なにせ、私が所属しているからな。身分で忖度できない」
自信たっぷりだったアホボン伯爵の顔が、今はもう蒼白になっている。殿下本人に言ってしまったことを思い出しているのかもしれない。どうやっても、言い逃れなどできそうになかった。
「最近、私利私欲に走る者が多い」
「わ、わたしはそんなつもりでは」
「では、どんなつもりで脅しをかけた? 調査は終え、報告は受け取っている。おまえの庇護下にある商会の悪事とともにな」
絶望から、アホボン伯爵がその場に崩れ落ちる。逃げだそうとした配下は、不自然に身動きが取れなくなって倒れ込んだ。
「さて、そろそろ城に戻らなければいけないが」
このままにしておけない状況を、殿下が眺める。店に被害はないが、男たちが無様に転がっていた。
「俺が連れて行きます」
「いや、いい」
手間だろうと、殿下の指先が何かを描く。伯爵とその配下たちが、音もなくふっとその場から消えた。
「え」
「邪魔な者は、それ相応の場所に転移させただけだ」
(この人は、転移魔法が使えるのか)
感嘆するように、蓮は殿下を見つめる。ああ、と得心がいったように殿下は頷くと、穏やかに笑った。
「魔法に、馴染みがないんだったな」
「ない、ですね」
生活魔法は、自覚なしに世話になっていることもあるが、これぞ魔法というものは、見る機会もない。
「さて、一緒に城の方へ来てもらってもいいだろうか?」
「あ、はい」
「支度が終わったら外に来てくれ。急がなくていい」
馬車を回してくると、殿下は店を出て行く。
気を遣ってくれたのが、わかった。きっと、優しい人だ。
改めて、蓮は店の中を眺める。理想の場所で、温かく迎え入れてくれて、すっかり蓮の居場所になっていた。
離れるのは、当然寂しい。いつもよくしてくれた、人たちとも。
「お世話になりました。働かせてもらえて、すげぇ楽しかったです」
おう、とか、ああ、とか、それぞれ声が上がる。名残惜しさはあるけれど、この選択が最善だ。
くるりと蓮は振り返り、今度はディルクと向き合う。軽く、深呼吸をした。
「拾ってくれたのが、ディルクでよかった。世話してくれて、面倒みてくれて、ありがとう。すげぇ、楽しかった」
「俺も楽しかった」
二人共が、過去形だ。
王宮に保護されることが決まっているので、これから先は一緒に暮らすことは叶わない。一緒に食事をすることも、甘い物に喜ぶディルクの顔を見ることも、蓮はもうできなくなった。
「じゃあな」
ばいばい。
案外、あっさりした別れだった。
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