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25 坂をのぼった先に (立川side)
しおりを挟む何となく、予感はあった。
番解除後2週間目の経過観察時の妊娠発覚。
普通に考えて最悪のタイミングだったと今でも思う。
藤川と関係を持っていた間、ヒートらしいヒートが来た訳では無かった。
一般的に、ヒート時のセックス以外での妊娠確率はかなり低いとはされている。
だが決して0ではない。
Ωと判明してからずっと、匂いの発散も薄く、ヒートが来る事も無かったから、自分は欠陥品で妊娠しにくいのではと考えていた。
ところが藤川と番になって抱かれるようになってからというもの、緩やかに体が変化して行くような、そんな感覚があった。
今迄の反動のように、何時かとんでもないヒートが来てしまうんじゃないかと、そんな気がするほどに。
実際は半年の間にそんな事にはならなかったが、蓋を開ければヒートが来ない内に妊娠してしまっていた。
医師の見立てでは、解除後のストレスで流れてしまう可能性が高いとの事だった。
おそらく、育たないだろうと。
なのにその時俺が考えていたのは、どれくらいまでならギリギリ腹が目立たないかな、という事だった。
高確率での流産の可能性を示唆されているその時に、俺は呑気にも、学生時代から居座っていた職場に辞表を出す事を考えていたのだ。
何故か、この子は産まれてくるという、確信めいたものがあった。
その2日後、俺は3ヶ月後には辞める旨の辞表を出した。
腹の子は医師の予想を裏切り、順調に成長していった。
解除の際の投薬による副反応や服薬の副作用等はかなり顕著に出ていたのに、それにも耐え切り、1番キツい悪阻がおさまる頃には完全に安定してしまった。
定期検診のエコー写真を見る度に、それがドヤ顔に見えて来る。
(最初から産まれてくる気満々だったもんなぁ…。)
俺は写真を片手にふふっと笑ってしまった。
藤川は俺に、家族をくれたのだ。
今の街を選んだのは、完全に気紛れだった。
通勤時に目にしていた駅貼りの旅行会社のポスター。
愛着がある訳でもない故郷に戻る選択肢は最初から無かった。
どうせなら一度、暖かい場所に行ってみるのも良いな、というだけの気持ち。
仕事を辞める前、旅行半分、下見半分で3日ほどこの地を訪れた。
見慣れた色とは違う、海と空。
目に入る植物が違う。
吹く風の匂いが違う。
街の風景が違う。
旅行など、学生時代の修学旅行くらいしか経験の無かった俺には、新鮮な明るさだった。
この街で新しく生きてみよう、この子と2人で。
そう決めて、街の不動産屋を訪れた。
この地に居を移した当初、不安が全く無かった訳では無かった。
目立たなかった腹が、日毎に膨らんでいく。
訳ありの男Ωだという事は、どうしたって知れてくる。
最初は皆、遠巻きだった。
しかしそれも、不動産屋の南君やその恋人、近所のおばあちゃんらが俺に接している態度を見ている内に、少しずつ変化していった。
何気ない気遣い、優しさ、あたたかさ。
Ωに対する偏見や差別に身構えて、自分の身を守る為の武器を持つ為に必死だった俺には、新鮮な驚きだった。
けれど、本当はそれらは もっと以前からそばにあったものなのかもしれない。
他人を信じられず、周囲を寄せ付けずに生きて来た頃には、どだい気付けなかっただろうけど。
葵が産まれる迄に、周囲の人達には随分助けられた。
南君は俺が妊娠しているのを知ってから、ちょくちょく様子を見に来てくれてたし、
当時小学校に上がったばかりの子を持つ隣の奥さんには、出産時の付き添いなんかもお世話になったし、今でも育児の事では何かと教えを乞うている。
今、俺と葵が笑って暮らしていられるのは、ご近所さんや街の人達のおかげなのだ。
ケーキを3つ買って外に出ると心地良い風が吹いて、少し大きめな葵の帽子を少し浮かせた。
顎掛けのゴムは葵がよく引っ張って遊んでしまう為にゆるゆるになっているから、今夜にでも付け直さないと本当に飛んでって無くしてしまいそうだ。
裁縫は苦手だけど、仕方ない…。
葵がケーキの箱を持ちたがったが、跳ねるように歩く幼稚園児にデリケートなものを運搬させる勇気を俺が持ち得なかった為、今回も謹んで辞退させていただく。
葵はつまらなそうに帽子を被り直しながら 、次の瞬間にはくるくると賑やかに輝く大きな瞳で俺を見上げてきた。
「おきゃくさん、ひさしぶりだよね。」
「そうだなあ。」
「わざわざけーきかうってことは、あんまりしらないひとだね!」
「…うん、まあそうだな。」
答えながら、迷う。
前情報が必要だろうか?
葵は寝かしつけの時に、たまに父親について聞いてくる。
幼稚園のイベントがあった日や、他の友達の父親を見た後などは、特に。
(羨ましいのかな…。)
寂しがらせてきたつもりは無いが、そういう事でも、無いのかもしれない。
だから父親の事を聞かれる度に俺は答えた。
「優しくて、格好良くて、素敵な人だったよ。」
そうすると、それだけで満足して眠ってしまう。
親の欲目かも知れないが、葵は利発な子だ。これ以上聞くと俺を困らせると、察していたんだろうと思う。
意を決して聞いてみる事にした。
「葵」
「なーに?」
「お父さんについて、どう思う?」
「おとうさん?」
俺から父親の事について触れた事が無いので、少しびっくりしているのか、大きい目が更に大きくなった。
「おとうさんは~、すき!」
「えっ、会った事無いのに?」
今度は俺がびっくりした。
「だってさー。ぼくのおとうさんだから、ぜったいかっこいいじゃん?
おかあさん、メンクイだし。」
「…ソウダナ…。…メンクイ?」
この圧倒的自己肯定感、絶対αだろうな…。
けど、俺がメンクイってのはどういう根拠で言ってんだろう。
俺は別にあの後誰かと付き合った事も無いのに。
「…おかあさん、そんなにメンクイじゃないだろ…。」
「だって、ぼくがこんなにかっこいいんだから、そのおとうさんとふうふになったなら、おかあさんメンクイじゃん。」
「……。」
見習いたい自信だ。
というか、色々誤解があるようだけど子供に言える話でも無いから流しておく。
でも、そうなのか。
「そうか。好きか。」
自分がカッコいいからまだ見ぬ父もカッコいいという理論なのか…。
子供って、すごいな。
緩い坂を上った先にある我が家にはもう少し。
若干息切れしている俺を他所にして、この5歳児の足は軽やかだ。スキップまでし出した。
一際強い風が吹いて、葵の濃紺の帽子が脱げて首にかかった。
ふわふわと陽に透けて黄金色に見えるその髪の向こうに見える人影。
家の前にすらりと長身の藤川が遠目にもわかるほどにそわそわと立っていた。
葵と同じ黄金色の髪を風に揺らして、彼は俺達にゆっくりと手を振る。
振り返った葵が、
「おかあさん、はやく!」
と、俺の手を握った。
~完~
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