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しおりを挟む帰宅して、ドアを開けた瞬間、香ばしい香りが漂ってくる。いつもの空腹感を刺激する、料理の匂いを想定していたディルクは、思いがけない香りに目をしばたたいた。
蓮が共に暮らすようになってから、ディルクの生活はかなり変化している。最初は戸惑った、お疲れとかけられる軽やかな声と、その時々で違うおいしそうな料理の香りが出迎えてくれるのだけれど、今夜は街角や、パン屋に入った時のような香りがした。
家中に広がるように、空気に溶け込んで辺りに漂っている。香りに誘われるようにキッチンへ向かうと、ディルクの気配に気付いたのか、ひょいっと、しゃがみ込んでいた蓮が顔を出す。目が合うと、へにゃりと表情を綻ばせた。
「お疲れさま。ちょうどいいタイミングだよ」
なんだ? と蓮の手元をのぞき込むと、オーブンの鉄板の上にパンが並んでいる。見間違えでなければ、焼きあがったばかりのパンだ。ちょうどいいタイミングに、ディルクは納得する。家中に広がる香りの元は、それだった。
「パンを焼いたのか?」
本当に? と、こんがり美味しそうに焼き上がったパンをディルクは凝視する。ふっくらコロンとしたものが、整然と並んでいた。
「そ、火力の調節がよくわかんなかったけど、うまくできてよかったよ」
あっさりと肯定するが、料理人もいないのに、パンが家で作れるなど考えたこともない。ディルクの認識では、買ってくるものだ。
「すごいな」
驚きで、それ以外の言葉が浮かんでこない。ふふん、と蓮がいたずらっ子のように笑う。
「もっとほめてもいいよ」
「ああ、本当にすごいな。驚いた」
「素直だなぁ」
ひょいっと蓮の手が伸びてきて、わしゃわしゃとディルクの頭を撫でる。驚いて一瞬固まり、近くにある蓮の笑顔でディルクは軽く息を呑んだ。
「あ、悪い。いやだった?」
「いや、少し驚いただけだ」
乱暴な手つきのようで、蓮の手は優しい。むしろ――と浮かんだ考えに、ディルクはまた驚く。
「飯にしよ。手、洗って着替えて来いよ」
「あ、ああ」
冷める前に早く、とキッチンを追いやられ、ディルクは言われた通りに手を洗う。この家に蓮が来てから身についた習慣だ。うがいもする。その後で自室に向かい、式典用の正装ほどではないが、きっちりした騎士服から部屋着に着替えた。
自然と、肩の力が抜ける。部屋から出た途端、また香ばしい香りが鼻先をくすぐる。食欲を誘う香りに、ぐうぐうと腹が空腹を訴えた。
同じ空腹でも、職場の食堂へ向かうのとは違う感覚だ。腹を満たすという意味では同じなのに、感情が違うと訴えていた。
何が違うのかと考えながら階段を降りていくと、テーブルの上に食事はもう用意されている。相変わらず手が込んでいて、どれも美味しそうだった。
ディルクの作る物とは、色味からして違う。今夜は、カラフルな野菜が入った目に鮮やかなスープに、白身魚を皮までぱりっと焼いて、バターとレモンの香りが爽やかなソースがかかっている。温野菜も、たっぷりと添えてあった。それに加え、野菜のマリネもある。カルラが多めに用意する食材を、蓮は使い切らなければと使命感に燃えていた。
先ほど天板に並んでいたパンは、カゴに盛られ中央に置かれている。一人分にしては量が多いように思えるが、カゴは二つ並んでいた。
「こっちが、チーズが入ったので、こっちが、ちょっと甘めの野菜の餡が入ったの」
二種類あるから好みの方を食べられるだけどうぞ、と勧められる。せっかくなので、とろけているだろうチーズの方へディルクは先に手を伸ばす。すぐにそのまま、かじりついた。
「うまいな」
食に強いこだわりはないが、今まで食べていたものよりパン自体の香りがいい。焼きたてなので表面はパリッとしていて、中はふんわりとやわらかかく、とろけたチーズとの相性がよかった。
買ってすぐに、パンを食べることなどほとんどない。焼きたてのパンがこんなに美味しい物だと、ディルクは知らなかった。いくつでも食べられそうだ。
「よかった。二種類焼いたから、けっこういっぱいになってさ」
「レンは、料理人を目指していたのか?」
二十歳を過ぎているが、学生だったとは聞いている。教育水準が違うことに、ひどく驚いた記憶は新しい。
「まさか。食べられたらいいってかんじだよ」
「かなりの腕で、美味しいと思うが」
「ありがとな。そーいってもらえると、作りがいがあるよ」
にこにこと、蓮は嬉しそうにしている。甘い餡が入っているというパンに手を伸ばしながら、蓮が表情を曇らせているところを見ないと、ディルクは気付いた。
あの日、震える指先で縋るように、ディルクの服の裾を掴み、不安に瞳を揺らしていた蓮を今でも覚えている。そこに、少しの嘘も見いだせなかった。利用してやろうという、下心も。
貴族社会に身を置いていれば、悪意に近い感情はとても身近なもので、鈍いディルクでもわかる。主になんとなくわかる程度なので、ルイには感覚で生きていると揶揄されていたが。
それでもあの時の蓮から感じたのは、混乱と絶望と、わずかな希望。伸ばされたその手を振り払うなど、ひどく残酷なことをするようで、ディルクにはできなかった。同時に、庇護欲とはこういうものなのかと知った。
「……これもうまいな」
野菜の餡が入っていると言っていたパンは、甘みの強い芋をペースト状にして生地で包み込んでいる。ディルクは似合わないからと公言しないが、甘い物を好んだ。
以前はなかなか食べる機会はなかったが、蓮と一緒に出かけるようになってから、食べる機会が多い。甘い物が好きなようで、気になる品を見つければ、ディルクではためらう店でも平然と入って買ってくる。それを惜しむことなく、ディルクへも半分渡した。
実質買っているのがディルクだからかと、何度目かの時に気づく。
保護すると決めたのはディルクだ。恩に着せる気もない。俺のことは気にしなくていいと伝えれば、蓮はきょとんとした。
――一緒に食べた方が、うまいだろ?
もちろん、買ってもらっていることにも感謝していると、いつも真摯に伝えてくれる。気付けばディルクだけでなく、やわらかな笑顔と気さくな態度で、蓮は街の人たちの懐にするりと入り込んでいた。
知り合いもいないまったく違う世界で、こんな風に自分のできることをして、笑っていられるものだろうか――自分の身に置き換えてみると、ディルクはうまく想像できない。蓮の強さで、流してはいけない気がする。けれど最低限の人付き合いしかしてこなかったディルクには、どうしていいかわからなかった。
ぐるぐると苦手な考え事しながらでも美味しい料理を口に運んでいると、あのさ、と蓮が何事か切り出す。手を止め、ディルクは前を向いた。
「食堂で食べたかったら、食べてきてもいいんだからな」
前はそうだったんだろう? と言われても、食堂に足を運びたいとは思えない。美味しいはずの料理が、今はもう魅力的に思えなかった。
(そうか、蓮との食事の時間が楽しみなのかもしれない)
「作るのが、めんどう?」
だったら、たまには外食するのもいいかもしれない。どこの店がいいかと、ディルクはいくつかの店を頭の中にピックアップした。
「まさか。ただ毎日俺の作った飯じゃ、あきるんじゃないかなって」
「それこそ、まさかだ。蓮の作る物は、どれも全部おいしいよ」
自覚なしにディルクが表情を緩めると、く、と軽く息を詰めた蓮が、うわぁと声をこぼす。無自覚のタラシってこえぇと、わけのわからないことを呟くので首を傾げていると、何かの決意を持って顔を上げた。
思わず、ディルクは身構える。その、と表情とは真逆な蓮の声が、空気を震わせた。
「甘いお菓子も、作ったら食べてくれるか?」
そんなことか、と妙な安堵を覚える。
「無理はしなくていいけど」
眉を下げた蓮に付け加えられ、やっぱりやめたと言われそうでディルクは慌てた。
「喜んで食べる。むしろ、菓子まで作れるのか?」
「そっちのが、得意かも? 食べてくれんなら、作る」
「ああ、食べる」
そっかぁ、と頷く蓮が表情を緩める。喜ぶのはむしろ、ディルクの方だ。
「楽しみにしている」
「おう」
そう言って笑う蓮自身も、舐めたら甘そうだった。
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