背徳の病

Q.➽

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 案内してくれた仲居が茶を供して部屋を出ていった。姿が映り込むほどに磨き込まれた黒い座卓の上には、澄んだ淡緑色の液体を注がれた茶碗がそれぞれの前に置かれている。
 篠井は湯気の上がるその茶碗を手にして、少し息を吹きかけてから口にした。パーキングから5分程度歩いただけで噴いていた汗が、エアコンの効いた部屋に入って冷やされたからか、温かい煎茶が殊の外美味しく感じる。
 向かい合って暫し茶を味わい、先に茶碗を置いたシオンが口を開いた。

「実はここ、本当は夜の営業だけらしいんですが...」

「え、そうなのか?でも予約取ってたんだろう?普通に迎えられたよな。」

 視線を上げてそう聞くと、シオンはコクリと頷いて続けた。

「父に連絡して頼み込んでみたんです。知り合いと一緒に行ってみたいから、ご店主に頼んでみてくれないかって」

「お父さんに...」

「同世代の友達じゃなくて仕事先でお世話になっている落ち着いた歳上の方だと言ったら、そういう事ならと言ってくれて...」

「そうだったんだね」 
 
 その説明だと、まるで自分の方がシオンを世話してやっているかのようだ。実際には篠井が彼に迷惑をかけてしまった事への詫びだというのに。
 篠井は苦笑しながらシオンの話の続きを聞いた。

「父はここの引退したご店主にかなり気に入られてたらしいです。数年前までは仕事でたまに日本に来てたんですが、その時に特別にお昼に開けてもらった事があると聞いていました。
 でも今では息子さんの代になってると言うし、父も久しく日本に渡ってないので、無理かなと思ってたんですけど...父が掛け合ってくれたら、お昼で良いならと特別に入れていただける事になって」

「へえ、それはありがたいね」 
 
 篠井はそう口にしつつ、シオンの父親はどんな人なのだろうかと想像した。老舗の有名料理屋の引退した元店主なんて、頑固者のイメージがあるのに、そんな人物の懐に入り込み、便宜を図らせる事が出来るほどの人。シオンに似て人懐っこいのだろうか。もしそうではなくとも、きっと魅力的な人物であるのは間違いないだろうと思った。

「だから、今は僕と篠井さんの貸切り状態って事ですね」

 そう言ってシオンは悪戯っぽく笑う。

「貸切なんて初めてだよ。ちょっと贅沢な気分だ」

 合わせて篠井も微笑む。星付きの店を貸し切りなんて貴重な体験は篠井も初めてだ。正確には店側の厚意で特別に入れてもらっただけだが、他に客が居ない事には変わりない。
 
 なんとなく、見える庭園も先ほどまでとは少し違って見えるようだった。


「失礼いたします、先付けお持ちいたしました」

 不意に女性の声がして襖が開き、仲居が入って来た。彼女はゆっくりと2人の前に持って来た料理を置いていく。涼やかな硝子の小鉢が2皿、そして別の白い長皿に敷かれた飾り葉の上には数種類の料理が少量ずつ並んでいる。旬の魚や野菜を使ったそれらはどれも繊細で、彩りも鮮やかだ。添えられた果実の輪切りや小花が季節感を感じさせてくれてまた嬉しい。

「おお...良いねえ」

「日本料理の飾り付けは本当に美しいですね」

 嬉しそうな表情を隠しもせず、シオンは箸を手にして弾んだ声を出した。篠井にしても気持ちは同じだ。休みの日にこんな贅沢をするのは久々なのだから。

「じゃあ、いただこうか」

「はい、ご馳走になります」

それからは、頃合いを見ながら運ばれて来る椀物や造り、炊き合わせなどなどに舌鼓を打ちつつ、ゆったりとした気分を楽しみながら食事をした。シオンは店で会う時よりも打ち解けた気分になったのか、小さな頃の事や学生時代の事、実家の事なども話してくれた。
 シオンの実家は、韓国でも富裕層が多いと言われる江南地区。父親は、父親の兄が代表である企業の系列の商社の社長を勤めていたが、5年ほど前にシオンの母が交通事故で車椅子生活になってからは、国外の仕事を部下に任せるようになったのだという。子供と足の不自由な妻を置いて家を不在がちにするのはしのびなかったのだろうか。
 下に妹が居て4人家族。家族仲は良いらしい。

「それならシオン君が留学に出るの、反対されたんじゃないのかい?」

 食事の最後に出た水菓子のメロンを口に運びながら聞くと、シオンは困ったように眉を下げながら答えた。

「妹は少し寂しがる程度でしたが、快く見送ってくれました。母は...昔から少し僕に過干渉気味なところがあったので、そろそろ子離れしてもらおうと思いまして」

「ああ、母親って息子にそういうところあるよね」

 篠井は、自分にも覚えがあるなと思いつつ、母親を思い浮かべながら言った。と言っても、母の関心は今や、一昨年に孫を儲けた弟夫婦に移っているようなのだが。篠井が40を迎えた辺りから再婚話も持ち込まなくなってきたし、いい加減に見切りをつけたのかもしれない。
 だがシオンの場合は、まだ若く容姿端麗。才にも恵まれている、自慢の息子だろう。シオン本人は過干渉というが、それと溺愛は紙一重だ。
 留学先で変な虫でもつけてはいないか、きっと心配に違いない。

「大変だねえ、イケメン息子は」

 茶化すように言うと、シオンは少し頬を赤くした。

「からかわないでください」

「いや、からかってなんか...」

 篠井はそこまで言って口篭り、僅かな逡巡の後、思い切ったように口を開いた。

「実は僕にも、子供が居てね。会った事はないけど...君より少し歳上の男の子なんだけど...」
 
「息子さん、ですか...」

「シオン君と居ると、息子ってこんな風なのかなって思うよ」

 何処かに思いを馳せるように微笑む篠井を見つめるシオンの目が眇められ、妖しい光を放った。





 
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