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29 これは洗礼というやつ、か…?
しおりを挟む婚約式の翌々日から、俺はアクシアン公爵家に移り住んだ。
これは俺から希望した事だ。将来的には公爵となるサイラスの伴侶として、屋敷の使用人達の管理も俺の仕事になる為、今から公妃様に倣い家令に習い、多くの人を使う素養を身につけなければならないと考えて。
普通は、婚約したからといってこのようにすぐ婚家に入ってしまうなんて事は無い。が、俺の場合は婚約から結婚式まで1年くらいしか間が無い事と、俺自身の生まれ育った実家の環境から来る事情があった。
有爵家の出身とはいえ、リモーヴ家は使用人もごく僅かで距離も近く、アットホームだった。彼らは使用人ではあるのだがそれだけではなく、共に家を支えてくれる同志でもあったのだ。世間並みの賃金すら払えず先があるかもわからない貧乏子爵家から離れず、忠義心と情で長年寄り添ってくれた数少ない使用人達。そんな彼らとひとつの家族のように身を寄せあって暮らしていたリモーヴ家。貧しくとも狭くとも楽しい我が家だった。俺は今でも実家を、使えてくれた彼らを家族として愛している。
しかし、屋敷の規模も広大で何百という使用人を使っているアクシアン公爵家でそれはありえない。高位貴族としての格が損なわれるからだ。普通の貴族にとって、使用人は使用人でしかなく、俺はそれをしっかりと心身に叩き込まなければならない。俺を選んだサイラスに恥をかかせない為、俺は急ピッチで公爵家に相応しい品格と使用人達との距離感を身につける必要があるのだ。だから自分から公妃様にお願いした。
…断じて、サイラスが
『ずっと一つ屋根の下に居たい』
とごねたからではない。
そんな訳で俺は、アクシアンの屋敷の中に部屋をあてがわれて住む事になった。サイラスの部屋のある下の階に、元は客間の一つだったのを私室として整えてもらったのだが、日当たりも良く、窓から見える庭の景観も素晴らしい。実家の俺の部屋が20くらいは入りそうに広いのに掃除も行き届いているし、家具は高そうだし、ベッドは大きくて勿論寝具も清潔。控え目に言って最高だ。
「すごく良い部屋だ。ありがとう」
俺はカーテンを触ったり、テラスに出たりしてはしゃいでしまったのだが、サイラスは微妙に不満そうである。そして、隣のベッドルームを覗いた時にとうとう眉を顰めた。
「どうした?」
「いや、急拵えでロクに揃えられていないから…。後で色々届けさせよう」
「……いや、色々って…?」
ぐるりと室内を見回したが、特に気になるところも無い。
しかしサイラスはふるふると首を振って言った。
「寝具が客用のままだ。客ではなく主家の一員が使うものをそのままの仕様にしておいているのは怠慢だ」
「え、えぇ~…」
言われて俺はもう一度ベッドを見たが、そこにはやはり美しい布団やシーツが掛かっていて埃ひとつ見えない。
「これじゃ駄目なのか?俺は十分なんだけど…」
「駄目だよ。アルは私の婚約者。タダの客扱いをするなんて許される筈ないだろう。どういう意図でこんな状態にしたのか問い質さなきゃ気が済まない」
「そ、そうか」
「寝具は早急に替えさせる。今、私と同じ階にちゃんとした部屋と家具を特注で用意させてるから、当分はここで我慢してほしい。あ、何なら部屋が整うまで私の部屋で一緒に寝起きしても良いんだぞ」
「いや、ここで良い」
キッパリとした俺の返答に目に見えて肩を落とすサイラスを見ながら、考える。
寝具を客用から専用のものに替えなかったのは、単なる手落ちなのか意図しての事なのか。普段の俺なら、些細なミスと捉えて使用人にクレームを入れる事はしないだろう。
だが此処はアクシアン公爵家。そして俺は、そのアクシアン一族に新たに加わる新参者。しかも一応は貴族であるものの、落ちぶれた子爵家の次男、その上、子を成せない"男"だ。
アクシアン公爵家ともなると、使用人の中には子爵家よりも爵位の高い家の出身の者達もいる。そうでなくとも家格の高い貴族家の使用人達はプライドが高いのだ。俺のような人間に仕える事に反発心を持つ者も居ない訳ではないだろう。
もしこれが試し行為だとするならば、確かに放置しておく訳にはいかない。そういう所をなあなあにしてしまうと、舐められる。いい加減に仕えていい相手であると誤認させてしまう。
そしてそれは、俺だけの問題ではない。俺をそう扱う事により、サイラスをも軽んじる事になるのだから。
その場合は初手から厳しく罰する方が、後々の為には良いんだろうと俺も思う。
しかし、万が一単なる凡ミスであれば、あまり問い質すのも気の毒だ…なんて思いあぐねていると、厳しい表情でサイラスが言った。
「アル。君は優しいから、わざとではないと思っているのかもしれないけれど、それは有り得ないよ。」
「何故だ?」
「アクシアンに、その程度の判断もつかないレベルの低い使用人はいないからだ」
そのサイラスの言葉はスッと頭と胸に入ってきた。納得。そうか、そうだな。
仕える家の家格が上がるほど高度な仕事が要求されるという事なのだから、この部屋を準備したメイドだって指示したメイド長だって、それに応えて来た人材達なのだろう。最終確認をした筈の執事だって…。
つまり、やはりこのベッドは、そういう事なのだ。
俺は、天井を仰いで息を吐いた。まだ公妃様に気構えを教わる前に、早々からこんな事にぶち当たるとは。
サイラスの友人として出入りしていた頃から、アクシアン家の主だった使用人には顔も知られ、良くしてもらっていたから、何とかなると思っていた。そんな自分の認識の余さを思い知らされる。たかが寝具、されど寝具。些細なミスを見なかった事にして許すのは簡単だが、それは後々の不忠と怠慢に繋がる。
そう考えれば、これはきっと最初の壁であり、チャンスでもあるんだろう。
俺は横で難しい顔をしたままベッドを見つめているサイラスに向き直り、頼んだ。
「……サイラス。悪いがこの部屋の設えをした者達を呼ぶようにジェンズに伝えてくれないか。俺がその者達に直接理由を聞こう」
「え、アル?それなら私が」
「いや。主に相応しいのか試されているのが俺ならば、これは俺がやるべき事だ。その為に婚約早々からこの屋敷に入ったのだからな」
「アル…。わかった」
納得してくれたのか、サイラスはテーブルの上にあった呼び鈴を鳴らして廊下で待機していた使用人を呼ぶ。入ってきたのは最近サイラス付きになったカリアンという少年だった。彼も男爵家の3男で行儀見習いをさせたいからと縁故伝てに引き受けたのだと聞いた。少し赤みがかった金髪の、なかなか綺麗な顔立ちをした少年で、14歳になったばかりらしい。
部屋に入ってきたカリアンは、静かにサイラスの近くまで歩いて来た。
「サイラス様、ご用でしょうか」
「ジェンズを呼んでくれ」
「かしこまりました」
カリアンはチラ、と此方の方も一瞥して小さく頭を下げてから部屋を出ていく。その後ろ姿を見送りながら、これからしなければならない事を思い、俺はまた溜息を吐いたのだった。
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