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1巻

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 お茶のカップが手からすべり落ち、ガチャンと音を立てた。

「キャアァァーー!? お、奥様っ、奥様が……っ‼」

 お茶を持ってきたメイドが、慌てて叫びながら部屋を飛び出していく足音が響いた。
 その日、クロイツ公爵夫人であるロレッタは毒に侵されて倒れた。


 ──結婚したのは、一ヶ月前。 
 アスウェル王国の王都。
 ルビアス侯爵令嬢だったロレッタ十九歳。深紅の瞳に毛先を巻いたローズレッドの長い髪が印象的な美人だ。高慢で高飛車な彼女は、男を取っかえ引っかえする悪女と呼ばれていた。事実、今までの恋人は一人ではない。それが結婚してからは、夫も顧みない悪妻へと昇格した。
 夫は、アルフレード・クロイツ公爵。二十一歳の彼は、銀髪に珍しい黒い瞳。目にかかるほどの前髪からのぞかせる黒い瞳は、他者を威圧するような鋭いものだ。若い頃に外交のために父親と他国に行き、父親が早逝したために二十一歳の若さで公爵位を継いだ。今は、アスウェル王国の王宮騎士団にも勤めている。
 ロレッタが密かに想いを寄せていた男性だった。
 でも、彼には幼い頃から婚約者になると言われていたエリス・シャムロック男爵令嬢がいた。にもかかわらず、ルビアス侯爵令嬢だったロレッタが父親に結婚を頼み、なかば無理やり結婚にこぎつけた。
 アルフレードは、意に添わぬ結婚だったのだろう。
 彼との結婚がすぐに決まり、あっという間に結婚式を行った。多くの令息から求婚されていたロレッタは、すぐに結婚が決まったことで、アルフレードも自分との結婚を喜んでくれるものだと思い込んでいた。それなのに、彼は一度も笑いかけることなく、冷ややかな黒い瞳をロレッタに向けていた。
 祝福する参列者が並ぶ王都の聖堂での結婚式は、ロレッタもアルフレードもお互いに笑い合うことなく、二人だけが冷めていた。
 アルフレードは、ロレッタとの結婚に乗り気ではなかったのだろう。
 腹立たしい結婚式だった。ロレッタの望んだ結婚式のはずだったのに、笑顔さえ作れなかった。 
 健気さもないロレッタ。結婚式の夜には、主寝室の続き部屋の前で扉も開けずに「疲れたから、今夜は結構です‼」と腹立たしい感情のままに初夜すら断った。
 それでも来てくれるものだと期待した。だけど、彼は「そうか……」とだけ言って、お互いに扉を開けることはなかった。
 そうして、結婚して一ヶ月が過ぎた。
 夫婦でありながら、会話らしい会話もなかった。夫婦とは名ばかりの結婚。
 周りからは跡継ぎはまだかと噂されていると、父親のルビアス侯爵から聞かされた。
 つまり、結婚してたった一ヶ月で不仲だと噂が立っていたのだ。
 事実、夫のアルフレードは、ロレッタにねやを求めなかった。
 結婚して一ヶ月も経たない時に、彼の幼馴染おさななじみであるエリス・シャムロック男爵令嬢が、王都に住むロレッタたちのクロイツ公爵邸に滞在することになった。理由は城で行儀見習いをするため。
 城へと通うために、滞在させてほしいというものだったが、一夫多妻制もあるこの国では、裕福な貴族なら第二夫人をとることはある。そう思えば、本音はアルフレードとの結婚を求めてだろうと察せられた。
 本当なら、アルフレードの幼馴染おさななじみであるエリスと彼が結婚することになったのだろうから……
 次から次へと男を取っかえ引っかえしていたロレッタ。アルフレードとエリスを引き離してしまったから罰が当たったのだろうかとさえ思うほど、ロレッタは内心では弱気を潜ませていた。誰にも知られることなどなく。
 だからといって、殺されそうになる謂れはない。毒殺未遂は事件で──
 ぼんやりとした頭で思い出していると、まぶたが少しだけ開いた。
 ロレッタは、確かに悪妻だろう。でも、理由もなく誰かを殺そうなどとは思わないし、結婚してから不貞行為などもなかった。ただ、夫のアルフレードの心が開くのを待っていたのだ。そんなロレッタを可哀かわいそうだとすら思えた。
 第三者的目線で自分のことを思い返すロレッタの頭に、ふと現代の日本が夢のように思い浮かんだ。
 車にスマホ……こんな貴族の邸ではなく、日本人の自分が、交通事故で他界してこの世界に生まれ変わったのだとわかる。自分が転生していることに気付いたのだ。
 ロレッタの記憶もある。彼女の前世は、日本人なのだと漠然と理解した。
 だからといって、今は日本人ではなくこれまで通りロレッタのままだ。何も変わらない。彼女の中に知識が増えたぐらいの感覚だった。

「……っ目が覚めたか? ロレッタ」

 名前を呼ばれて、顔を押さえていた手が止まる。ベッドサイドを見ると、アルフレードが心配そうな表情で座っていた。

「アルフレード様……?」

 驚いた。目覚めてすぐにアルフレードがいたことに。
 眠っていた身体からだを起こそうとすると、ロレッタはけんたいかんすらないことに気付いた。
 毒を盛られたはずなのに、身体からだが毒に侵されている感覚がない。まるで、昼寝から目覚めたようだった。
 身体からだの違和感のなさに、無意識に両手を見ようとすると、左手のぬくもりに気付いた。心配気なアルフレードがロレッタの手を握りしめていたのだ。


 まるで、ロレッタを心配して離れがたいと思えるほどの熱だった。

「大丈夫か? 目が覚めてよかった……」

 アルフレードは、ホッとした気持ちを吐き出すように、はぁと息をいた。

「あの……アルフレード様?」

 ロレッタが握られた手を見て言うと、アルフレードの手が離れる。

(あぁ、嫌だったのだろうか)

 心が沈み、ロレッタの表情が曇った。すると、アルフレードの表情も険しくなった。

「先ほどまで、医師がいてだな……目が覚めれば峠を越すだろうと言われた。犯人捜しはすでに行っているから、何か思い当たることがあれば言ってくれ」
「……私は、目が覚めたばかりですよ……それなのに、すぐに尋問ですの?」
「そういうわけでは……」

 今は部屋にアルフレード以外は誰もいない。
 先ほどまでいたであろう医師の手前、心配する夫に見せるために手を握っていたのだろうか。
 ロレッタを心配してではなくて……
 そのうえ、目が覚めたばかりなのに、犯人のことを聞くなんて……

(心配げに私を見たのはきっと私が前世を思い出してほんの少し混乱していたせいだ)

 一瞬でも、期待などしてはいけない。それなのに、胸を押さえたロレッタをアルフレードがいたわろうとした。

「大丈夫か? ……何か温かいお茶でも持ってこよう。欲しいものがあれば、なんでもすぐに持ってくるが……」

 アルフレードがロレッタを気遣うなんて不思議だった。少しだけ焦っているようにさえも見える。
 でも、彼はエリスとの結婚を邪魔したロレッタが嫌いなはずだった。そう思っていた。

(………………まさか、犯人はアルフレード様じゃないだろうか)

 いや、でもそれならロレッタと離縁すればいいだけの話。毒殺未遂事件を起こしてまで名ばかりの妻であるロレッタを排除して、醜聞をおこすだろうか。
 じとりとアルフレードを凝視するロレッタ。アルフレードがその視線に戸惑う。

「ロレッタ? どうした? 何を考えている?」
(怪しい……怪しいあなたのことを考えているのですよ)

 不審な目でアルフレードをジッと見ていると、彼がふいっと顔を逸らす。それに、胸がチクンとした。

「お茶は結構です。アルフレード様は、お仕事に戻ってくださいませ」

 アルフレードを一瞬だけ疑ったのに、もうそんなことはどうでもよくなった。

「……俺は、君の夫だぞ」
「知ってますわ。それがなんだというのです」

 ベッドで身体からだを起こしたまま腕を組んでツンとそっぽを向いて言った。今さら夫だと言われても、何が言いたいのかわからない。先に目を逸らしたのはアルフレードだ。
 いつものようにアルフレードの冷たい瞳がロレッタに向けられ、彼は立ち上がった。

「……医師とはいえ男だ。その格好はやめろ」

 腕を組んだまま胸元を見ると、大きく開いた襟ぐりにはレースがあしらわれている。いかにも派手な赤色で、なめらかな肌触りのいい生地のナイトドレス。確かにロレッタのナイトドレスの中でも少し派手だろう。
 思わずロレッタの顔がカァッと赤くなる。前世を思い出さなかったら、そうは思わなかったかもしれない。

(でも、これが私なのよね)

 頬を少しだけ紅潮させたロレッタに気付いたアルフレードが、一瞬だけ不思議がった。

「ロレッタ……?」
「な、なんでもありません」

 指摘されたことが、急に恥ずかしくなる。その勢いのまま掛ぶとんを頭まで被り丸くなった。
 その中で、アルフレードが部屋を出ていく音が聞こえていた。
 名残惜しそうに出ていったアルフレードに気付かないままで……


 ――翌日。
 薬を飲んで寝ていたせいか、すでに昼になっている。よく寝たと思いながら頭を押さえて起き上がると、テーブルの上の食事に気付いた。パンとミルクのみ。「またなのね……」と、冷ややかな気持ちでベッドから下りた。
 侍女を呼び出すために、ベッドのそばの使用人休憩室に直結しているサーヴァントベルの紐を引っ張る。そのままベッドサイドで、物憂げにロレッタは待っていた。
 ロレッタが腕を組むと、ナイトドレスの胸元に気付いた。昨日は、アルフレードに指摘されて少しだけ羞恥心があった。でも、今はそんなものはない。本来のロレッタには、これが普通だったからだ。
 やはり、前世の記憶が戻っても自分はロレッタなのだと納得する。
 すると、音を立てて部屋の扉が開いた。

(下品なこと……)

 ノックの音はないのにわざとらしいガサツな扉の開け方に、ロレッタは眉根を寄せ目尻を細くする。
 呼び出されたロレッタの侍女ベラは、元はクロイツ公爵家のメイドだった。二十代後半ほどで独身の彼女は、黒い侍女服に薄い茶色の髪を後ろに一つにまとめている。前髪も後ろにまとめているせいか、不貞ふてくされた顔がよく見えていた。
 彼女は、無理やりアルフレードと結婚したロレッタよりも、柔らかい雰囲気を醸し出し清純な容姿のエリスの方がお好みらしい。
 エリスは、アルフレードの婚約者になるはずだった。彼女は、幼い頃よりクロイツ公爵家に出入りしており、その彼女をベラはずっと可愛かわいいと思っていたのだ。
 そのせいで、いつも通りの不機嫌な面持ちでやってきた。

「ベラ。新しい食事を持ってきて。もうお昼だから、昼食を持ってくるのよ? その前に湯浴ゆあみもするから、タオルと着替えの準備もしてちょうだい。昼食は、湯浴ゆあみのあとに食べるからそれに合わせて用意をするのよ。湯浴ゆあみをしている間に作れるわよね? さぁ、すぐに動いてちょうだい」
「……わかりました」
「それと、ノックぐらいしてちょうだい。誰の部屋だと思っているのかしら?」
「……っ、わかりました」

 不貞ふてくされた様子で返事をするベラに、いつも通りの態度だと納得してしまう。
 彼女が仕えるのは、ロレッタではなくエリスだったはずだからだ。そのせいか、ロレッタの世話をすることがひどく嫌らしい。やる気のない態度に最初は仕方ないと思っていても、仕事をしない彼女を放置もできない。だから、仕事を頼む時は一つ一つ言わないといけなくなっていた。
 食事にしてもそうだ。アルフレードに腹を立てていたロレッタは、自室に食事を運ばせることが多かった。持ってくるのは侍女のベラやメイドだ。その食事も不味まずい。持ってこない日もあった。
 毎回言わないと、きちんとした食事が出ないのだ。
 何度も注意したが、滞在中のエリスがその度に使用人をかばうものだからロレッタはひたすら悪者にされる。そして、使用人たちは改善すらしない。
 そのうち、食事も当てにしなくなったロレッタは、外食が増えていた。
 アルフレードも、ロレッタが外を出歩くことについて何も言わなかった。

「……疲れたわ」

 ベラに急いで準備させた湯浴ゆあみ。ナイトドレスを脱いで温かい浴槽に浸かり、ぽつりとつぶやいた。もう何年も湯浴ゆあみをしたことがない感覚に陥る。そんなわけないのに。
 毒に侵されたあとなのに、身体からだは思ったよりもすっきりしている。ただ、心が疲弊している。
 これからも、毎日あの使用人たちを抱えて、ロレッタに見向きもしない夫と結婚生活を続ける必要があるのかと悩んでしまう。
 嫌われ者のロレッタと違い、エリスなら使用人一同大歓迎だ。実際、彼女は前クロイツ公爵にも使用人にも可愛かわいがられており、幼い頃からクロイツ公爵邸に馴染んでいる。
 ロレッタは命令をして使用人を使うだけ。それにひどく疲れた。

「……私が離縁すればいいことよね」

 ロレッタは、アルフレードが好きで、父親であるルビアス侯爵に頼んで結婚した。
 ルビアス侯爵は、公爵家の彼と一人娘の結婚を反対することもなく、それどころか男と遊んでばかりのロレッタが、結婚し落ち着くならという気持ちもあったかもしれない。そもそも、ルビアス侯爵はロレッタが誰と付き合っていても何も言わない父親だった。
 あっという間に決まった結婚だった。アルフレードがロレッタに好感など持つはずもなかった。
 ロレッタは前世を思い出したせいか、自分のしたことが間違いだったと気付いてしまった。


 湯浴ゆあみを済ませて部屋に戻ると、テーブルの上にはオムレツにサラダにパンにスープ……と食事が置いてある。オムレツは、嫌いではない。でも、ここのオムレツは少し硬めだ。

「柔らかいオムレツが好きなのよね……でも、食べられるから良しとしましょう」

 好みでもない食感のオムレツを味気なく食べて、そのあとは医師の診察を済ませた。
 毒が身体からだに残っているかもしれないから、しばらくは激しい運動などしないようにと言われて終わりだ。

(でも、身体からだに毒が残っている感覚はないのよねぇ……)

 自分の身体からだいぶかしみながら、部屋の陽当たりのいい窓辺へと移動した。
 部屋で安静にすることに異議はないけど、その都度食事などを使用人に指示することが面倒くさい。仕事なのだから、割り切って滞りなくやってほしい。でも、そんなことは無理なのだ。
 憂鬱な気分で窓辺に膝を立てて座っていると、エリスがお菓子持参でやってきた。

「ロレッタ様。おかげんはいかがでしょうか。使用人の気が利かないと言って、お叱りになったと聞きました。お菓子をお持ちしましたので、これで許して差し上げてください」

 小柄で可愛かわいらしいエリスは、柔らかなピンク色のストレートな髪をなびかせて、笑顔でお皿にのせたお菓子を差し出した。
 ロレッタとは、正反対の容姿。ロレッタの方が外見は大人っぽいが、童顔のエリスはロレッタよりも一つ年上の二十歳ほどだった。
 そのエリスの笑顔がかんに障る。まるで、使用人の不始末を主人が謝罪に来ているような構図に苛立ってしまう。

「……気が利きますのね。さすがエリス様ですわ。他人の邸の使用人の謝罪に出向くなんて……」

 エリスに笑顔で対応した。

「他人だなんて……私たち家族になりますのに……」
「家族……」

 悲しげにそれでいて悩まし気にエリスが言うと、笑顔を作っていたロレッタの表情が曇ってしまう。

「もしかして、アルフ様から、お聞きになってないのですか? 私とアルフ様が結婚することを……第二夫人になりますのよ。結婚したあとにお伝えする気だったのかしら? ……結婚をまた邪魔されては困りますものね」
「アルフレード様はなんと?」

 そんなのエリスに聞かなくても決まっている。それでも、ロレッタは聞いてしまっていた。

「もちろん賛成ですわ。私たちは、幼い頃から結婚するつもりだったのですから」

 にこりとする可愛かわいらしい笑顔が嫌い。前世を思い出して悪妻はやめようと思っても、ロレッタである自分の気持ちは変わらないのだ。
 でも、ふと思った。

(……そうだ。妻をやめればいいんだ)

 離縁すれば悪妻にもならないし、そのあとは悪女もやめて質素に生きればいい。どうせなら、スローライフを楽しむという手もある。

(ルビアス侯爵の田舎の別荘を借りるか、いただいて王都を去ればいいんだわ。そうと決まれば、すぐにアルフレード様に離縁を申し入れましょう!)

 良し‼ と思いながら拳を握るとエリスがまだクッキーを持って立っていた。

「ロレッタ様。落ち込むのはわかりますけど……クッキーでも食べて元気を出してくださいね」

 漠然とスローライフについて考えていると、落ち込んだと勘違いしたのかエリスが笑顔で言う。

「あら、まだいましたの?」
「先ほどから、ずっといますわ!」

 まだ、いたのねぇ……と思う。すでにエリスを忘れていた。スローライフのことを考えている間にいなくなっていればいいものを。

「ごめんなさいね。しけたクッキーは好みではないの……それに考え事をしたいから一人にしてちょうだい」
「しけただなんて……」

 エリスが、あざ笑うかのようないびつな笑顔で近づこうとした。ロレッタに美味おいしいクッキーなんて持ってきたことはない。硬い焼き菓子の時もあれば、ぱさぱさになった焼き菓子の時もあった。塩辛いクッキーだって持ってこられたこともある。
 そんなエリスのクッキーなんて、ロレッタには食べる義理はないのだ。

(どこをどう見たら、私がそんなお人好しに見えるのかしらねぇ……)

 その時、いつもなら仕事でいないはずのアルフレードが部屋にやってきた。

「エリス? ここで何を?」

 アルフレードの姿を見ると、先ほどの笑顔から一変したエリスが涙ぐみ、彼に寄り添う。
 変わり身の早さは尊敬する。

「なんでもありませんわ。クッキーがお口に合わないようで下げろと言われたのに、私がお勧めしたのがいけないのです。使用人たちも、ロレッタ様を怒らせないように頑張がんばっていることをお伝えしにきましたのに……」

 そんな言い方をすれば、ロレッタが気に入らなくて一方的に言ったように聞こえる。でも、これがエリスのやり方だった。
 アルフレードも、いつもため息をくだけでロレッタをかばったことなどない。

「……でしたら、そのクッキーはアルフレード様とお召し上がりになってくださいな。私は、休みたいのですよ」

 ツンとして窓の外に視線を移して言った。どうせアルフレードにそのクッキーは食べさせられないことはわかっている。
 ロレッタは、エリスを横目で見る。

「で、では、アルフ様にはお茶の準備をしてきます‼」

 案の定、エリスはかすかに慌てていた。クッキーが不味まずいと確定した瞬間だ。

「ロレッタ。身体からだはまだ悪いのか? 医師は、安静にしていれば問題ないと言っていたが……」

 アルフレードのロレッタをいたわる言葉に驚いて彼を見上げた。エリスではなく、ロレッタの心配をしているのだ。

「エリス。ロレッタは、まだ療養が必要だ。使用人が大事なのはわかるが、ロレッタに負担をかけないようにしてくれ」
「そんな……私、そんなつもりじゃ……使用人たちがロレッタ様のお気に召さずに落ち込んでいますから、仲を取り持とうと……」
「エリス。今のロレッタには療養が必要だ。使用人の機嫌を取るのも、今すべきことではないはずだ。クッキーも下げてくれ。今は急にはそんなに食べられないだろう。使用人たちと食べなさい」

 食欲はある。エリスの持ってきたクッキーを食べたくないだけで、食べたい気持ちはあるけども……
 アルフレードは寄り添っていたエリスを抱き寄せることなく、つかつかとロレッタのそばに来たと思うと、無言で抱き上げた。

「ア、アルフレード様!?」
「ベッドで休んでいた方がいい」
「でも……」

 ロレッタがエリスに視線を移すと、こちらをにらんで立ち尽くしたままの彼女と目が合った。ロレッタの視線の先に気付いたアルフレードが振り向くと、彼女はつり上がった眉を華麗に下げた。

「エリス。下がってくれ」

 エリスが、バツが悪そうに少しだけ顔を赤くした。

「失礼します‼」

 アルフレードにそう言って、エリスが頭を下げてバタバタと部屋を去っていく。せめて、静かに出ていってほしい。

「出ていってしまいましたわよ?」
「別にかまわないだろう。それともエリスに用事でもあったのか?」

 そう言いながら、アルフレードがベッドにロレッタを優しく下ろした。

「いえ。まったく、ですわ」

 ロレッタが呼び出したわけではないのだからかまわないけど、アルフレードが彼女を追わない ことが不思議だった。だからといって、エリスを追わない理由を聞く気もない。

「アルフレード様。お仕事はお休みですの?」
「休むのはおかしいか?」
(おかしいのかしら?)  

 よくわからない。真面目なアルフレードが、休むこと自体が珍しいと思うのだ。
 アルフレードが無言でロレッタを凝視していることに気付かないまま、ムムッと考え込んでいると、彼がロレッタの隣に腰を下ろし、先に口を開いた。

「ロレッタ。何か気になることでもあるのか? 悩みがあるなら聞こう」
「悩み……お伝えしたいことはありますわ」
「なんだ?」
「私と離縁してくださいませ」

 ベッドサイドで隣同士に座り、ロレッタと顔を合わせているアルフレードとの間に無言の空気が流れる。むしろ、時が止まったようにアルフレードは動かない。


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