背徳の病

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 玄関の鍵を掛けていると、ごく近くでガチャリとドアの開く音が聞こえた。反射的に目をやると、隣室から若い男が出てきた。この暑いのに上下黒のセットアップに、やはり黒のマスク姿。手には黒い財布と黒いスマホを持ち、足元だけは辛うじてサンダルだが、それも黒。全身見事な黒づくめだ。
 ともすれば威圧感を感じてしまいそうな出で立ちなのだが、小柄で細身な体つきと、マスクから露出している可愛らしいぱっちりした二重の所為で全く圧がない。
 そんな隣人は、先に廊下に出ていた篠井に気づき、大きな目を少し見開いていた。
 
「...あっ...」

「こんにちは」

 午前中とはいえもう11時前。流石におはようではないと思い、そう挨拶をする。隣人はそれにこくりと頷きながら、

「ど、どうも...」

とだけ返してきた。
 
 一年ほど前に引越してきたこの隣人とは生活サイクルが違うのか、こんなにも近い距離に住まいながら顔を合わせたのはまだ片手で数えるほど。その度に篠井の方から挨拶はするものの、返ってくる返事は決まって『どうも』だけ。そしてその後にはさっと部屋に入るか、早足で逃げるように去って行く。
 なので、篠井が隣人について知っているのは、若い男性だという事と、灰野という名字だけだった。
 そして今回も相変わらず、隣人は急いで鍵を閉めて、そそくさとエレベーターに向かって行ってしまった。
 ポカンとしながらその姿を見送る篠井。ちょくちょく出かけていく様子を見ると引きこもりではないようだが、かなりの人見知りには違いないと思った。



 
「すみません、迎えに来ていただいて」

 篠井の車の助手席に乗り込みながら、シオンは済まなそうに言う。

「構わないよ。それにしても、本当に近いんだね」

「そうですね」

 シートベルトを締めながらそう言って笑ったシオンに、篠井もつられて笑みを浮かべた。
 月曜に店で話して知ったのだが、シオンの住んでいるマンションは隣町だった。大学にもバイト先のダイニングバーにもバイクで通っているのだという。
 全くの初耳だった。
 篠井が酔い潰れたあの日は、篠井を背負ってマンションに送り届けてから店の近所にある従業員用の契約駐車場に歩いて戻り、いつもそこに停めてあるバイクで帰ったらしい。
 電車も無い筈の時間にどうやって帰宅したのかも気になっていて、タクシーを使ったのなら足代を渡す気でいた篠井は、彼が移動手段を持っていた事に安心しながらも感心した。そして、シオンから聞いた彼のマンションが、店からもそう遠くない場所だった事にも安堵した。
 いや、近いから良いという事でもなかろうが...。

「...今の状況だと到着まで25分くらいかな」

 シオンに聞いた店をカーナビの目的地に設定すると、経路が数本はじき出された。短い渋滞が1箇所あるものの、予測時間は最短の道で25分程度。凡その予想通りと言える。

「予約は12時なので全然大丈夫です」

 同じくカーナビを覗き込みながらシオンが答える。目的地周辺に幾つかコインパーキングも表示されている。繁華街が近いという訳でもない場所なので、どれかには空きがあるだろう。どのパーキングからも店までは徒歩数分といったところなので、遅れずに着ける筈だ。

「じゃ、行こうか」

 篠井は右手でハンドルを握り、左手でチェンジレバーを引いて車を発進させた。




 走行中、シオンはどんなに今日を楽しみにしていたかについて、楽しそうに篠井に語ってくれた。

「まさか篠井さんとプライベートでお食事に連れてってもらえる日が来るなんて思ってませんでした。しかもずっと行きたかったところに。昨夜は楽しみであんまり寝られませんでしたよ」

「大袈裟だなあ」

 そう返しながら笑った時、ふと何かの香りが鼻を掠めた気がした。 取り付けてある芳香剤のシトラスとは明らかに異質の、妙に甘ったるく濃い香り。馴染みの無い香りだが、香り方からしてコロンというよりはトワレだろうか。

(...あれ?なんの...?)

 他に香りのするような物を乗せただろうか、と車内をチラチラと見渡すがそれらしき何かはない。篠井は普段は香水の類いをつけないし、ごくたまに使ってもこんな砂糖菓子のような甘い香りを使ったりはしない。愛用している整髪料も無香料だ。
 
 では、何が...と考えて、ハッと気づいた。真横にシオンが居るではないか。若くお洒落なシオンなら、香水くらい使っていても当たり前のような気がすると内心で納得して話を振った。

「シオン君、甘くて良い匂いだね。何処の香水使ってるの?」

 前方を見ながら聞くと、それまでテンポ良く続いていた会話が途切れた。
返事を返さなくなったシオンが気になり横を見ると、シオンは何故か笑みを消して、運転する篠井を凝視している。出会ってから今日までで、初めて目にする無表情だった。

「...シオン君?」

「僕、香水は使ってないんです」

「え?ああ...そうなの?あれ...じゃあ、、、」

 答えながら、さっきの香りが無くなっている事に気がついた。

(...あれ?気の所為だった、のか?)

「...ごめん、勘違いだったみたいだね」

 苦笑しながらそう言った篠井に、いつもの人懐っこい微笑みに戻ったシオンがいいえと首を振った。

 
 予定時間よりも少し早く、車は目的地に到着した。休日の昼前のわりに車の流れは良く、渋滞箇所もそこに差し掛かる頃には解消されていたからだ。
 タイミングに恵まれたようで、信号に掛かる事も殆ど無く、流れるように着いてしまったのである。
 最初に回ったパーキングにゆうに空きがあったので、その一角に車をバックで駐車した。

 運転席から外に降り立った時、ふと目眩がしてふらついた篠井を、先に降りていたシオンが慌てて駆け寄って支えた。

「大丈夫ですか」

「ごめん、何だろうな。...もう大丈夫だ」

「本当に?」

「...悪いけど、少しの間だけじっとしてても良いかな。多分すぐに治る」

「勿論です」

 シオンは目眩に青ざめ俯いた篠井の、肩と腰を抱いて支えた。だがその唇の両端が笑むようにつり上がっているのは、篠井には見えない。

 今、彼が何を思っているかなど、知る由もなく。




 









 

 

 
 

 
 

 

 

 
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