ドールハウス

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 青色の瞳の美しい少女は、窓際のティーテーブルに頬杖を付き、物憂げな表情で窓の外を覗いている。
「ねえ、アイリス」
 アイリス、それは彼女が僕に与えた名前だった。
「お外ってどんなところなの。私、お外って行ったことないの。正確には、あるんだけど、とっても小さい時だったから、もう忘れちゃったのよ」
 僕は答えようにも答えられなかった。なぜなら僕は「人形」だから。僕は今、紺色のドレスとボンネット帽を身に纏い、彼女と差し向かいの椅子の上に座っている。あの日、僕は彼女の手によって、「人間」から「人形」に姿を変えられた。人形となった今は、声を出して会話をすることができない。
「アイリスはお外から来たでしょう。お外とここでは、どっちが楽しい?」
 この質問は、正直僕にはどうでもよかった。僕は幼い頃、家族に捨てられて救貧院で育った。十歳の時、とある紳士の屋敷に引き取られ救貧院を出たが、結局、二年余りでその屋敷も抜けだした。十二歳になっていた僕は救貧院にも戻れず、盗みをしながら生活するしかなかった。だから、総じて外にはいい思い出はなかった。
「そうね、アイリス。お外も、ここも、どっちも楽しくないわ」
 彼女はそう言って僕の方を見た。青い瞳が宝石のようにきらりと光った。

 暫くすると、彼女は窓から目を離し、椅子から立ち上がった。
「いらっしゃったわ。今日はお客様がいらっしゃる日なのよ。私、ご挨拶しなくちゃいけないの。アイリスも、一緒に行きましょう」
 僕は彼女の胸に抱かれて、部屋を出た。エントランスホールへ続く大理石の階段を下りると、そこには一人の紳士が立っていた。
「ごきげんよう、お嬢様」
 紳士はそう言って、帽子を前に掲げてお辞儀をした。彼女はスカートを持ち上げて会釈した。
「伯爵、首都よりはるばるようこそお越しくださいました」
「公爵に呼ばれたんじゃあ、参上しないわけにはいきませんでねえ。ところで公爵はまだ、お帰りになってはいないのかな」
「ええ、でも明朝にはこちらに到着します。それまではどうかごゆっくりと、この館で旅の疲れを癒してくださいませ」
「ではお言葉に甘えて、一晩お世話になりましょう。ところでお嬢様、そちらは大変に美しい人形でございますね」
 伯爵は彼女の腕に抱かれた人形の僕を指さして言った。
「アイリスと申します。紫色の瞳をした人形はこの子が初めてなんです」
「確かに、珍しい色ですね」
 そう言って、紳士は僕の顔を興味深げに覗き込んだ。その時、僕はこの紳士が誰なのかようやくわかった。


 鏡の前に、僕は立っていた。僕は一時的に、人形から、元の人間の姿に戻っていた。
「伯爵はアイリスのことが気に入ったみたいよ。だから今晩の給仕はアイリス、あなたがやるのよ」
 これは僕が彼女の奇妙な「術」によって人形にされた後に知ったのだが、彼女は人間を人形に変えるだけでなく、人形を人間に戻すこともできた。この館には、僕以外にも人形にされた人間がいるが、彼女はこうして度々、彼らを人間の姿に戻して給仕をさせることがあった。
 すっかり伸びた僕の髪は、人形の時と同じ、腰のあたりまで届いていた。僕は彼女に手渡された紺色の給仕服に袖を通そうとした。だが、人形でいた期間が長かったせいか、思い通りに身体を動かすことができなかった。彼女に手伝ってもらいながら、僕はようやく服を着替えることができた。彼女は僕の長い髪を、人形にするのと同じように、リボンを使って後ろで束ねた。
「伯爵はお眠りになる前に、ハーブティーを召されるそうだから、お部屋に持って行って差し上げて」

 彼女に命じられた通り、僕はトレーの乗った銀のワゴンを押し、伯爵の泊まっている部屋へ向かった。だが、歩くこともおぼつかなくなっていた僕は、何度も途中で転びそうになった。その度に、陶器のティーポットがトレーの上でカタカタと音を立てて震えた。
 
 絡繰人形のようなぎこちない動きで給仕する僕を、伯爵は訝しそうに目で追っていた。カップをテーブルに置いて立ち去ろうとした時、伯爵が言った。
「間違いない、その紫色の瞳。ずっと探していたんだぞ!」
 伯爵はソファから飛び起き、僕の両肩を掴んだ。そして僕のかつての名前を叫んだ。僕は言葉も上手く話すことが出来なくなっていたので、必死に首を横に振った。
「しらばっくれるな、あんなに情けをかけてやったのに、礼も言わずに勝手に屋敷を飛び出すとはな!」
 僕は伯爵の手を振り払い、逃げようとした。
「待て、許さんぞ。明朝、ここを辞めて私と発つんだ!いいか、それまではこの部屋でお前を一晩中折檻してやる」
 伯爵はそう言って僕の身体を無理矢理ベッドの上へ捻じ倒した。不自由な身体のせいで、僕はどうにも上手く抵抗することができなかった。口にナプキンを詰められ、乱暴に服を脱がされた。忘れかけていた数年前の記憶が蘇った。

 あれは屋敷の地下だった。
 一日中、その狭い部屋に閉じ込められて、奇矯な大人たちの相手をさせられる。
 身体に異物を詰められ、縄で縛られ、鞭を撃たれるのだ。
 稼ぎは全部、伯爵の手の中に消えた。
 伯爵なんて名ばかりの、借金まみれの没落貴族。
 僕に与えられたのは、息をするのに必要最低限の水と食料だけ。
 衣服なんてのは、あってないようなもの。
 嬌声以外の言葉を発すると、暴力を振るわれた。
 到底、人とは思えない生活。
 
 救貧院にいた時の方が、恵まれていた。
 いいや、扱き使われて、飢え苦しんでいたのは救貧院も同じだった。
 僕が人間の姿でいたって、何の良いこともなかったんだ。

 ああ、人形に戻りたい。
 

 夜が明けた。ベッドの上で、放心状態のまま目が覚めた。身体のそこら中がひどく痛んだ。
「なんだ、これは…」
 僕の隣で、伯爵は血まみれの手を震わせながら、青白い顔で目を見開いていた。彼の目に映ったのはきっと、血を流した、紫色の瞳の小さなビスクドールだったのだろう。
 
 
「どうも体調が優れませんで。公爵には申し訳ありませんが、会うのは次回に控えさせて頂きます」
 エントランスホールで伯爵は、彼女に向かって申し訳なさそうに頭を下げた。そしておずおずとした様子で言葉を続けた。
「ところで、話は変わりますが、このお屋敷に、紫色の瞳をした給仕の少年はおられますかな」
 伯爵の問いに彼女は微笑を浮かべながら答えた。
「いいえ、おりません。それに、ここで給仕をしているのは、全員、髪の長い、女性でございます」
「……そうでしたか」
 伯爵はぎこちなく笑って、彼女の腕に抱かれた紫色の瞳の人形を一瞥した。そして足早に、従者と共に屋敷を後にした。

「ねえ、アイリス。あなた、お外に行きたい?」
 彼女は人形の僕の長い髪を優しく撫でながら呟くように問うた。
「お外って、やっぱりとても怖い所らしいわ。あの日の帰り道、伯爵の乗った馬車が方向ちがいの方へ暴走してしまって、伯爵は馬車の下敷きになって亡くなられたそうなの」
 それが本当なら、僕は嬉しい。
「それからお父様のお帰りは、暫く、なくなったわ。また退屈な日が続きそうね」
 彼女はそう言って、またいつもの物憂げな表情で窓の外を眺めていた。

END
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