背徳の病

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 結局、子供が産まれる前にとの妻の希望で、弁護士を挟み篠井は離婚。何故この時期にここまで急いで離婚したがるのかとは思ったが、本当に不貞行為が無かったかなどを調べてみようという気力も起きなかった。そんな事をせずとも、妻側からの申し出という事で相応の慰謝料を提示された。妻の実家は裕福なので、おそらく出処は義父だろう。受け取るべきなのか迷ったが、妻側の弁護士の、『貴方に責任の無い離婚だったという証明として受け取る方が良いと思います』という言葉に納得して納めた。確かに自分の気持ちの問題であり篠井に落ち度は無いと妻も言っていた。
 残されたのは腹の子の養育費の問題で、父親としての義務を果たすべく月5万の申し出をしたが、拒否された。自分の身勝手で振り回してしまった篠井に、これ以上負担を強いたくはない。だが代わりに子供との面会権を放棄してくれないか、というのが妻の要求だった。
 これにはかなり迷った篠井だったが、つまり妻はこうまでして徹底的に自分との関係を断ちたいのだろうと思い至ると、気が滅入ってしまい、結局頷いてしまった。もうこの離婚の背後に実際は何があるのかなど、探ったところで何も元には戻らないのだと諦念した。
 
 結果、篠井は離婚から今日まで、我が子と会った事が無い。元妻は産まれた後にその連絡と赤ん坊の写真を添付したメールを送ってきたが、それ以降は本当に篠井との連絡を一切絶ってしまった。
 だから篠井が知っているのは、産まれた子供が男の子だという事だけで、名前すら教えてもらえていない。

 息子の事は気になりつつも、篠井はその事で元妻に連絡を入れたりはしなかった。あれだけスッパリと拒絶されてしまって心が折れたというのもある。弱っていた彼女につけ込んで事を運んだという後ろめたさもあった。何より、元妻は既に新しい生活を送り始めている。もし再婚でもしているのなら、そこに水をさすべきではないだろう。
 篠井は月々の養育費を銀行口座に貯めていく事にした。今はこんな状況でも、その内子供に会える日が来るかもしれない。その時もし子供に必要ならば渡してやろうと決めていた。

 しかし、それから20年。
 未だに我が子に会える機会も無く、ここまで来てしまった。元妻との事以来、他人と深く関わるのも怖くなってしまったから、恋人すら作れなかった。でも四十路を迎えた辺りからは、もうこれが気楽だと感じている。
 しかし、そんな経緯があるからだろうか。自分を慕ってくれる若者に、篠井は妙に弱い。特に最近知り合ったシオンは息子より2歳ほど下らしいが、篠井くらいの年齢になれば2歳くらいは誤差の範囲だ。
息子と同じような年頃の、端正で美しい容姿の青年に人懐っこくされれば、「息子もこんなに成長しているんだろうか…」などと思いつつもしんみりとしたりして。成長を見守る事が出来なかった息子に思いを馳せる事が増えたように思う。
 そして、帰宅途中でシオンと会ってしまったこの日も、ダイニングバーのカウンターで鮎の塩焼きに舌鼓を打ちながら花冷えの吟醸を流し込み、本当に良い気分だった。

 しかし、何事も過ぎたるは猶及ばざるが如しとはよく言ったもので。
 
 翌朝、篠井が目覚めたのは、自分の部屋のマットレスの上だった。見慣れた天井に、見慣れた家具。しかし、何だか首や…いや、体中のあちこちが少し痛く、重い気がした。
 ズキズキと痛む頭の中を無理矢理回転させると、ぼんやりと昨夜の事が断片的に思い出されてきた。
 
(そうだ、確かシオン君に会ったんだっけ。それであぶ屋に寄る事にしたんだった…)

 お通しのもずくの梅酢が美味くて、その後出てきた鮎の塩焼きで日本酒を飲って…。少し回りが早かったかもしれない。酔いが深くなると寝てしまうからと気をつけていたのに、途中で記憶が途切れてしまっている。しかし自室のベッドに寝ているという事は、何とか自力で帰宅出来たらしい。
 記憶は途切れているもののきちんと帰宅している事に安心すると、今度は急激に喉が渇いてきた。完全なる二日酔いだ。
 篠井は起き上がり、水を飲む為にキッチンへ向かおうとベッドを降りた。何だか頭だけではなく全身が怠い。若干ふらつくのでゆっくりと歩き、キッチンに着いた。
 二日酔いだから常温の水の方が良いだろうと、冷蔵庫に入っているボトルではなくカウンター下の収納を開ける。そこには買い置きの500mlの水のボトルが2ダースほど入っており、篠井はその一番手前の1本を手にして立ち上がった。一人暮らしなのでダイニングテーブルなんて物は置いてはおらず、そのままソファのあるリビングに向かう。ソファに腰を下ろし、開栓したボトルから直接水を煽る。一気に半分ほども飲んでしまうと、やっと人心地ついた気がした。

 ふと、視界に何か異物が映り込んだような気がした。妙な既視感。
 ソファの前にあるローテーブルに目をやると、そこにはB5サイズより少し小さめの紙が置いてある。
 篠井がそれを手にすると、その紙には罫線があり、どうやらノートの1ページを抜いたのだとわかった。そして、そこには丁寧な手書き文字が。

『玄関を閉めるのにカギを使ったので、玄関のポストから入れておきます。確認してください。
起きたらお水飲んでくださいね。お薬があれば、飲んだ方が良いと思います。お大事に。
またお待ちしてますね。지한(しおん ) 』

「……」

 篠井は、暫し呆然とした。書かれた文章と最後に記されたハングル文字、昨夜の記憶を重ね合わせると、該当者は1人しか思いつかない。
 篠井は、自分の胸元に視線を落とした。いつもパジャマに着ているグレーのスウェットの上下。

(まさか、これも…?)

 自力で帰ってきたと思っていたが、実はそうではなかった。さっき起きた時のベッド周りはいつもと変わりなく片付いていた。酔っ払いがひとりで帰って来て、荷物を所定の位置に置き、あれだけきちんとスーツをハンガーに掛けて、着替えまでしてベッドに入れるとは思えない。

 篠井は天井を仰ぎ、深く溜息を吐いた。

(シオン君に迷惑をかけてしまった…)

 おそらく酔い潰れて寝てしまった篠井を、バイト終わりのシオンが送り届けてくれたのだろう。篠井の自宅マンションが近いという話はしていたから、マスターにでも頼まれたのかもしれない。会話の中でマンション名くらいは出した事はあるが、号室までは言った記憶がない。おおかた財布に入れてある免許証か何かを見たのだろうが、勝手に見たのかと咎められる立場でもない。

(申し訳ない事をしてしまった…)
 
 体格の良い若者ではあるが、それでも酔って意識の無い男はさぞかし重かったに違いない。肩を貸してここまで辿り着いたのだろうか、それとも背負って?いっそその方が早いか。
 単なるダイニングバーのバイトに出て、酔った常連の中年親父の面倒まで見る羽目になったシオンが哀れでならない。しかも着替えまで…。
まさかこの歳になって、あんな若者に醜態を晒す事になるとは…と、篠井の頭痛は更に酷くなるばかりだった。


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