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40 蛍、本社に到着する

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 電話を終えた蛍は、若干急ぎめに弁当を食べ、足早に丹商に戻った。

 ロッカー室の前には、蛍と同じ作業服を着た中年女性が待っていた。先ほど電話で言っていた、交替要員として寄越された作業員である。
 蛍は女性と軽く挨拶を交わしてから、ササッと業務の引き継ぎ説明。その後ロッカー室に入り、作業着の上だけを私服の長袖パーカーに着替え、急いでビルを出た。

つい数日前梅雨入りしたと朝のニュースで聞いたのに、今年は空梅雨なのだろうか。若干湿度は感じるものの、晴天の日が続いている。けれど、通勤退勤の時間帯には気温が下がってやや肌寒い。なので蛍は、ブルーの薄手パーカーを愛用しているのだが…。
 日中でも風があるから涼しいかと思っていたら、歩いている内に暑くなってきた。結局脱いでリュックに仕舞い、半袖Tシャツ姿でてくてく歩く。
 最寄り駅に着いて、会社方面に向かう電車に乗り込むと、昼時を過ぎたばかりの車内はガラガラに空いていた。
 車両の真ん中辺りの座席のど真ん中を占領できて、ご満悦になる蛍。何だか贅沢な気分だ。弱く冷房がかかっていて、汗に濡れた肌を微風が撫でるのが気持ちいい。

(ふー、ちょー涼しい~)
 
 向かいの車窓には、青空をバックに大きなマンションやビルが見える。蛍は座席の背に凭れながら、流れていく景色をぼんやりと眺めた。
 いつもは働いている時間にこんなにゆっくりしている事にも、何故かテンションが上がる。

(あ、でも、何で呼ばれたかわかんないんだった。相談とか言ってたけど…)

 スマホ越しに聴いた妹尾の声や口調からは全然怒りを感じなかったのを思い出す。けれど、会社のお偉いさんが一介の現場社員に何の相談だなんて、何だか不思議だ。
 しかしすぐにこう思った。
 
(ま、行ってみたらわかるか!)

 派遣先の丹商から蛍が籍を置く清掃会社までは、徒歩と電車で二十五分ほど。時間的には、週一で家から出社する時とそう変わらなかった。因みに、家から丹商までは電車で二駅十分程度である。
 現場直行直帰万歳。
 そうして、のんびり普通電車に揺られること15分、降りて徒歩で数分。蛍は無事、目的地に到着した。
 

 週一で出社する時のように社員専用の通用口で社員証を提示して、エレベーターで六階のボタンを押す。六階は役員室のある階で、蛍はまだ一度も上がった事がない。
 到着音が鳴って、ドキドキしながら降り立つと、驚いた事にそこには二人の人間が待っていた。
一人は妹尾と思われる60前後の恰幅の良い男性、もう一人は、そのすぐ斜め後ろに立つ三十代後半ほどの女性社員である。
 そして妹尾と思しき男性は、蛍を見るとパッと明るい表情になり、両手を広げながら言った。

「やあやあやあやあ、白川君、お疲れ様お疲れ様!すまなかったね、急に呼び出したりしてね!びっくりさせちゃったよね!」
「えっ、あ、お疲れ様です~」

 ビンゴ。電話越しに聞いた声と話し方に間違いない。妹尾だと、蛍は確信した。しかし……。
 
(専務ってこんな感じだったっけ?)

 人を覚えるのは苦手だが、それにしたって違和感がある。ボヤッと残っている妹尾の印象は、もっとこう……とにかくこんな感じではなかった気がするのだ。どうとは言えないけれど。
 しかし、そんな蛍に気づかない妹尾は、「さあさあ、入って入って!座って座って!」と言いながら、蛍を専務室の中に誘導した。
 それから、蛍を来客用のソファに座らせると、自分もテーブルを挟んだ向かいに座り「飲み物は何が良いかな?暑かったろうから冷たい方が良いかい?近所の店で良ければ見るかい?」と、数枚のメニュー表を手渡してきた。
 『nobilis』で勤務していた数ヶ月の間に来店するお客達に甘やかされた事で、すっかり(会社の偉いおじさん達というものは優しい)と思い込んでいる蛍には、一切の遠慮がない。
 会社の2軒隣のカフェのメニュー表を開いて指差しながら、元気に言った。

「はい、結構暑かったです!じゃあこの、"ボラボラハートの珊瑚礁・青い恋の波間に揺れて"をお願いします!」
「ボ…なんて?」

 蛍のオーダーに困惑して、メニューを覗き込む妹尾。しかし、妹尾の後ろに立っていた女性社員の方は素早い対応を見せた。スマホを手に操作を始めたかと思うと、蛍に向かって確認するようにメニューの詠唱…いや、復唱をしたのだ。

「カフェ・ナックルダスターの"ボラボラハートの珊瑚礁・青い恋の波間に揺れて"ですね。専務はブラックでよろしいですよね。……オーダー通りました、五分ほどお待ちください」
「ありがとうございます!」
「新井君、ありがとう」
「いえ」

 新井と呼ばれた女性社員は、蛍と妹尾に頭を下げてから、部屋の出入り口ドアの前に立った。
 因みに"ボラボラハートの珊瑚礁・青い恋の波間に揺れて"という、やたら長ったらしいネーミングのメニューは、平たく言えばブルーのクリームソーダの上にハート型のクッキーを数枚差しただけのものである。
 このカフェは全てのメニューに長いネーミングがされているので、頗るめんどくさいで有名だった。しかし蛍はこの店がお気に入りで、週一の出社後には必ず寄って帰る。だからこそ、メニューの中からえらんだのだ。
 そして、実は妹尾の秘書っぽい女性社員・新井も、クールな見かけによらず、カフェ・ナックルダスターの常連なのだった。

 それはともかくとして。

 オーダーの到着を待つ数分を黙って待っている訳にはいかない妹尾は、深く腰掛け直した後、コホンと咳払いをしてから口を開いた。

「白川君、突然来てもらったのは他でもない」
「はい」

 先ほどよりも落ち着いた口振りに、思わず蛍も姿勢を正して座り直す。そんな蛍の目を見つめながら、妹尾は言った。

「白川君。相談…いや、社運を賭けて頼みたい。来週から、新たな勤務先に出向いてはくれないだろうか?」
「え…」

 目の前で座ったまま深々と頭を下げる妹尾。その白髪混じりの後頭部を、蛍は呆気にとられながら見つめた。



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