背徳の病

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見渡せば確かに存在するアルファやオメガ。彼らは同じ世界に居ながらも、関わる事の少ない遠い存在だと思っているベータが大半だ。何故なら彼らの世界は彼らだけで完結する事が殆どであり、そこにベータが介入できる隙は無いのだから。
 




 夏は夜風すら生温い。

 やっと梅雨明けをした、とある週末の午後7時。電車から降りると途端にじわじわと滲み出る汗に閉口しながら、篠井はネクタイを緩めた。襟元を寛げてみても、地肌からの汗は額から顎へと伝い落ちていく。篠井はそれを手の甲で拭いながら改札を出た。
 駅を出て左に折れると、そこには車道沿いに数軒の飲食店が並んでいる。ラーメン屋、とんかつ屋、牛丼屋、中華料理に焼き鳥居酒屋、ファミレスに弁当屋。数十年も同じ場所に住んでいると、そのどれもに既に飽きてしまっていて最近は食指も動かない。しかし何かは腹に入れなければ体に悪いしなと、篠井は悩んだ。

(どうしよう。いっそ家にある豆腐と佃煮で軽く済ませるか…)

 削り節を多めにのせた冷奴にポン酢をかけて、白飯に戴き物の牛肉とごぼうの佃煮をのせて食事にしてしまおうか。こう暑くては食欲も湧かないし、最近は少しばかり下腹の肉も気になってきているからそれで十分な気がする。となれば、さっさとまっすぐ帰ってしまおうと決めて歩き出した時、後ろから名を呼ばれた。

「篠井さん、今お帰りですか?」

 振り返ると、そこには見覚えのある背の高い青年が篠井に向いて立っている。整った顔立ちに、ふわふわとウェーブのかかった栗色のショートヘア。両の耳朶には黒い石のピアス。いかにも今どきの若者といった容姿の彼は、黒いシャツに細身のパンツ、デニムの膝丈サロンエプロンという出で立ちで、左手には白いナイロン袋を持っている。

「シオン君…お使いかい?」

「はい、お客さんに頼まれてそこのコンビニまで行ってきました」
 
「そうなんだ、お疲れ様」

 篠井の言葉に含羞んだような笑顔になったその青年はシオンと言う名の大学生で、篠井がたまに食事に寄るダイニングバーのバイトだった。それも、韓国からの留学生だという。流暢な日本語を話すから最初はわからなかったのだが、言われてみれば話すイントネーションにほんの僅か、独特の違和感がある。それでもそこらの同年代の日本人の若者などよりもずっと綺麗な日本語を話すし、店のボードのメニューを書き替えているのを見る限りは書く方も達者だ。そして何より、その芸能人ばりの容姿。彼をバイトに入れてから彼目当ての客が増えたのだとマスターが笑っていたのを、篠井は思い出していた。

「篠井さんも、お仕事お疲れ様です」

「ありがとう」

「今日はまっすぐお帰りですか?」

「ああ、うん…そうしようと思ってるんだけど…」

 そう答えると、少しシュンとしたような表情になるシオン。彼は何故か、初見の時から妙に篠井に懐いていて、最近では店に行けば必ず席の担当につく。
別に篠井一人くらい客が増えたところで店の売り上げがそう変わる訳でもないだろうに、毎回とても丁重な接客をしてくれている。

「そうですか…」

 気落ちしたように声のトーンが下がるのを聞いて、篠井は何となく慌ててしまった。

「でもシオン君の顔を見たら、ビールが飲みたくなっちゃったなあ」

 思わず口にすると、途端にシオンの表情が明るくなった。笑顔になると、色素の薄い蜂蜜飴のような瞳が細まって更に甘ったるい雰囲気になる。それが子犬のようで可愛らしいと、篠井は素直に思った。
 いくら近い国だとはいえ、家族と離れ文化も生活習慣も違う異国に一人暮らすのは、きっと心細いものだろう。店で働く様子を見ている限りは、明るく性格も良いようだし、何よりあの外見だ。大学でも友人は多いに違いない。そんなシオンに慕われているらしいのは、悪くない気分ではある。もしや自分はシオンの父親に少し似ていたりするのかもしれないとは、単なる篠井の当て推量だが。

「じゃあ、行きましょう!今はそんなに混んでないですよ」
 
「それは良かった。今日は魚は何が入ってるのかな」

「マスターは今日は天然物の鮎が入ったって言ってました」

「えっ、ホントに?ラッキーだな…ならビールじゃなくて日本酒にしようかな」

 篠井は、自分よりも背の高いシオンと共に、馴染んだダイニングバーへと足を向けた。

 篠井篤は43歳の独身の会社員である。独身主義という訳ではなく、過去には、ごく短い間だが結婚生活を送っていた事もあった。しかし上手くはいかず、それ以来ずっと独身で居る。
 顔立ちはやや強面ながら、性格は穏やかで人当たりが良く、178センチのすらりとした長身でスーツの似合う篠井は、決して人に忌避されるタイプではない。順調に昇格を重ねそれなりに年収を上げて来たから金にも困ってはいない。
 そんな男がモテない筈も無く。実際に好意を持たれた女性と付き合いに発展した事は幾度となくあった。だが結局、毎回篠井の方から関係を終わらせる形になった。
 どうしてもあと一歩のところで相手を信じる事が出来ず、その先の未来に二の足を踏んでしまうからだ。
 そこには篠井の持つ過去が多大に影響していた。



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