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しおりを挟むそれは結婚して二年目のある日の事だった。
仕事から帰宅して玄関の電気を点けると、何となく妙な違和感を感じ、篠井は動きを止めた。何故ならその頃、妊娠中だった妻は実家に戻っていて、篠井はもうひと月は一人で暮らしていたからだ。朝出勤の為に部屋を出て、夜帰ってきて玄関を開ける時の、長時間動かず籠った空気の匂い。それに慣れつつあった篠井の鼻は、その日の匂いがいつもとは違う事を敏感に嗅ぎ取った。
考えにくいが、もしかして妻が帰ってきたのだろうかと三和土を見下ろしたが、靴は無い。となるとまさか空き巣かと警戒したが、それにしては部屋の中が散らかっている様子も無い。首を傾げながら玄関を上がり、室内を見回した篠井を待っていたのは、思いがけないものだった。
4人がけのダイニングテーブルの上に置かれている、大きさの異なる2枚の白い紙。
メモ帳サイズの小さな方には、『ごめんなさい』とだけ書かれており、その横には広げて置かれた離婚届。その上に重しのように置かれた、シンプルなプラチナの指輪。
頭を横殴りにされたような衝撃だった。
衝撃が過ぎると、今度は心臓がいやに動悸し始めて苦しくなり、篠井は震える手で左胸を押さえた。そうしながら、妻に電話をかけた。
数回のコールの後に出た妻は、ただ謝罪の言葉を繰り返すばかり。しかしその声は始終冷静で、動転している篠井とは対照的だった。
『本当に申し訳無かったと思ってるわ。全部私が原因なの。
貴方に落ち度はない。嫌いな訳でもない。
でも、どうしても愛せないって気づいたの』
「それは…」
『ごめんなさい』
嫌いではないが、どうしても愛せない。それは何と残酷な言葉だろうか。妻とは交際期間を入れて、3年近くは一緒に居た。なのに、その間篠井を愛した事は無いと彼女は言っているのだ。そして、これからも愛する事は不可能だと気づいたと。
『ごめんなさい』
抑揚の無い声でまた謝罪を繰り返した妻に、篠井はやっとの思いで言葉を絞り出した。
「…一つだけ聞かせてくれ」
『なに?』
「腹の子は、僕の子か?」
電話の向こうで、妻が息を詰めたのがわかった。それは今日、彼女の初めての感情的とも言える行為だった。
『…誓って貴方の子よ。離婚を切り出した身で信用出来ないって気持ちはわかるけど、私、浮気はしていないもの。何ならDNA鑑定をしても構わないわ』
逆上するでもなく淡々とそう言った妻の言葉は、おそらく真実を言っているのだろうと思わせる説得力があった。
「なら…別に、離婚しなくても…。僕に気持ちが無くても、一緒に育て…」
『ごめんなさい。それはできないわ』
「どうして?」
『…この先ずっと貴方と一緒に暮らすのかと考えたら、苦痛なの。本当に、ごめんなさい』
「そう、か…」
苦痛。そこまで言われては、もう何も言えない。押し黙った篠井に、妻は
『後の事は弁護士に連絡させます』
と言って電話は切られてしまった。
篠井は呆然としたまま、ダイニングチェアに力無く腰掛け離婚届けを見つめるしかなかった。
納得した訳ではない。しかし、納得できる事もあった。
大学の同期生だった妻は、物静かだが美しく聡明な女性だった。篠井も、入学当初に彼女を一目見た時から密かに憧れていたし、そんな男は篠井一人ではなかった。同じ学部だった為、運良く友人の一人に加わる事は出来たものの、彼女には付き合いの長い歳上の恋人が居るのだと聞いていたから、結局は見ているだけの関係。本来なら篠井のようなごく平凡な男には手が届かないような高嶺の花に、気持ちを告げるつもりは毛頭無かった。しかし、それを手にするチャンスが生まれたのは、彼女が恋人と別れたのを誰よりも先んじて知ったからだった。
その日篠井はたまたま、本当にたまたま2人の別れ話の現場に居合わせた。それは、その頃篠井と彼女が通っていた大学からは幾つも離れた街の海辺の公園での事で、そこは当時の篠井のバイト先の中華料理店の近くで、休憩時間を過ごす場所でもあった。
その日も、15分の休憩時間をコーヒーを飲んで過ごそうと公園に向かった。店の裏口から出て、道路を渡っても数十秒の距離。夜の潮風の匂いを嗅ぎながら歩いていると、目指す先のベンチにカップルが座っているのが見えた。
デートスポットにもなっている公園なので、仲睦まじいカップルにベンチを占領されているのはままある事だ。ベンチが駄目なら芝生に座れば良いだけだ。しかしその時目についたカップルは、仲睦まじいというには険しい表情をしていた。しかも、女性の方には見覚えがある。それが自分が想いを寄せていた彼女であると気づいた篠井は、死角になる位置までそっと近づき、2人の様子を伺う事にした。
ポツポツと聞こえてきた会話に耳を傾ける。暫くすると、男が彼女を置いて先に立ち去った。肩を震わせて泣いていた彼女に、声はかけられなかった。泣いている姿など知人に見られたくはないだろうと思い、そうした。
それからというもの、篠井は積極的に彼女との距離を詰めた。それまでのその他大勢の友人関係の中から、頭1つ抜きん出る為に。それでもそう冴えた男でもない篠井の告白を彼女が受け入れてくれたのは、この上ない幸運だったのだとわかっている。彼女がその気になれば、篠井以上のスペックの男はいくらでも選べた筈なのだから。
しかし、彼女はそうはせず、大学を卒業して就職した翌年には、篠井のプロポーズを承諾した。双方の親には、就職して間も無いのに結婚は早いのではと心配されたが、強くは反対はされなかった。篠井が運良く名の知れた大手企業に就職できたのが味方したのだろう。
交際から結婚、妊娠まで、流れるようにスムーズに事は運んだ。喧嘩らしい喧嘩も無く幸せだと思っていたのに、妻の方は篠井とは全く違っていたらしい。
惚れ込んで惚れ込んで、分不相応なのは承知の上で一緒になってもらった妻だった。所謂、恋女房というやつだ。だが、その胸の内には篠井に対する感情は微塵も無かったのだと知り、篠井は一人泣いた。
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